#2-3 “人の世界”
意識を取り戻したニィルボグは、目を覚ますまで傍にいたのであろう伝書鴉が飛んでいくのを見て、それほど時が経っていないことをさとった。
やや男臭い寝床に横たえられていた彼女は、ブナの木を曲げ梁にしてそこから照明として吊るされた、光明石の灯りを手のひらで遮りながら辺りを見回して、机案に向かって文書をしたためる父の背中を認めると、ここが彼の書斎であることを理解する。
「この……ぅあぐッ」
反射的に飛びかかろうとしたニィルボグは、自らの身体に起きた異常によってその行動を妨害された。手当のために下着姿にされた彼女の心窩は、見るも痛々しく内出血によって赤黒く染まり、それが上は胸元から下はヘソのあたりまで広がっていた。その様はまるで落とした後に放って置かれた果実を思わせるもので、痛苦によって自由に動くこともままならず涙目になったニィルボグは、目の前の男に対する劣等感を否が応でも味わわされる。
「……迂闊に飛び跳ね過ぎたのが良くなかったな。同じ体格の相手にならまだしも、わしのようなモンにとってはカラスにつついて回られたようなものだ。それに、自分が勝つ方法を顔面攻撃に限定したのも良くない。肩の傷を狙ったまでは良かったのに、どうしてそこから消耗を狙って引っ掻き回さんかったんじゃい」
背を向けたまま振り返りもせず、ネルドゲルは決闘時の反省点を娘に挙げていった。もう全てを賭けた戦いが既に終わってしまったことを、それを聞かされたニィルボグは思い知らされた。しかもそれは、自分自身が敗北したものを結果として。
「相手の奇策に真っ向挑んだのもいかんが……まあこれはわしが偉そうに言えたことでもないわな。そのあとブッ飛ばされても食い下がったのは大したもんだが、あそこから無駄に動いたのが一番まずかった。アタフタ這いずり回るから残りの力も失うし、油断も隙も敵の中に生ませられん。死んだフリでもして最後の一発に全てを賭けたほうがまだ、勝ち筋の残る戦いになったろうに」
彼女の父はそう語りかけながらおもむろに立ち上がり、何もない壁に向かって寝転がる娘の側まで近寄るというと、寝床の隣にあるナイトテーブルの上に置かれたポットに手をかけて、中身の紅茶を茶漉しを引っ掛けた小ぶりの酒器に注ぎ込んだ。
「こんなものだが飲んでおけ……人間族のたしなみとやらを知る必要が、今後は絶対にあるはずだからな」
ニィルボグはそっぽを向いて頑なに応じようとはしなかったが、自分のとんがり耳に白鑞製の高台を押し撫で回されるといよいよ観念し、不承不承億劫そうに身をかばいながら起こしては受け取るというと、一口飲むや否やその顔をより一層しかめさせた。
「まっずい」
「そりゃあそうだ。人間族の飲むものだからな」
ネルドゲルは以前にアメンドースの輸送隊から差し押さえた紅茶をそう評したが、実際には彼がその淹れ方に不案内なだけのことであった。先に熱湯で器を温めもせず、茶葉に湯を注ぐときも低い位置から強引に入れ、ポットの中で茶葉が膨らむ際には布もかけずに冷めるに任せた上、入れた葉の量が多かったため極端に渋く、しかも微温まった液体をニィルボグは口にすることになったのである。
「いやだ、飲めないこんなの」
「ワガママ言うな。連中はコレを飲む時間すら、一日の中でわざわざ設定して確保しておるぐらいだぞ」
「あたしは……ッ」
『行かない』の言葉を続けることを、彼女は出来なかった。代わりの言葉を選んで、ニィルボグは話を紡いだ。
「……あたしは誰かの道具にはなりたくない、それはあたしじゃないんだもの。あたしは自分のことを戦士だと思っているし、それに向いてる実感だって、ある……でも“ここ”じゃ、女は戦士にはなれないのよね、誰も認めてくれやしないんだから」
ネルドゲルは不得意に淹れた紅茶を自身の杯に注ぎながら娘の心情を聞いていたが、いざその中身を口に含むと顔をしかめてこう言った。
「“戦士”ほど道具の言い換えに相応しい言葉も無いじゃろうが。言葉なんて、全て別の言葉の言い換えに過ぎんわい……なりたいものにはなればいい、なれるものの中から選んだ上でな。確かにわしらは人間どもと殺し合うことが当たり前になるほど、長きに渡って戦を続けてきた。だがその戦士の誰もが、別に好きでそれをやっておるわけではないぞ」
喉を潤すことを諦めた大将軍が、自らの軍務としてしたためた文書を推敲しながら聞かせる話を、ニィルボグは人肌にまで微温まった渋茶を見つめながら聞いていた。そこに映った自分の顔が次第に歪んでいったので、彼女は飲みたくもないその中身をもう一度口に運ぶ。
「したくもないそれをやめずにおるのは、それこそわしらの正体がフル=オークの守り手という名の“道具”だからだ。誰だって戦なんぞ切り上げて、帰りを待つ者のところにいたい。人間族もそれは同じようなもんじゃろうて……だがお前さんには、わしら戦士たちがウンザリしていたこの戦争というものを、たった一人で終わらせ得る力を持っておるのだぞ。散々言って聞かせたことだが、お前さんの役割は戦士なぞというものを軽く超えとる」
まとめた書簡を文書筒にくるんで封蝋を終えたネルドゲルは、それを乾かすために机案の脇に置くというと、もう一度娘の前に向き直って言葉を続けた。
「いいかこれは、お前がお前自身になるためにもたらされた通過儀礼だ。お前が“和睦の代表”や“竜殺しの誘い水”という道具にもなり切れぬというのなら、戦士にも女にも、本当の自分とやらにも、決してなることは出来んぞ」
「でも人間となんて、あたし」
更なる本音の一端をつい見せてしまったニィルボグに、一人の父親として彼は笑った。
「ングフフフ、心配いらん。わしもそのために見極めに行ったが、あれは中々どうしてイイ男じゃて。腕っぷしも肝っ玉も確かなものだし、この血も“お前たち”のために流れたようなもんだわい。きっとお前さんも気に入るぞ」
左肩をさするネルドゲルの無根拠な見通しにやや呆れながら、それでも一人の闘士として決闘の結果を受け止めることを、彼女は腹の底にて“条件付き”で承服した。
(……それはおっ父の見てきたことだ、あたしが認めたものじゃない。お互いどっちかが求婚したわけでもないんだから、オークの習わしで伴侶を勝手に決めることもないはず。ましてや相手はあの人間なんだ。あたしが直接戦って、少しでも気に入らなかったらすぐにでも、その和睦なんてものは台無しにしてやる)
運ばれたニィルボグの長槍をとまり木に選んだ伝書鴉が首をかしげたのを見て、彼女はあくまでも自分の役割を自分で勝ち取るために、“ある企み”を閃いた。そしてそれを己の父に気取られぬようにしながら書簡を受け取って、決闘前にした約束を守るために愛槍のもとへと、覚束ない足取りで近づいていく……。
◇
「なんということだ、本当に領内にオークどもを侵入させてしまうとは」
アメンドース第一城壁の関門を抜けたフル=オークの使節団を、急造の矢来から遠眼鏡で確認したルクスは、隣にいたボギーモーンにそれを渡しながら報告を続けた。
「実感が湧きません、寝ている間に夢と現実が役目を交代したかのようです」
「これは侵入ではないぞ、まだ一応な……あの“細いの”がそうだろうか。父上は『オークらしからぬ見た目』と仰ったが、その他は皆“豚鬼”の喩えそのままの体貌であるところを見ると、おそらくは……」
「私めも見ました。面頬をしていますので顔立ちがエルフのそれかは分かりかねますが、アレと見て間違いありますまい。しかし、一様に儀礼用の装束を身にまとって来ているようですが、首領と側近、それにあの細面の格好だけは武装のそれですぞ。まさか……」
王子は遠眼鏡を近衛長に返すとおもむろに、すね当ての帯革から自身の武装を整え直しつつ答える。
「良かったじゃないか、大義名分を立てる材料が増えた。こちらは向こうの武装に応じたことにすれば、礼装してきたネルドゲルを挑発するよりは自然だ……背中のを留めてくれ」
野猪の鎧における、胸当ての背にあたる部分の胴締をルクスに留めさせながら、ボギーモーンは残りの四肢に着けられた防具の帯革も締め直していく。
「首領だけならともかく、輿入れしてくる娘までもが戦闘準備をしてくるとは予想外です。よもやこれでは、相手があの乙女になるというのでは……」
「騎士だなお前も……それ以前にアレはオークだぞ、あるいは連中の礼装がああいうものなのかもしれん。どうあれ、まかり間違ってその娘と武器を交えることにでもなれば、目の前にいる父親のネルドゲルとて黙ってはおるまい。ヤツがそれに乗じてこの晴れの日に暴れてくれれば、婚姻はおろかこの和睦の件は、父上も破談になさるほか無いであろうからな」
甲冑を一式着込み終えた王子は、最後に牙の生えた鉄兜を頭に被せる。打ちたてたばかりの鋼の香りを味わう彼に、近衛長は“あの騎槍”を差し出した。フル=オーク大首領の左肩にその穂先を叩き込んだ、アメンドース新開発の装薬利用兵器“撃突騎槍”である。開発顧問の奇人ぶりから当初こそ性能を疑っていたボギーモーンだったが、試運転のつもりで持ち込んだ際に出くわしたネルドゲルとの一戦以来、自身の命脈を永らえさせた名槍として、絶大な信頼を寄せているひと振りであった。
願掛けの意味も込められた愛槍を再び手にし、形ばかりはフル=オークを歓迎するために城門へと下りゆく王子たちは、人知れず天守からミディクライン公に見つめられていたことを知らない。息子の狙いをどことなく察した彼は、跳出の柵を超える身長を持たずやきもきしている道化に素っ気なくこう言った。
「わしらもネルドゲルを出迎えてやるとしよう。ひと悶着ありそうだ」
「……へ。玉座にてお迎えになったのち、式場へと移るのではないのですか」
「“嵐”が起きなければ予定通りに行う。だが、風が立てばわしにしか止められないであろうからな」
『別にどちらでも良いが』……という言葉を道化に聞こえぬようつぶやきながら、このアメンドースの長は、弾指で合図を打ち自身の近衛長に扉を開けさせた。
次回投稿は11/20中を予定しております。