母の初恋
私はまた夜に母の日記を読んでみる。
今度は野口健太郎さんのことを強く念じた。
~母の日記より~
私はあの震災の時、野口さんが近くにいないことがとても不安だった。
彼は大学4年生ではあったが、あの時、彼は会社の研修で関東にいなかった。
「野口さん、野口さん」
「けんたろうさん・・・。」
私は強く彼のことを思っていた。
そんな時、茜さんが私の店に来たのだ。
彼女は虫の知らせで東京に帰ってきた。
でも、なぜ私が働いている神田まできたのだろう?
彼女の家は小金井だ。
後から知ったことだが、私はその時まで、茜さんが野口さんの元カレだとか気が付かなかった。
そんなことも知らずに、野口さんとお付き合いをしていた。
茜さんに言われるまで、本当に知らなかったのだ。
「ねぇ、加奈子ちゃん、私ね、以前、野口君と付き合ってたの」
あの震災から半年後、彼女は私にぼそっと言った。
私は声が出なかった。
「加奈子ちゃんが野口君と付き合ってるんじゃないかなあって気が付いてたよ」
「いえ、その私たち、まだ浅いです。付き合い始めてから」
「いいのよ。ごめんね。こんなこと打ち明けて。私ね、野口君とは2年生の時、つまりカナダに行くって決めた時、捨てたの。ううん、正確に言うと、恋人は今はいらないって宣言したの」
「そ、そうなんですか?でもなぜ?」
「私の夢はアルピニストになって、世界中の山を登りたい。でも野口君は危ないって言ったの。危険な山だけはやめてほしいって。だから恋人は私の夢の邪魔になる。だからお付き合いはやめたの」
「でもわかります。というか、相手が男の人でも、あまり危険な山にはいってほしくない。野口さんも冬山とか好きだし、一人で行ってしまうので、とても心配なんです」
「そっか、野口め。加奈子ちゃんを心配させやがって」
私はなんだか、いたたまれない気持ちになってきた。
茜さんが振った元カレと、私は付き合っている。
その元カレに対して、軽口をたたく茜さんは、いつもの尊敬できる茜さんとは違って見えた。
「実を言うとね、茜さんのお店にちょっと顔を出してほしいって言ったのは野口君なの」
え?嘘・・。
「あの日、私は大学の部室にいたのよ。一人で。そして物凄い揺れを感じて、大学を飛び出したの。尋常じゃない揺れに、私は今まで感じたことのない恐怖を感じたの。その時、野口君から電話が来て、茜の所を見にいてほしいって頼まれたのよ。だからキャンパスから近い神田の店に、すぐに行けた」
なんだ、そうだったのか。
私はなんだか野口さんが私ではなく、茜さんに電話したことを嫉妬した。
それと同時に、野口さんのことを少し信じられなくなっていた。
「ごめん、言わない方がよかった? なんとなく加奈子ちゃん、最近、野口君と上手くいてないのかって」
「もしかして、茜さん、野口さんから相談されました?」
図星だった。
野口さんは、私と最近上手くいってないと、茜さんに相談していたのだった。
「私、今は東北のボランティアで忙しくて、今日、部室に来たのは退部届を出すためです」
茜さんは絶句した。
「なんで、どうしたの?もったいないよ。休部でもいいから。退部なんて」
私は退部するには意味があった。
東北のボランティアは本当に人手が必要なこと。
野口さんは、それをあまり良しとしていない。
「彼の束縛に嫌気がさしてきたのね。わかる。私もだったから」
すっかり私と茜さんとは意気投合してしまった。
「わかった。野口君には言っておく。すこし時間をあげなって」
私は退部届だけでなく、初恋も捨てたのだ。
いや、恋に恋してだけの、幼くて淡い恋を捨てたのだ。
今、決別し、私は東北を助ける。
その決意は固かった。




