《光の蝶と闇の華》
住み慣れた街並みを眺めながら、町外れの空き地に設営されたサーカス会場へと歩く。
この町はカターレという。国の中心部に近く、比較的裕福な土地だ。古典的で上品な建築様式の建物が整然と並び、どうやら昔の街並みを残しつつ、古い建物から順に建て替えを行っているらしい。
貿易も盛んで、新鮮な食材や質の良い生活用品に困ることもない。この国の中でも、かなり住みやすい町だと思う。
ここに住み始めて二年目になるが、生活に不満はほとんどなかった。
(もっとも、貴族たちが統治権を狙って虎視眈々としているせいで、国からの監視は厳しいけれど)
現領主は体調不良で任期を早めに終える予定だって聞いたし、次の後任を巡ってきな臭い話も聞こえてくる。
厄介なことにならなければいいのだけれど。
……まあ、私はここに長居するつもりはない。
それでも、この一年で世話になった人たちが、これからも穏やかに暮らせることを願わずにはいられなかった。
そんなことを考えているうちに、視界の先に派手な色合いのテントが見えてきた。
その周囲はすでに多くの人で賑わっており、老人から子供まで、実にさまざまな客層が集まっている。
(帰りは馬車が捕まらないかも。終わったらまた歩いて帰ろうかな)
鉄道は診療所の近くを通っていないため論外だ。
終演時間次第ではすっかり日が落ちてしまう。女性一人で歩くには、少し心配な時間帯になるだろう。
(まあ、護身用のあれも持ってきているし、なんとかなるか)
まだ始まってもいないのに、そんなことを考えながらチケットを係員に見せ、巨大なテントの中へ入る。
案内された席は、中央の円形ステージ正面。遠すぎず近すぎない、なかなかの良席だった。
(あの患者さん、意外と裕福だったのかも)
しばらくすると、テント内の明かりが一斉に落ち、ステージにスポットライトが灯る。
そこに立っていたのは、上品な燕尾服を着こなし、シルクハットを手に深く一礼する、ブロンド髪の美しい青年だった。長い髪を背後で結い、どこか非現実的な雰囲気を纏っている。
「Ladies and gentlemen――ようこそ、我ら《サーカス・ルミナ》のショーへ。
私は団長のウィル。本日は皆さまを、一夜限りの夢へとご案内いたしましょう」
そう言って彼はシルクハットを軽やかに振り回す。
次の瞬間、その帽子の中から色鮮やかな花束があふれ出した。
それだけで会場はどよめき、拍手と歓声が巻き起こる。
「これはほんのご挨拶。これからご覧いただくのは、この国に伝わる昔話を織り交ぜた、さまざまな演目でございます。どうぞ、心ゆくまでお楽しみください」
スポットライトが消え、団長の姿は闇に溶けるように消えた。
再び光が灯ると、ステージ中央には、赤・白・青の鮮やかな衣装をまとい、笑みを貼り付けた仮面のピエロが立っていた。
彼の両手には、二体の女の子の操り人形。片方は白髪、もう片方は黒髪だ。
そして、澄んだ少女の声がテント内に響く。
「昔々――このガナード帝国には、二人の奇跡の乙女がいました。
一人は、不可能を可能にする《光の蝶》」
その言葉と同時に、無数の光の粒が宙に舞う。幻想的な空間に入り込んだような気分になる。
テントの奥から、白いドレスをまとったツインテールの少女が満面の笑みで駆け出し、ステージ中央でくるりと回る。
そして、彼女が高く手を掲げた瞬間――
その身体は、ふわりと宙へ浮かび上がった。
彼女はまるで蝶のように、軽やかにテントの中を舞い飛んだ。
するとどこからともなく、彼女とお揃いの衣装をまとい、どこか面影の似た少年が観客席の中から現れる。二人が手を取り合った瞬間、少年の身体もまた、ふわりと宙へ浮かび上がった。
――まるで、奇跡を見せられているみたいだ。
二人はテントのあちこちを飛び回り、ときに息を合わせ、目を見張るようなアクロバットを次々と披露する。
高難度の技が決まるたび、歓声が波のようにテント中へ広がっていった。
やがて少年少女は、ゆっくりとピエロの前へ降り立ち、深々と一礼をする。
その姿を包み込むように、舞台の灯りが静かに落ちていった。
ほどなくして、凛とした女性の声が、どこからか響く。
「――もう一人の乙女は、密かに国の脅威を消す《闇の華》」
その言葉と同時に、ステージの周囲から炎が噴き上がった。
赤く艶やかなドレスをまとった華麗な女性が、鞭を手に、黒豹を従えて奥から現れる。優雅な足取りで、炎に照らされたステージ中央へと進んでいく。
反対側――テントの入り口からは、よく鍛えられた褐色の身体をした男が、まるで闇そのものから現れたかのように姿を現し、ゆっくりと舞台へ上がった。
開幕からステージに立ち続けていたピエロは、いつの間にか、獣が潜り抜けられるほどの大きな輪を手にしている。それを炎へと近づけた。
次の瞬間、戦争の始まりを告げるかのような鐘の音が鳴り響いた。
女性は鞭を地面に叩きつけ、男は長い槍を構えて走り出す。
女性の前に立ちはだかる黒豹は、主を守ると言わんばかりに、男の槍を踏み台にして宙を舞った。
男は黒豹の動きを誘導するように槍を操り、その姿はまるで剣舞のようだ。
投げ上げられた炎の輪を、黒豹は一つ残らず見事に潜り抜けていく。
鋭く振るわれる槍と、黒豹の俊敏な動き。
観衆は誰一人として目を逸らすことができず、息を呑んだままステージを見つめていた。
やがて再び、女性の鞭が地面を打つ。
黒豹は男から離れ、演者たちは揃って観客に一礼をした。
その瞬間、張り詰めていた空気が解けたかのように、割れんばかりの拍手と喝采が轟いた。
「このように二人の乙女は、それぞれの奇跡をもって、この国を守り、強くした――」
物語の締めくくりとして響いたその声は、先ほどの澄んだ少女の声でも、凛々しい女性の声でもない。
低く、落ち着いた、心地よい男性の声だった。
その一言を合図に、演者たちと団長がステージ中央に集まり、円を描くようにして観衆へ深く一礼する。
客席からは、惜しみない拍手と歓声が降り注いだ。
見事だった。
すべての演者が、鮮やかで息を呑むような動きを見せていた。
……けれど。
私の視線が終始離れることがなかったのは、宙を舞う少年少女でも、黒豹を操る女性でも、槍を自在に振るう男でもない。
舞台の片隅で、目立つことなく、ただ黙々と補佐に徹していた――あのピエロだった。




