サーカスのチケット
「ありがとうございました、先生」
「はーい。お大事に〜」
机の前に座ったまま、ゆるりと患者に手を振るエルメ先生。
40代のはずなのに、そんな気配を微塵も感じさせない。黒く艶やかな長髪を無造作にクリップでまとめたそのマダムは、この町で唯一の医者であり、そして私の師匠でもある。
私たちはこの診療所を仕事場とし、二階で共に暮らしていた。
「お疲れ様でした、エルメ先生。これで今日の予約はすべて終了です」
「今日は早いわね。やっとゆっくりできるのかしら」
「急患が来なければ、ですが。先生はどうされますか?」
「そうねえ……部屋でゴロゴロするわ。リリィちゃんも適当に休んで〜」
「そうします」
軽く返事をしながら、私は診療所の開店札を裏返す。そして、ひとつにまとめていた白銀の髪をほどいた。
背中まで伸びる髪は、長時間結っていたせいか、ゆるやかな波を描いて肩に落ちる。アメジスト色の瞳との対比もあって、我ながらよく映える色合いだと思う。
「そうそう、今朝あなたが買い出しに行っている間にね」
エルメ先生が思い出したように言った。
「お隣に住んでいる患者さんから、お礼だってサーカスショーのチケットをもらったの」
「先週まで定期診察していた方ですか?」
「そうよ。毎晩ひどい頭痛に悩まされて、悪夢にうなされて、朝起きると覚えのない傷が増えてるって言ってた人」
……あの原因不明の症例。
「結局、原因は分からないままでしたよね。頭痛薬だけで大丈夫だったんでしょうか」
「まあ、症状はかなり落ち着いたし、経過観察ってことで。でね〜」
先生は間延びした口調のまま続ける。
「そのお礼がサーカスのチケット。有名な移動サーカスで、今夜の公演はなかなか取れないらしいの。でも私はゴロゴロする予定だから……リリィちゃん、行かない?」
……こんな怠け者が、この町一番の医者で本当に大丈夫なのだろうか。
患者にもこの調子なので、初診の人にはそれなりに不安を与えている気がする。
まあ、今は診察中じゃないし、いいか。
心の中で小さくため息をつき、私は答えた。
「……私が行きます。サーカス、見たことないですし」
本当はそれほど興味があるわけでもない。
けれど、せっかくの好意を無下にするわけにもいかない。
チケットを受け取り、自室へ戻って外出の準備をする。
開演は十八時半。まだ一時間ほど余裕がある。会場までは少し距離があるが、歩けないほどではない。ゆっくり三十分ほどかけて向かうことにした。




