ラヒル・ジャスポー
彼は降りた時と同じように周囲を見回してから、私に手を差し出した。
私も階段を上り、差し出されたその手を取る。
二人とも地上に戻り、再び扉を閉めた。
残るはサックスに知らせ、この屋敷から立ち去るだけだ。
私たちは倉庫の出口へ向かって歩き出した。
ドアノブに手が届く距離になった、その時。
カイが私の前に出て、手で制する。
「……なんか、いる」
「っ……!」
思わず息を飲んだ。
私たちは身を隠すように壁に寄り、カイは扉をわずかに開けて外を覗いた。
私は彼の表情が見えるよう、横から視線を向ける。
「……っ」
彼の目が、ほんのわずかに見開かれた。
何を見たのだろう。
次の瞬間、カイは片手で私を抱き上げ、もう片方の手で刀を構え、一気に扉を開けて飛び出した。
視界に飛び込んできたのは、奇妙な姿勢で屋敷内を徘徊する五人の人影。
――あの夜と、同じだ。
幸い、彼らはこちらにまだ気づいていない。
カイは刀を構え、最も近い人影へ斬りかかろうとした。
だが、私はすぐにそれを止めた。
「殺しちゃだめ。これを使って」
カイの動きが止まる。
私はポーチから、長細い針の入った筒を取り出した。
「鎮静剤と、アイリスを中和する薬を染み込ませた針。これなら、殺さずに無力化できるはず」
エルメさんの調合を参考に、少量で効果を発揮するよう調整した中和剤。
診療所に戻ってから、急いで作ったものの一つだ。
領主邸で事件を起こせば、お互いの立場が危うくなる。
そうならないための、万が一の策だった。
カイは刀を納め、筒から一本針を取る。
(彼の腕前なら、できる)
カイは針を構え、最も近い暴走者へ投げた。
見事に命中し、その人物は五秒と経たずに意識を失う。
(うまくいった)
正直、自信はなかった。
調合はしたものの、試す時間も機会もなかったのだ。
だが効果が確認できた以上、あとは同じだ。
カイは次々と針を投げ、暴走者たちを無力化していく。
最後の一人が倒れた、その瞬間。
――パン、パン、パン。
拍手の音が、上方から響き渡った。
私たちは中央の階段を見上げる。
そこには、丸眼鏡をかけた、三十代ほどに見える緑髪の男が立っていた。
「いやぁ、すごいすごい。アイリスで強化された使用人たちを、いとも簡単に倒すとは」
彼は、実に楽しそうにこちらを見下ろしている。
私はカイに下ろしてもらい、男に問いかけた。
「あなたが、アイリスの開発者?」
その問いに、男は不気味に笑った。
「ヒッヒッヒ……そう! この僕!
ラヒル・ジャスポーこそが、この素晴らしきアイリスの開発者なのだ!」
沈黙が落ちた。
これほど高いテンションで名乗る人物は、初めて見た。
こちらの反応の薄さなど意にも介さず、男――ラヒルは私を見て、言葉を続ける。
「今朝、領主に頭痛薬を渡したのは君かね?」
「……それが何か」
警戒しつつ、答える。
「あれは素晴らしい!
アイリスの性質を理解し、それに対抗する薬を作り出すとは!
ぜひ君とは、僕の研究について語り合いたい!」
私は無言で彼を見つめ返した。
根っからの研究者。
自分の研究を語りたくて仕方がない、そんな人種だ。
だが、あの薬を作ったのはエルメさんだ。
私に語られても困る。
「あなたは、何がしたいの?」
情報を引き出すことに徹する。
「いい質問だね!
僕はね――奇跡を作りたいのだよ!」
奇跡。
この国でその言葉から連想されるものは、ひとつしかない。
――『光の蝶と闇の華』。
この国を強くした、二人の“奇跡の乙女”。
「僕はね、奇跡を作り出すだけじゃない。それを――全員に分け与えてやりたいんだ!
奇跡を独り占めするなんて、勿体ないだろう!」
語れば語るほど、彼の目は狂気に満ちていく。
「その結果、生み出したのがアイリスっていうことね」
私は彼の言葉を整理するように言った。
「そのとーおり!
常人離れした身体能力と、一から百までを理解する非凡な頭脳を与えられる、素晴らしい薬だ!
頭の硬い凡人どもはこの研究を認めなかったけど……アイリスに対抗できる薬を作った君なら、分かってくれるだろう?」
彼は愉悦に満ちた視線を、真っ直ぐ私に向けてくる。
ペラペラと情報を吐き出してくれていると思ったら、どうやらこれは勧誘のためのプレゼンらしい。
とことん研究者気質の人だ。
(ここは、もう少し揺さぶって情報を引き出そう)
「そのわりには、あまり上手くいってないみたいだけど」
「あー、それには僕も参っているよ。
凡人には奇跡の力は身に余るらしい。ほとんどは脳が負荷に耐えきれず、頭痛や悪夢に魘されて、挙げ句の果てには自傷行為に走ってしまう。本当に嘆かわしいよ」
彼は肩をすくめる。
「僕も研究を重ねているんだけどね、全然うまく調整できないのだよ。
だから君の中和剤は、とても興味深い!
それと組み合わせれば、アイリスは今度こそ完成する!」
「……どうやって実験したのか、教えてくれる?」
「興味を持ってくれるんだね、嬉しいよ!
簡単さ。ここの領主はとんだお人好しでね。夢のために研究したいと言ったら、すぐに支援してくれた。
あとは領主が贔屓にしてる商人を懐柔して、
安価でばら撒いてくれるよう交渉したな。
それからお礼として、僕はアイリスを少量、食事に混ぜて――奇跡の力を分け与えたんだ」
ラヒルは、どこか誇らしげに続ける。
「領主は資質が良かった。アイリスに、かなり適応できたよ!」
――まあ、結局は副作用が出ちゃったけど。
彼は最後に、そう付け加えた。
なるほど。
アイリスの作用は、かなり個人差があるらしい。
一般人ならすぐ副作用が出るが、領主様は長く耐えられた。
それが、今も暴走していない理由なのだろう。
「どうだい? 僕の研究に参加してくれるかな」
彼は誘うように、私へ手を差し伸べた。
私はそれを見て、ただ冷静に答える。
「謹んで、お断りするよ」




