灰と金貨と、夜明けの灯
風の鳴る音が、岩の裂け目を縫っていく。
ここは街道から外れた山岳地帯の、さらに奥まったところ。馬も荷車も通れない、獣道を抜けた先にある、盗賊どもが息を潜めて暮らす世界。
地図にはない。道標もない。ただ、苔に染まった岩の角度と、黒ずんだ幹のひび割れだけが、彼らの境界線だった。
その岩陰に、焚き火が燃えている。
ぱちり、と乾いた薪がはぜる音。
獣の骨を煮る鉄鍋の香り。
それに混じるのは、血と汗と、古びた革のにおい。
むさくるしい連中が五、六人。丸太の腰掛けに尻を乗せて、骨付き肉をむしり、皮袋の酒を回している。どれも背が高く、声が太い。無精髭の上から罵声が飛ぶ。笑い声は獣のように低い。
そんな連中の輪から、少しだけ離れたところに、小さな背中がひとつ。
火の光を避けるように、静かに座っていた。
名前はレン。
つい数日前まで、奴隷商の荷車に括られていた。
この盗賊団――《鴉の爪》は、山を越える商隊を狙っては金品を奪い、その足跡を風のなかに消していく。
剣と脅しで飯を食う連中だが、ヴォルグ団長の一言で、奴隷だけは見逃された。
「荷物だ」と切って捨てるように。
それを不服に思う者もいたが、ヴォルグの命令に背く者はいなかった。
逃げた者、倒れた者、泣き崩れた者、そして、ついてきた者。
レンは、その最後のひとつだった。
「どこへ行っても変わらない」
その一言で、彼は黙って列の最後尾に加わった。
少年のような顔をしていた。
細い肩。焼けた肌。よく見ると頬に傷があり、黒ずんだ衣の裾は几帳面に縫い直されている。
年齢は十代後半。女か男か、ぱっと見では分からない。
ただ、その目だけが、やけに澄んでいた。
団の誰とも口をきかない。
飯時も笑わない。
だが、洗い物を申し出て、火の番をし、泥のついた靴を黙って洗っていた。
最初は誰も気に留めなかった。
そのうち、無視するようになった。
それでも、レンは日々の世話をやめなかった。
ヴォルグは、遠巻きにその様子を見ていた。
団長という立場上、面と向かって問いただすのも違う。
ただひとつだけ、確かなことがあった。
――この子は、生き延びるためにここにいる。
それも、誰かに媚びるでも、頼るでもなく。
ただ、風を避けて、火を守るように。
そんな姿に、彼は目を離せなくなっていった。
「団長」
ある夜、ヴォルグは焚き火のそばに腰を下ろし、干し肉をかじっていた。
そのとき、隣にすっと、器が置かれた。
木の器には、あたたかいスープが入っていた。
骨の出汁に野草を刻み、わずかな塩が香っている。
「余ってたから。冷めないうちに」
声は低く、小さい。
それでも、はっきりと耳に届いた。
ヴォルグは器を手に取り、一口すする。
……悪くない。
見上げると、レンは火の向こう側で薪を組み直していた。
顔は伏せている。
「お前、料理なんざできたのか」
ぽつりと呟くと、薪の影から小さく返ってきた。
「ひとりで、生きてた時期があったから」
それ以上、会話は続かなかった。
だがその夜、ヴォルグは珍しく、眠りの深い夜を過ごした。
それから、少しずつ、レンが近くなっていった。
朝、誰よりも早く起きて火をおこす。
夜、汚れた衣をたらいで洗う。
薬草の使い方も知っていた。
団の連中はまだ「ガキ」と呼んでいるが、文句は言わなくなった。
ヴォルグはと言えば、ある時から、レンのいる方向に自然と目が向いていることに気づいた。
食事のたびに、小柄な背が火のそばにいること。
手元が丁寧で、物音を立てないこと。
何も言わず、誰にも触れず、ただ静かに生活を繋いでいること。
――変な奴だ。
だが、嫌いではなかった。
山の冬は厳しい。
夜には氷が張り、風が骨に刺さる。
そんなある日、ヴォルグは風邪を引いた。
最初は喉の痛みだったが、すぐに熱が出た。
関節が軋み、頭が割れそうに痛む。
団員たちは気まずそうに距離を取り、誰も面倒を見ようとしなかった。
ヴォルグ自身も、それが当たり前だと思っていた。
だが、翌朝、目を覚ましたとき――
火が消えていなかった。
鍋からは温かい粥の香りが漂っていた。
額には濡れた布。
横に置かれた薬草の煎じ茶。
「……お前か」
寝ぼけまなこで呟くと、影がうなずいた。
「熱、下がりきってない。もう少し横になってて」
それがレンだった。
手には布を握り、頬にはわずかに汗が滲んでいる。
夜通し看病していたのだろう。
その手つきが、やけにやさしかった。
火にかざすように、震えながらも、どこかためらいがちに。
ヴォルグは、その時はじめて思った。
――この子は、ただの“世話焼き”なんじゃない。
どこかで、誰かに、きっと優しくされていた。
その記憶を、真似ているだけなんだ。
けれど、そこに嘘はなかった。
熱にうなされた夜。
聞こえたのは、レンが静かに歌っていた子守唄だった。
知らない言葉だったが、不思議と懐かしく感じた。
熱は二日で引いた。
起き上がれるようになった頃には、雪がちらついていた。
団員のひとりが山裾の村から盗ってきたというマントを、ヴォルグは肩にかけた。
その下にある服は、いつのまにか洗って干されていた。
乾いた布のにおい。ほのかに残る、野草の香り。
「……洗ってくれたのか」
そう訊ねると、レンは焚き火に薪を足しながら、少しだけ目を上げた。
うなずきもせず、否定もせず、ただ静かに顔を伏せた。
ヴォルグは、心の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
盗賊の世界に「情」は不要だ。
だが、彼の中に生まれていたものは、それだった。
名も、素性も知らない。
男か女かも曖昧な存在。
それでも、傍にいると、落ち着く。
夜、眠る前に火のそばで目を閉じると、レンの小さな背中がそこにある。
焚き火のゆらめきに照らされて、動かず、眠らず、ただ火を守っている。
ヴォルグはある夜、ふと声をかけた。
「お前さ。何か、隠してるだろ」
レンは振り向かなかった。
しばらくして、炭を動かす音だけがした。
「……皆、何かしら隠してる。俺だけじゃない」
その口ぶりは、どこか年齢以上に達観していた。
声が揺れなかった。
ヴォルグはそれ以上、何も言わなかった。
火の音と、風の音だけが残った。
次の日、レンが食事に使っていた器の縁が欠けていた。
小石につまずいたのだろう。手をついたときに割れたらしい。
ヴォルグはそれを黙って拾い、自分の器を差し出した。
レンは一瞬、手を止めたが、何も言わず受け取った。
その夜、ヴォルグの腰掛けの下に、新しい器が置かれていた。
木の皮をくりぬいて作った、素朴なもの。
手慣れた細工が施されているわけではない。だが、底には不器用な刻みがあった。
〈V〉のような文字が、二重に彫られていた。
名前の頭文字だろうか。
火を見ながら、その器を指でなぞる。
ヴォルグは、久しく忘れていた何かを思い出しかけていた。
誰かの手で物をもらうこと。
それに込められた、言葉にならないやり取り。
「……礼を言う」
声に出すと、レンは火越しに顔を上げた。
表情は読めない。
けれど、わずかに頬がゆるんだ気がした。
それからというもの、ヴォルグの周囲の空気が少しだけ変わっていった。
団員たちはそれを茶化すでもなく、むしろ静観していた。
もともと、団長には手を出さない暗黙の了解があった。
誰かが薪割りを忘れていれば、レンがやった。
怪我人が出れば、薬をすりつぶしていた。
女と寝る者たちの、乱れた寝床を黙って直すこともあった。
それでも決して、「居場所を主張」しない。
ある夜、団員のひとりが言った。
「レンは、影みたいだな。いつの間にかいて、音も立てねぇ」
それを聞いたヴォルグは、ぽつりと返した。
「……だが、いなきゃ寒い」
団員たちは顔を見合わせて笑った。
それは珍しく、咎める者のいない笑いだった。
季節は少しずつ変わっていく。
空気に湿り気が増え、遠くの山に霞がかかるようになった。
小川の雪解け水が冷たさを失い、獣たちの足音も増えてきた。
そんなある日の夕暮れ。
レンは、初めて団長の隣に腰を下ろした。
言葉もなく、薪も持たず。
ただ、同じ炎を見つめるためだけに。
「……珍しいな。用もねぇのに座るとは」
ヴォルグが笑うと、レンは少し首をかしげた。
「たまには。火を見るのも、悪くない」
「毎日、見てるじゃねぇか」
「……違う。これは、“座って”見る火」
どこか不思議な言い回しだった。
だが、その意味はヴォルグにも分かった。
ずっと動いていた。火を守り、誰かのために。
座って、ただ火を“眺める”ことを、自分に許していなかったのだろう。
「なぁ、レン。お前……」
そこまで言って、ヴォルグは言葉を切った。
訊きたいことは山ほどあった。
なぜ少年のようにしていたのか。
なぜ火を大切にするのか。
なぜ、ずっと黙っているのか。
だが、そのどれもが、今の火を消すような気がした。
だから彼は、ただひとことだけ残した。
「ここにいていい。……それだけは、確かだ」
レンは、火の中で跳ねる火の粉を見つめていた。
その頬に、風の影がゆれている。
答えはなかった。
だが、それで充分だった。
夜の火は、静かだった。
誰かが歌を口ずさむでもなく、皮袋の酒が回るでもなく。
ただ、風が枝を揺らし、火の粉が舞い、獣の遠吠えが薄く山の奥から聞こえるばかり。
団の連中がそれぞれの毛布に潜り込んでいく中、ヴォルグとレンだけが火のそばにいた。
話はなかった。
だが、それが寂しくはなかった。
ヴォルグは石の上に背をもたれさせていた。
足元には獣の毛皮。
肩に掛けたマントが風にゆれ、レンの影にかすかに触れた。
「寒くないか」
ぼそりと訊くと、レンは小さく首を振った。
その動作に合わせて、焚き火の炎が揺れる。
「慣れてる。寒いのも、静かなのも」
それが嘘ではないことは、レンの表情が物語っていた。
凍えるような空気の中で、頬を赤く染めることもなく、目元をすこしだけ細めている。
「……慣れちゃ、いけねぇこともあるけどな」
ヴォルグがそう呟くと、レンは少しだけ顔を傾けた。
「団長は?」
「ん?」
「慣れたくなかったこと、ある?」
その問いは不意を突いた。
ヴォルグは一瞬、何も言えず、炎を見つめるしかなかった。
やがて、ぽつりと答える。
「そうだな……人を斬る時の音、だな」
レンの眉がわずかに動いた。
「鉄が当たる音とか、骨が割れる音とか……最初は、胸の奥が冷える。
けど、気づけば、何も感じなくなる。そうなってからの方が、怖い」
火のはぜる音が重なった。
レンは、それに何も言わず、膝に手を重ねて座っていた。
しばらくして、そっとつぶやく。
「……そういうの、聞かないですんだ」
「奴隷だったのに?」
「耳、塞いでた」
それだけの言葉に、ヴォルグは息を呑んだ。
声に出さない拒絶。
聞こえていても、受け入れないという意志。
生き延びるための、唯一の抵抗。
ヴォルグは火に手をかざしながら、言った。
「耳を塞いでも、火は見るんだな」
「……火は、裏切らないから」
その一言は、妙に重く、妙に静かだった。
そして、その晩――レンは、ヴォルグの隣で眠った。
といっても、寝床を並べたわけではない。
ただ、焚き火の同じ側で、同じ毛皮を一枚だけはさんで。
ふたりして背を向けるようにして横になり、誰よりも遅く、眠りについた。
夜の冷気はまだ残っていたが、火の温もりと、互いの気配が、風を遠ざけた。
翌朝、ふたりの間には何も変わった様子はなかった。
けれど、団の連中は気づいていた。
団長の声が柔らかくなったこと。
レンの動きが、少しだけゆるやかになったこと。
誰も口にはしなかった。
それがいちばん、正しいことだと分かっていたからだ。
その日、ヴォルグはふもとの村に偵察を命じた。
雪解けの様子を見ておくためだ。
「俺も行こうか?」
そう申し出たレンに、ヴォルグは首を振った。
「お前は……火を頼む」
レンは少し驚いた顔をしたが、やがてうなずいた。
「わかった」
その返事を背に、ヴォルグは山を下りた。
その夜。
戻ってきたときには、天幕の内側にすでに火が灯っていた。
風除けが組まれ、焚き火は高く、あたたかく。
乾いた薪の上には鍋がかかり、肉と野菜の匂いが漂っていた。
ふと見ると、毛皮の上に小さな包みがある。
団員の誰かが流した情報紙だろう。薄くて粗い紙に、旅芸人の絵が刷られていた。
レンが、読んでいたのか。
そんな想像をして、ヴォルグは包みを手に取る。
中には、それとは別に、薄く削られた木の札があった。
手作りの護符。
小さな、炎の形が彫られている。
どこで、いつ、作ったのか。
それは分からなかった。
ただそれを握ったとき、ヴォルグは不思議なほど、安心した。
雪が溶け、地面がじっとりと重くなる頃。
山の奥にも春の兆しが、少しずつ顔を出し始めた。
盗賊団《鴉の爪》は、次の越冬地を探すべく動き始めていた。
ヴォルグは地図を広げ、古い道の情報を集めていたが、いまひとつ気が乗らなかった。
数年前までは、山を越えることも、村を荒らすことも、ただの“仕事”だった。
だが今は、心のどこかが軋んでいた。
レンのいる焚き火に、戻りたくなってしまう自分がいた。
“盗賊団の頭”がそんなことでどうする、と思う一方で、焚き火の煙が恋しかった。
その夜、ヴォルグはいつもより早く天幕に戻った。
レンがいた。
焚き火を見つめていた。
灯火に照らされたその横顔は、何も語らず、ただそこにいた。
「……帰ったよ」
ぽつりと声をかけると、レンは一度だけうなずいた。
「今夜は冷える」
「火は大きめにしてある」
ヴォルグはその隣に座った。
火を挟まない、同じ側に。
しばらく、何も言わず、焚き火の音だけを聞いていた。
「レン」
「うん」
「お前さ……」
その先を、どう続ければいいか分からなかった。
“何者なんだ”と訊けば、すべてを壊しそうだった。
“ここに残るか”と訊けば、何かを縛るようだった。
だから代わりに、こう言った。
「……火のない場所にも、お前は行けるか?」
レンは答えなかった。
その代わり、ほんの少しだけ、肩が震えた。
笑ったのか、迷ったのか、それとも――泣いたのか。
「……分からない。でも、たぶん、行けると思う」
その声は、小さく、だがはっきりと耳に届いた。
「だれかが隣にいれば」
ヴォルグは、はっとしてレンを見る。
その横顔は、変わらず火を見ていた。
「……おれは、うまくやれる気がしねぇ。人の世話になるのも、誰かを守るのも、どうも向いてねぇ」
「じゃあ、誰かと火を見ればいい」
その言葉が、胸に深く落ちた。
誰かと火を見て、時々うなずいて、少し笑って、あとは静かに。
それだけのことが、どれほど尊いか。
ヴォルグは、今になって知った。
火の音が、心地よいリズムで響く。
やがて、レンがぽつりとつぶやいた。
「……最初にここに来たとき、逃げるつもりだった」
「だろうな」
「でも、火があった。団長は、私を“荷物じゃねぇ”って言わなかった。
それが、すこし、うれしかったんだと思う」
「そんなこと、言った覚えはねぇが」
「言わなかった。……でも、言わなかったことが、大事だった」
ヴォルグはそれを聞いて、ふっと笑った。
「変な奴だな。お前は」
「変じゃなきゃ、生き残れなかった」
ふたりはそれきり、言葉を交わさなかった。
焚き火が、すべてを語ってくれる気がした。
夜が深まり、風が止んだ。
星が山の間から覗いている。
山の闇は濃く、焚き火の明かりはひとつの島のように浮かび上がっていた。
ヴォルグは、少しだけ体を傾けて、そっと言った。
「……おれたちは、たぶん似てる」
レンは何も言わなかった。
「誰にも、何も、約束できない。だけど、火のそばにはいたい。……そう思ってる」
その声は、ささやきのように小さく、けれど確かな熱を帯びていた。
レンの目が、炎に照らされてきらりと光った。
しばらくして、ぽつりと返ってくる。
「わたしも、そう思う」
それは、それ以上でもそれ以下でもなかった。
未来のことも、過去のことも語らなかった。
ただ、“今ここにいる”ことだけが、ふたりを結んでいた。
焚き火が、ぱちりと音を立てる。
薪が崩れ、新しい炎が立ち上がる。
ヴォルグはその光を見つめながら、静かに言った。
「……こんな夜が、ずっと続けばな」
風が吹き、火の粉が宙を舞った。
誰も返事はしなかった。
けれどそれは、もう十分すぎるほどの“答え”だった。
そして、夜が、明けていく。