前編
一、
僕には子供の頃から、他人に理解されない感覚があった。なぜかバカにされて、ハブられて、気が付けば孤立無援になっている。小学生の頃から(父親の仕事の都合で転校が多かったせいもあっただろうが)友達の輪の中に入れず、いつも一人ぼっちで図書館で本ばかり読んでいたし、一浪して入学した医科大学でも、友達は少ない方だった。
だが、そんな僕でもこれまで生きてこられたのは、勉強が得意だったからだと思う。学生にとっての勉強は一人でできる最大の生産行為だし、僕が通っていた進学校の高校や、医科大学のような勉強ができる人が集まっている空間に身を置けば、周りにいじめてくるやつもいないし、外の社会からはむしろ敬意をもって接してもらえる。
僕は時々思う、「自分は特別な人間だから、他人に理解されないのだろう」と。おっと、自己紹介が遅れた。僕は、本名は伏せるが、精神科医をしている二十代の男性だ。医師として働き始めてから、今年で三年目の、まだ駆け出しの精神科医だ。
僕はまだほんの新米医師に過ぎないのだが、すでに現状には飽き飽きしている。(僕は自分の正確なIQを測ったことはないが)僕よりもIQがはるかに低いであろう看護師、心理士といったコメディカルとの付き合いにもうんざりしているし(彼らはときに、僕に向かって「もっと患者さんに寄り添ってください」などと小言まで言ってくる)、先輩の医師にもそれほど頭の良さそうな者はいない。ちなみに僕は「さいとうメンタルクリニック」という郊外にある小さなクリニックに勤務しているのだが、医院長の斎藤も私立医大の出身で、公立医大出身の僕からすれば、偏差値と言う意味では格下である。
患者はもっと扱いづらい。そもそも、IQの低い人間が精神科の病気になるのだろうし、彼らの多くは仕事すらしていないような、社会の落ちこぼれだ。はっきり言って、あんな連中と話をしても、時間の無駄である。最初から話が通じる連中ではないのだから。
今日も、こんなことがあった。大川という五十代の統合失調症患者を診察していたときのことだ。大川には身寄りがおらず、しかし身の回りのことは自分で一通りできるから、生活保護を受けながら一人暮らしをしている。その時点でお察しというものだが、彼は症状が落ち着いている今でさえも、時折、支離滅裂なことを言う。いつものことなのだが、今日の診察でも、一通り問診が終わって間ができたときに、彼は得意そうな顔をして、
「先生、この間大物芸能人のAが離婚したでしょう。あれは、私が彼の最近の暴走を戒めるために、お天道に願をかけたからなんですよ。」
と戯けたことを言ってきた。「お天道」と言うのは、彼が崇めている神だか仏だかわからないが、まあそんなところだ。おそらく病気の症状の名残りだろうが、彼は自分に、その「お天道」を介して世界に影響を与える力が備わっていると、本気で信じているようなのだ。きっと、自分が何もできない社会の最底辺の人間だという事実から目をそらすために、そのような誇大妄想を膨らましているのだろう。正気の沙汰とは思えない。
これまでは、こういう患者の戯言にも、ある程度は付き合ってきた。一応は、医学部で「患者に寄り添うことが大事」という教育を受けてきたし、斎藤医院長にもそのセリフは、ことあるごとに言われてきたからだ。だが、今日の僕は虫歯を我慢して診察にあたっていたこともあって、虫の居所が悪かった。おまけに本当のことを言うと、「患者をどこまで挑発することが許容されるのか」という疑問は今までも少なからず頭にあって、前々からギリギリのラインで患者をおちょくってやりたい、という願望も、心の片隅にあった。第一、こんな福祉に頼って、ダラダラと生きているだけの「弱者」に、僕のような優れた人間がまともに相手をしてやるのは、無駄以外の何物でもない。
大川のセリフを耳にしたとき、僕は、心臓がドクン、ドクンと波打つのを感じた。仮に僕が、素っ気ない対応をしたら、やつはどういう反応をするのだろう?怒って暴れだす?仮にそうだったとしても、大学時代に柔道部に所属していた僕が、こんなひ弱そうなやつにやられるわけはないだろう。怒鳴りだす?他のスタッフの目につくことにはなってしまうが、相手は統合失調症患者なのだから、「そういうこともあるだろう」で済むだろう。そうか、仮にやつを本気で怒らせたとしても、僕には恐れるものなんかないんだ―
そこまで瞬時に考えて、僕はわざとらしく高笑いをして、
「それはあなたの行動とは、何の関係もありませんよ。そういうありもしないストーリーを脳が作り出すことを、私たちは『妄想状態』と呼んでいるんです。大丈夫ですか?そんなことを平気で口にするなんて、薬が足りないのかなあ?」
と返事をした。大川は数秒間、こちらが言った内容を受け止められなかったようで、目をパチクリさせていたが、その後、ようやく僕の皮肉を理解できたようで、顔を引きつらせ、充血した目でこちらを睨みつけてきた。だが、それだけのことで、処方箋を渡すと、すごすごと診察室を後にした。
実に愉快な体験だった。仕事をしていて楽しいと思えた、初めての瞬間だったかもしれない。この遊びを、しばらく続けてみようと思った。
二、
僕の別の患者で、山中という三十代の男性患者もいる。彼は仕事のミスが多かったり、職場でのコミュニケーションが苦手だったりで、同じ仕事が二年以上続いたことがないらしい。いわゆるFランク大学を卒業して、ブラック企業に営業として入社、そこを一年半で辞めて、その後は非正規の職を転々としているらしい。彼は口癖のように、「将来が不安だ、将来が不安だ」と言う。彼の現状を鑑みると、「そりゃあ、そうでしょうね」としか言いようがないわけだが。
一年前の初診の際は、適応障害という診断を下したが、よくよく成育歴などを追っていくと、根底にADHD傾向とASD傾向の両方の高さがあるらしいことがわかってきた。知能検査の結果は平均程度だったのだが、なにせ集中力が持続せず、忘れっぽい。しかも、空気が読めず、場の調和を乱すような発言をしてしまうこともある。彼のボロボロの経歴も、納得である。
ちなみに僕は、色々な種類がある精神科の病気の中でも、発達障害ほどたちが悪いものはないと思っている。うつ病や適応障害なら、薬を飲んで療養して、転職するなどしてストレスが多い環境を避ければ、改善する可能性もある。だが、発達障害の患者は、二次障害としての精神の変調から精神科にやってくることが多いのだが、彼らはいくらその精神の変調を治療しても、原因が環境ではなく、本人の脳の作りによるものだから、きりがないのである。
究極を言うと、彼らには社会から退場してもらうしかないのだが、彼らにも生活があるものだから、そう簡単にはいかない。しかも彼らは多くの場合、子供時代は普通学級に通っているから、大人になってから社会から脱落することを、プライドが許さないケースも多い。彼らは、社会というリングでいくらタコ殴りにされて倒されても、それでもなお、立ち上がろうとする。いや、彼らにとっては、立ち上がるしか生きる道がないのである。統合失調症や双極性障害などの重い精神疾患ならともかく、とくに軽度の発達障害だけでは、なかなか生活保護にも頼れないのが実情だからだ。
軽度の発達障害当事者の社会適応の問題は、こちらとしても気が滅入る問題である。彼らは今の社会に生きることに向いていない素養を抱えているだけなので、そもそも根本的な解決策などないし、まともに相手をすると底なしの蟻地獄に吸い込まれていくようで、ただただ疲弊するばかりである。
僕は、山中の診察の時間が、いつも憂鬱だった。彼は不安を語りだすと、歯止めが利かないのである。聞いているこちらが滅入ってしまう。「患者に寄り添う」スタンスを続ける限りは無碍に話を切り上げるわけにもいかなかったのだが、彼の診察が長引いて、その後のスケジュールに影響することも、しばしばだった。
だが、先述の大川との一件の後、僕は山中に対してもイタズラをしてやりたくなってしまった。もう、受け身の診察は辞めたかった。真面目に勤務を続けている医師である僕の言うことと、職を転々としているただの落ちこぼれの患者の言うことの、どちらが説得力があるかは、考えるまでもないことだ。仮に僕が山中に嫌味を言って、彼がそれを他のスタッフに漏らしたとしても、患者の陰性転移(患者がネガネティブな感情を治療者に向けること)や嫉妬ということにしてしまえば、何の問題も生じないだろう。
そこまで考えて、僕は先日の診察の際に、「仕事が見つからない」(彼はその二か月前にまた仕事を辞めて、実家で親のすねをかじりながら、職探しをしていた)と嘆く山中を前にして、
「私は職業カウンセラーではありません。相談する相手を間違えていませんか?そういうことだから、『空気を読めない』と言われるんじゃないですか?」
と、きっぱりと言い放った。さすがに大川とは違って、山中は僕の発言の意図するところを瞬時に理解したようで、涙目になって、下を向いて黙り込んでしまった。効果は覿面だった。
こういう調子で、最近の僕は、仕事中にちょっとしたゲームを楽しんでいる。どこまで逸脱が許されるか、というゲームを、だ。
このことに関連して、実は今日、高田というクリニックの先輩医師に呼び出されて、「大川さんとの間に何かありましたか?先生にバカにされた、と怒っておられたのですが?」と問いただされたところだった。僕は一瞬、ドギマギしたが、脳内で予行演習していた通り、
「バカにするなんて、とんでもない。そのようなことを仰っていましたか。ちょっとした冗談を言って笑わそうとしたら、こっちだけが笑っていて大川さんは笑ってくれなかったことがあったので、少し心配していましたが。大川さんは病気の症状で、被害的になっておられるのだと思います。」
と、済ました顔で答えて、それ以上はお咎めなしだった。「患者にはユーモアを理解する柔軟性がない」というのは、精神科の医療スタッフの共通認識なのだ。
思っていた通り、ちょろいものである。患者もスタッフも含めて、皆、バカばかりだ。このイタズラは、頭の悪い人間に囲まれて退屈していた僕の平板な生活に、ちょっとしたスリルと彩りを与えてくれるようである。もちろん、こんな本音がバレてしまえば、一環の終わりだ。だが、僕はそんな下手は打たない。この優れた頭脳を生かして、完全犯罪を実行してやるつもりだ。
三、
僕が例のイタズラを始めてから、もう数か月が経った。今のところ、他のスタッフにはバレていないし、トラブルが生じたこともない。しかし今はもう、イタズラを楽しめなくなってきている。例えば最近、こんなことがあった。
田中という双極性障害を抱える三十代の男性患者を診ていたときのことだ。この患者は妙に弁が経つというか、こちらの治療方針に、いちいち反論してくる。それまで処方していた薬が合わなかったということだったので、炭酸リチウム(双極性障害の治療薬の一つ。血中濃度が高まると中毒の恐れがあるので、処方の際には定期的な血液検査が必要とされる)の処方を提案したところ、
「血液検査もなしで処方するんですか?」
と執拗に問い詰めてきた。僕は正直、採血は苦手だ。今までにも炭酸リチウムは何人かの患者に血液検査なしで処方してきたが、とくに問題は生じてこなかったので、今回もそうしようと考えていたのだが、彼は普段の大人しさとはうってかわって、炭酸リチウムのリスクについて、延々と話しはじめた。僕も、
「ネットで読みかじった知識で適当なことを言ってはいけません。」
と反論したが、一向にこちらの言うことに耳を貸さない。僕の医師としてのカンを信用していないことは明らかで、かなり不愉快になった。だから頭にきて、
「あなたは、僕の言うことを理解できないようですね。どうやら、知的な能力と、性格の柔軟性に問題を抱えておられるようだ。」
と、相手の話を強引に遮ったところ、普段の穏やかな表情からは想像もできないような鋭い目つきでこちらを睨んできた。その目つきの鋭さは、まるで僕の心の深い部分にまで突き刺さるかのようだった。僕はさすがに少し恐ろしくなって、リチウムの処方を取りやめた。
こんな調子で、最近は、患者がこちらに向ける敵意に敏感になってきている。言葉で罵られたことは今のところないのだが、田中の事例のように、彼らが時折見せる鋭い眼光や、ちょっとした身振り、ため息などの非言語のメッセージを受け取るたびに、僕が彼らからの敵意にさらされていることを、汲み取らざるをえないのである。
ひょっとするとこれは、僕の考えすぎなのかもしれない。だが、よくよく考えると恐ろしくなってきた。なにせ、彼らの多くは、失うものがない存在なのだ。金も、社会的地位も、守るべき家庭もない。そういう人間が僕に対して強い反感を抱くようになれば、彼らが奥底に抱える狂暴性が僕に向けられたとて、不思議ではない。
僕は最近、不眠気味だ。悪夢にうなされることが多いのだ。悪夢の内容は、患者に関係あることもあれば、ないこともあるのだが、一番恐ろしかった悪夢は、患者たちや病院のスタッフが実は裏で共謀していて、僕が診察室で患者に言い放った言葉がすべて録音されており、それを根拠に僕が斎藤医院長から今までの悪事を告白するように強要され、最後には医師免許を剥奪される、というものだった。もちろん現実的に考えればそんなことは起こりようがないのだが、それでも妙にリアルな夢で、僕はうなされて、午前三時に中途覚醒することになってしまった。
こうしたこともあってか、僕は最近、気分がさえない。そして、このことは僕の中で深刻な悩みになっていたのだが、まさか、他のスタッフに相談するわけにもいかない。僕はどうやら、パンドラの箱を開けてしまったようである。患者たちの心の奥底に秘められた悪意という、呪いの箱を、だ。
今の僕は、精神科医になってしまったことを、深く後悔している。底辺の人間ほど心が醜いに決まっているのだから、そのような人間と関わり合いになることを、最初から避けておけばよかったのだ。ひょっとすると僕は、キリストのように人類の業を背負って死ぬ運命なのかもしれない。そう、これは患者からの逆恨みに過ぎず、僕に落ち度はないし、人間という生物の愚かさがもたらした、災厄なのだ。
ところで僕は最近、ブログを書き始めた。精神科医療の闇を暴露するブログだ。現状の保険点数の在り方では、一人の精神科医が多くの患者を抱えねばクリニックの経営が成り立たないため、いわゆる「五分診療」は必然であることや、障害年金や福祉事業所など、精神障害者を支えるはずの福祉制度がいかに脆弱であるかということを、精神科医目線で赤裸々に告白したものである。
今のところブログに読者はほとんどついていないが、このブログを書くことで、敵意を向けてくる患者にさえ、僕が慈悲の心をもって接している事実を、再認識できている。ブログを通じて僕が社会を変えることができれば、「金も、社会的地位も、守るべき家庭もない」彼らの惨めな人生も、少しは改善するかもしれない。患者たちは、僕のこうした影の努力を、何もわかってはいないのである。
親と子供、教師と生徒、こういったはっきりした上下関係のもとでは、下の立場の者が上の立場の者の真意を理解できないことが常だろう。そう、患者よりも上の立場にある者として、精神科医にも忍耐が必要なのだ。親が未熟な子供を見守るような寛大な心で、患者に接することが大事なのである。
四、
今日は、散々な目にあった。こんな屈辱は、今までに味わったことがないかもしれない。どういうことかというと、今日の診察が終わった後に、斎藤医院長に急に呼び出されて、延々と説教を聞かされる羽目になったのだ。
なんでも、山中がネットで僕を批判する内容のクリニックへの口コミを書いたらしかった。斎藤に見せられたその口コミの内容は、以下のようなものだった。
「このクリニックの本田という若い医師は、患者のことを完全に見下している。発達障害を抱える私に対して、『驚くくらいに空気が読めない。そんなことだから社会でやっていけないのだ。』と何度も言ってきた。医学部を卒業して、医師の世界以外の社会を知らない若者に、どうしてそんなことが言えるのか。しかも彼は、私よりも年下なのに。」
この口コミを見たとき、正直に言うと、僕はかなり焦った。僕が山中を挑発するようなことを繰り返し言ったのは、揺るぎのない事実だったからである。もちろん、斎藤に対してそんなことを素直に認めるわけにはいかないので、僕は背筋が凍る思いがしつつも、適当に取り繕うようなことを言って誤魔化そうとした。が、斎藤はいつになく厳しい口調で、執拗に問い詰めてきた。
実は、山中はここ最近僕の診察に来ていなかった。ある日、予約を急にキャンセルしたかと思ったら、しばらくして他のクリニックから、「障害者手帳の更新のために必要だから」ということで、僕が彼を診察していた頃のカルテの提出を求められた。これはつまり、彼が僕に黙って転院していたらしいということだった。
正直、こういうことが起こるのは、医師としてあまり気持ちの良いものではない。だが、どうやら僕のクリニックの他のスタッフに、僕についての不満を告げ口していたわけでもないようだったし、僕はクリニックの経営者ではなくて固定給を貰う身分だから、患者が一人減ったところで、痛くもかゆくもない。
だから、大して気にも留めていなくて、もう山中の存在自体を忘れかけていたのだが、まさかの形で彼の存在を再認識することになった。とんでもないことをしてくれたものだ。インターネットは恐ろしい。こんな具合で、言葉尻だけを切り取ってくるような消費者の口コミばかり気にしていたら、厳しい意見も言えなくなってしまうし、まともな医療など提供できなくなってしまうではないか!
斎藤は、今日の説教を、
「先生はもう、独り立ちした立派な医師なのです。その自覚をもって、行動されることを望みます。」
と言って、締めくくった。よくもまあ、わかったようなセリフを言ってくれたものだ。斎藤も、どうせ同じルーティンの繰り返しで年齢ばかりを重ねた老害に過ぎないし、社会を変えようとか、理想なんてとっくの昔に忘れてしまっているに違いないのだ。そんなやつが、勇気を出して、実名でブログを書いて日本の精神科医療を変えるべく尽力している僕に意見をするとは。
大体、斎藤が卒業した大学の偏差値と、僕が卒業した大学の偏差値を比べてみれば、どちらが医師としての素養が高いかは、すぐにわかりそうなものである。「患者に寄り添う」?ふざけるな、道理がわからない者どもの言うことをいちいち尊重していたら、有効な治療などできなくなってしまう。僕が尊敬するフロイトも、精神科臨床における、治療者の父性の重要性を説いていた。
ああ、本当に許せない。僕に赤っ恥をかかせた斎藤もそうだが、それ以上に、そのきっかけを作った山中を、心の底から許せない。あれだけ良くしてやっていたのに、そのことを理解できず、僕を裏切ったのだ。そうか、やつは発達障害だったか。発達障害だから、僕を逆恨みしたに違いない。いや、愛着形成の問題か?僕を理想化していた反動で、陰性転移を起こしたのかもしれない。いずれにせよ、思考の柔軟性がないことが大きいのだろう。バカげた話だ。
そういえば、田中や大川も、最近目にしていない。気にかけてもいなかったが、彼らもフェードアウトしたということか。恩知らずなやつらだ。仮に、彼らも口コミで僕のことを攻撃してきたとしても、こちらとしてはただ受け身でいるしかないわけか。
患者であるということを逆手に取った攻撃、いわゆるモンスターペイシェントというやつらしい。実に醜い。やはり、精神障害者たちはこの世の醜い部分を凝縮した存在のようだ。絶対に許せないし、彼らに一泡吹かせることは、社会にとってもプラスになるだろう。何の生産性もなく、福祉におんぶにだっこのやつらなのだから。覚えとけ、いつか必ず復讐してやる。僕がやらなければ、誰がやる?
とはいえ、冷静かつ客観的に考えると、今の情勢で患者への敵意を露わにすることは、賢明とは思えない。これ以上こちらの体勢を崩されれば、それこそ前に夢で見たように、医師免許を失うような事態にだって、発展しかねない。僕は悔しい。心の底から悔しいが、ここは我慢だ。今の僕にできることは、臥薪嘗胆の思いで屈辱の日々を耐え忍ぶことだ。我慢していれば、いずれ必ず、情勢は変わる。精神障害者どもへの復讐の機会は、きっと訪れるはずだ。虎視眈々とそれを待つことが、今の僕に取れる、最善策なのだ。
五、
今日の昼休みにテレビを見ていたときに、すごい事件が起こったことを知った。なんでも、マンションの一階にあった皮膚科のクリニックが放火され、クリニックのスタッフやマンションの住人など、計十五名が命を落としたという話だった。さらに、犯人の森山とかいう男は、統合失調症をはじめ、いくつかの精神科の病気にかかっていたらしい。
件の斎藤からの叱責の後、僕は努めて患者たちへの怒りに目を向けないようにしてきたのだが、この事件(世間では、西田クリニック放火事件と呼ばれている)の報道を目にして、やつらへの抑えがたい憎悪の感情が、再び燃え上がってくるのを感じた。「社会のゴミ」という表現があるが、やつらほどこの表現がしっくりくる存在も、ないのではないだろうか。森山は極端な例かもしれないが、精神科の患者は心が汚い。山中が僕を貶めようとしてきたことを見ても、明らかではないか!
昼休みに事件を知ってから、今日は空いた時間にずっと、事件についての報道や森山の個人的な情報について、ネットで調べてきた。得た情報をベースに、僕の天才的な頭脳をフル回転させて、森山の人物像と事件について立体的かつ複合的に分析したところ、彼が持つ致命的なまでの「弱さ」というテーマが浮き彫りになった。
森山は、家庭では父親に虐待され、学校では不良グループにいじめのターゲットにされ、子供の頃からまともな人間関係を築けたことがないようだった。愛着形成に問題があることは明らかだ。一方で、今回放火されたクリニックの西田医院長は人格者として知られていたようで、森山に対しても親身に接していたらしい。皮膚科の診察を機械的にこなすだけでなく、生活の悩みの相談にも度々乗っていたようだった。
おそらく、愛着形成に問題を抱えており、生来の人間不信に陥っていた森山は、西田医院長の親切心に戸惑い、さらに自分に危害を加えてこないことから勝手に下に見て、攻撃してもよい対象とみなしてしまったのだろう。この身勝手さは、まさに彼の「弱さ」によるものである。その弱さゆえに、自らの抱える攻撃性を、直接危害を加えてくる相手に向けることができず、優しく接してくる相手に牙を剥いてしまう結果になったのだ!
この結論に至ったとき、「我ながら、なんという名推理だろう!」と、感激せずにはいられなかった。シャーロック・ホームズも顔負けの名推理である(ちなみに僕は、子供時代にシャーロック・ホームズを愛読していた)。
この素晴らしい理論を、一刻も早く世間と共有しなければ!この名推理と、それを生み出した僕の頭脳の優秀さを、世間は惜しみなく称賛するだろう!
そう思った僕は、仕事を終えると一直線に帰宅し、パソコンの画面に向かった。西田クリニック放火事件に関するブログ記事を書くためである。自分でも驚くくらい、滑らかに筆が進んだ。頭にあったのはただ一つ。「できるだけ過激な記事を」だ。
皆、最初から森山を死刑にするしかないと、わかっているのだ。だが、日本の法制度の欠陥のせいで、それができない可能性がある。重い罪を犯した者でも、精神鑑定の結果次第では、有罪にならないこともあるからだ。ネットを見た限りでは、事件直後の今でさえ、そのことを危惧する書き込みが多かった。当然このことは、これから大きな議論を呼ぶだろう。
そこで僕が先手を打って、精神科医という専門家の立場から、大衆心理を全面的に肯定する。つまり、森山は死刑に値する人間だと、断言する。理由はなんでもいい、そうだな、とりあえず「灯油やライターを準備するなど、計画性が見られる」ことや、「二年前の時点で彼の統合失調症の症状は寛解したという診断を受けていた」ことを引き合いに出すとするか。一番大切な、森山の「弱さ」に関する記述も忘れずに。それから、僕が攻撃したいのはあくまで森山と、彼が犯した罪であって、精神障害者全般を攻撃する意図はないことも、(あくまでポーズだが)はっきりとさせておこう。
正直に言うと、おわかりの通り、僕は精神障害者たちが大嫌いだ。できることなら森山だけでなく、精神障害者全員を叩きたい。だが、今はそのための大義名分がない。現状、容赦なく叩けるのは、森山だけだ。そしてその際に、僕が医療従事者として精神障害者たちを庇う姿勢を見せれば、大衆から見れば私の怒りが森山の行いに対する純粋な憤りによるものであり、まさか僕が精神障害者たちを憎んでいるとは思うまい。そう、これは復讐の第一歩なのだ。いきなり精神障害者全員を叩くのは無理があるが、世論を味方につければ、いずれその機会も訪れるかもしれない。大事を成すには、外堀から徐々に切り崩していくことが大事なのだ。
・・・まだ二時間くらいしか経っていないというのに、もう五千文字以上書いてしまった。僕には作家の才能もあるのかもしれないな。おっと、余計なことを考える前に、よく推敲しないと・・。うん、我ながら素晴らしい出来栄えだ。きちんと理由を明示した上で、今回の犯行の引き金になったのは森山の病気の症状ではなく、彼が抱える致命的なまでの「弱さ」である、と論理的かつ明晰に述べられている。なんだか、ゾクゾクしてきた。この記事は、結構バズるかもしれない。よし、投稿した。「賽は投げられた」だ。