#2-2 “激しい怒り”
眠らずの砦の入り口から下って中央、フル=オーク族の全施設群に繋がる各回廊へと接続されている大広間には祭壇がある。託宣や式典、論功行賞に至るまでを執り行うこの高座には、もう一つ重要な催しを人前で行う機能があった。
「これより大将軍ネルドゲルと、その実娘ニィルボグによる決闘を始める。決闘に応じたニィルボグによって、選択されたのは槍試合となった。お互いに同じ武装のみで戦い、相手を降参ないしは戦闘不能にさせるか、あるいは場外に落とした闘士が勝利を収める。決闘に際して相手の殺害に至った場合には、殺めた者とその一家眷属、その全てが持つ名誉と財産を生涯に渡って剥奪するものとする」
祭壇を取り囲んだ老若男女のオークたちは観客であると同時に、決闘によって戦う者の内どちらが己の要求を叶えるのか、その証人となる役割も持っている。それに併せて対決を取り仕切る族長の式辞に鬨をもって応えることで、舞台に上がった闘士たちの退路を断ってその気分を鼓舞してゆく雰囲気作りも引き受けていた。
武具を外して試合用に刃の潰された長槍一つ、それ以外は防具もつけずに軽装になったネルドゲルは、同じ条件の装備をして準備を整えた娘の姿を認めると、二人の闘士に対する祈りを捧げようとするエンゾルカに向かって付け加えるようにこう言った。
「族長、まだわしの要求を対戦相手であるニィルボグに伝えておりません」
「……そうであったな。そちの娘を婚姻させるはあくまで、最終的には朕の意向によるもの。闘士として決闘に勝利したとき、そちは相手に何を望むか」
「勝利したときには望みません、戦うときにこそ望みます。先程わしは、『顔面に一発でも入れられれば要求を呑む』……すなわち決闘での敗北を認めると対戦相手に言ったのです。一人の“戦士”の矜持として、この一言は撤回いたしかねるものなのですが、その条件を決闘内容に追加するという望みを、叶えてはいただけないでしょうか」
ニィルボグがこの二人のやり取りに憤慨し、異議を差し挟むスキを周囲のオークたちは与えなかった。大将軍の出したこの提案が、観客の燃えた心に風を送っては煽りたて、戦う前から場の主導権を掴むその演芸に、称賛の喝采が送られるまでにかかった時間がほぼ一瞬のことだったからである。熱気を帯びて轟きうねるオーク族に囲まれた舞台の上、急遽女官たちを集めさせて緊急の協議を始めた族長は、ややあって話がまとまったか元の位置までそれぞれを引き上げさせるというと、期待を込めながら静まりゆく広間の音声が、いよいよ自身の声を妨害せぬほど抑えられたときに決議を告げた。
「闘士ネルドゲルよ。決闘にかける願いを勝敗が決まる前に叶えることも、その達成を前借りすることも許されてはおらぬ。だがそちの対戦する相手に対する願いがそれ一つのみなのであれば、そちが敗北したときには“決闘相手を殺めてしまった際の処罰”を、その身に適用するということで特例を認めよう。無論処罰を受けるのは闘士本人だけで、縁故郎党のもとには一切及ばぬものとするが、これを肯うか」
跪いて得物を捧げ、エンゾルカの計らいに感謝の意を示したネルドゲルを見て、引き潮のように裁決を心待ちにしていた観客たちが一斉に波打った。
「いいぞ族長、大将軍ッ」
「畜生ッ、結局お嬢の方には誰も賭けやしねえじゃねえか」
「どうせアンタの勝ちなんだ、そのぐらいじゃねえと面白くねェ」
津波のごとく押し寄せる興奮を込めた歓声に揺られながら、大将軍の娘は不承知といった心境ながらも、冷静になってゆく自分の気持ちも同時に感じていた。
(当てれば即死となる弱点を、おっ父は自分でこしらえたのよ。戦士になることを認めない女とやらに、あんたは負けて全てを失うんだ)
大広間に続く階段の隅に引っかけた、愛槍に留まっている伝書鴉と目が合ったニィルボグは心の火照りを僅か取り戻すと、闘士たちに改めて祈りを捧げる族長の傍で長槍を手にして向き直る父に、中段の構えを取って合わせて居ずまいを正した。
エンゾルカの祈祷が済むが早いか、低声から始まった観客の鬨が徐々に盛り上がっていくというと、舞台下の脇に女官たちが持ち出した戦争用の大銅鑼の元に、桴を持った副将軍が近づいていく。決闘が始まる直前にも関わらず何の構えを取る姿勢も見せないネルドゲルに、長槍を向けた彼女は自身を対等に認められていないような不満にかられて、それを口に表した。
「あんまり呆けていると、いきなり顔にもらっちゃうかもよ」
「ングフフフ。わしにそれができた“男”は、お前の爺様……ティーオンの親父さんであるあの人だけだ。お前もその血を受け継ぐのならば或いは、全く見込みが無いとは言わんぞ」
“ティーオン”とはかつてフル=オークの巫蠱を務めていた女官の名で、ネルドゲルの妻……すなわちニィルボグの母親である。先代の大将軍“ゴトローラー”の娘であった彼女と結ばれんがため、フル=オークの慣習に則って一騎打ちを挑んだ当時副将軍のネルドゲルは、自らの鼻に深手を負わされこそしたがゴトローラーの片腕の腱を断ち斬ったことで婚姻を許された。その後二人の間にはニィルボグが誕生したものの、彼女の容姿があまりにもオーク族が忌み嫌うエルフ族のそれに酷似していたため、呪われた娘として水子の扱いで処分されかけたところを、ティーオンが自害したのちゴトローラーが陰腹を切って、当時今以上に幼かったエンゾルカ族長に嘆願することでその死を免れた経緯がある。
その後ゴトローラーの遺言通り大将軍へと繰り上がったネルドゲルは、着任の初めこそ周囲に芽吹かせていた不安の種を、彼が元々持っていた将器によって一斉に刈り取ったばかりか、異種族である人間の高まりゆく鉱業技術に、関心を寄せては積極的に取り入れる姿勢を見せた。やがて『大将軍の欠点は全て娘が引き受けている』という風聞が生まれるほどに眠らずの砦は発展したが、ついに“対アメンドースの切り札”となる兵器の完成へと差し掛かったときになって、その押し進めた文明を元に戻したのが件の金切竜である。
しかし、私的にも公的に苦しみ続けることになったネルドゲルを無自覚にも救うことになったのは、その原因となった他ならぬ実の娘ニィルボグであったかもしれない。かねてより彼女が男勝りに槍を振るい、相手を見繕っては叩きのめし、棲家を守らず外に出て勝手をしなければあるいは、人間族が通信に用いる伝書鴉を手懐けて帰ってくることはあり得なかったからである。装備の質と練度が上がったフル=オーク兵による軍事作戦を、さらに下支えしていたのが彼女による功績であったことを認める者は多くないが、大将軍がこの文書を諜報して自軍の活動を人間族に対して先んじてきたからこそ、皮肉にも金切竜が飛来するほどの充実した設備をしつらえることが出来たのは事実であった。
なればこそミディクラインとの会談において、挑発のつもりで放たれた和睦の婚姻話を逆手に取り、提案に乗り気である姿勢を見せた自分に向けられてくる娘の怒りに対して、けじめをつけるためそれを一身に受け止める義務があることを、ネルドゲルはこの瞬間まで感じ続けてきたのである。
「“同じところ”に打ち込んでやる……おっ父に勝てば、皆もあたしを戦士と認めないわけにはいかないでしょ」
「それが望みの中身か、確かにお前を女と見る者はいないからな。だがな娘よ、そう見る者がいないだけでお前は女だ。生まれもった身体通りに生きろ」
この言葉を送って初めて、大将軍は長槍を両の手に持ち直す。族長は闘士たちだけを残して祭壇を下りる刹那、ニィルボグに向かって冷ややかな一瞥を送った。そして舞台を囲むオークたちの鬨はいや増して、今やそれに込められた熱狂は、鉄門をこじ開けて溢れ出さんばかりのものとなっていく。
「あたしはあたしでなかったことは無いッ。おっ父こそ何が望みなんだ、あたしを苦しめ続けることか。こんな身体に生んでおきながら、まだ……ッ」
ネルドゲルは手に持つ得物を下段に構えて答えた。
「幸せになれ」
「ふざけるなッッ」
大銅鑼が打ち鳴らされた。
観衆が合図に応じて歓声をほとばしらせるより一瞬早く、ニィルボグは舞台を蹴って父の懐まで距離を詰める。
ネルドゲルが槍を下段に構えたのは足元の守りを固めたいからではなく、単純に彼が娘に対して大きすぎる体格をしていたからである。身の丈が八呎ほどもある大将軍と五呎半を少し上回るニィルボグの身長差では、彼女に対して下段に構えてようやく重心に槍先が向けられるほど、視点の高さに差があったのだ。
無論それを理解しないニィルボグではない。父が構えた槍の口金に、自身のそれを打ち当てながらその接点を柄まで伝えて流すが早いか、彼女は一回転得物を払って石突きを床に叩き込むというと、棒高跳びのように槍のみを身体の支えにして、憎き大将軍の顔面に蹴りを入れる体勢を取った。
「ぬるいわ」
その時にはすでに姿勢を低めていたネルドゲルは、下げゆく重心の勢いに任せたまま足払いを娘の立てた槍にかけるというと、第三の軸足を引っ掛けられた彼女の蹴りは宙を空回る。
「どっちがぁッ」
だがニィルボグは連撃の流れに乗っていた。大地との繋がりを失った状態で彼女は、引っ掛けられた回転を利用して、槍の太刀打ちを勢いそのままにネルドゲルの左肩口に叩き込んだ。
「ぐぬッ」
「まだァッ」
初太刀を制したニィルボグは着地せず、打ち込んだ槍に体重をかけてはそこを起点に身体を跳ね上げさせると、空中で足先を天に穂先を地に向け、実の父の頭部目掛けていくつもの刺突を浴びせかけた。
「軽すぎるわいッ」
しかしその突きの五月雨は一粒として、ネルドゲルの頭に落ちることはなかった。彼が再び起き上がる勢いに任せて、水返しを右手のみで握りしめ強引に振り上げたことによって、まるで羽虫が打たれるかのように、ニィルボグが空中からはたき落とされたからである。しかし痛打を与えた大将軍も、そのまま追撃には至らない。“娘の花婿候補”につけられた傷口が打たれたことによって広がって、そこから血が溢れるや痺れがぶり返してきたからだ。
(いけんこともないが、思ったより深いな。これでは二人がかりで来られるようなもんだわい)
エンゾルカは眉をしかめて大将軍の醜き娘を見つめた。白金色の長髪を乱れさせたニィルボグは、槍を杖にして立ち上がるとかぶりを振って、再び荒っぽく目線を整える。彼女が父を見据えるというと、当の本人は何を思いついたか右腕のみで得物を真っ直ぐ、穂先を娘の重心に合わせて真正面に構えてきた。
「……何のつもりよ」
大将軍がこのように構えた意味を、この場で理解した者はごく僅かであったろう……“それ”を実際目撃したオーク兵たちは彼の意趣を察して沸き返り、その溜飲を如何にして下げるのか、期待に胸を躍らせた。ほとんど直線的に長槍を突きつけられたニィルボグは、身体を相手の円周に沿わせるようにして移動させるが、それに合わせて射線を向けてくる槍先にこらえきれず、ついにネルドゲルの長槍めがけて突進をかける。
「これで―――」
彼女は浅く跳び上がるが早いか、向けられた槍先に両足を乗せ、さらに父の顔面めがけて刺突の一閃を繰り出す構えを取った。
「―――終わりよッ」
ニィルボグが無防備にも突き出された槍を足場に、自由を手にするための一突きをネルドゲルの顔面に叩き込むかと思いきや、それまで片手で得物を握っていた大将軍は一歩進んで左手でも水返しを掴むというと、右手を柄まで滑らせ“霞の構え”に持ち替えて、大地を踏みしめこう叫んだ。
「なるほど、こうかッッ」
彼が腰を深く落とし長槍の握りを真下に急速に下げると、丁度ネルドゲルの膝元に得物の柄が衝突し、ニィルボグの立っていた丁度太刀打ちの部分が作用点となって、彼女の足場は急激な振動によって崩された。
「なっ」
ニィルボグは踏み場を失ったことによって再び宙へ浮かされ、体幹を崩されたことで自身の長槍も相手の顔面をとらえきれずに空を切る。ネルドゲルは反動で左肩から吹き上がった血しぶきもそのままに、再び左手を自身の得物から自由にしてやるが早いか、右手右肘でしっかと懐へその柄を抑え込むとそのままの体勢で、空中で逃げ場を失った己が娘の心窩へと穂先を叩き込んだ。
「ぐぇッ」
「ぜりゃぁあッ」
野太くしゃがれた気喝を放ちながら、会心の一撃を確信したネルドゲルはあらん限りの力で以て……そうしなければならないほどの相手だったからだが……右腕を突き出し威力を一極集中させた刺突を打ちつけた。実戦用に研がれた刃でこれを受ければ、間違いなくニィルボグの腹部をその槍先が貫通した後、衝突の余波で左脇腹が千切れてしまっていただろう。そうでなかろうと、オークにしては軽量すぎる彼女が場外まで吹き飛ばされるに充分なこの一撃は、それが決まった瞬間周囲にいるオークたちの気勢を最高潮まで高めて爆発させた。
観衆による大喝采の中、得物も手放して射られた鳥のように宙を舞っていたニィルボグは、否応なく意識が遠のきかける身体に一抹の無念を覚えたが、受けた衝撃によって肺から奪われていた空気が反動で再び身の内に戻るというと、閉じかけた視界を無理矢理こじ開け痛みを無視して食いしばり、空中で身体をひねって四肢をばたつかせ大地を探し、それを片足にて見つけるが早いか強引に制動をかけては、武舞台の端にて自身の落下を防いだ。
この行動には遺憾と落胆とを織り交ぜたどよめきが会場を包んだが、辛くも場外落ちを免れた彼女にとってそんな反応は最早どうでもいいことである。まだ我が意を貫き通す好機は奪われてはいないとばかりに這いつくばって、自身が起き上がるための杖となる長槍を、あまりの激痛で整わない呼吸を荒げながら探し回るニィルボグの姿を見ていたエンゾルカは、嫌悪感を募らせつつ誰にも聞こえぬように舌打ちをした。
それは甚だ見苦しい光景として誰しもの目に映ったであろう。繰り返し付け加えるようだがオーク族の美的感覚では、種族として対極するエルフ族ほど生理的に醜く感じる存在はない。その特徴を色濃く表した稀代の醜女が、無様にも涙や洟を垂れ流し、今や決したも同然の敗北を頑なに認めず、稀代の英雄に這々の体で虫けらのごとく挑もうとするのだから……。
「汚ねえモン垂らしてんじゃねーぞゴミエルフがッ」
「せっかくバチが当たったっつうのに、落ちとけよ往生際の悪ィ」
「ほんとブサイクだねぇ。武器なら下に転がってるよ、取りにおいだらどうだい」
「無理くりケンカにつきあわされるヤツの気持ちが分かったかクソ女ァッ」
心無い野次がニィルボグに対して八方から吐きかけられるが、中にはその実、満更不当と呼べない内容も混じっていた。掟から戦場へは連れて行かれず、砦内においても自分の居場所がない彼女は、たまたま持ち合わせていた武の天稟を野放図に振り回し、武者修行と称して様々な戦士に私闘を挑んでは困らせていたからである。大将軍の実の娘というところを差し引いても、並の兵長程度の実力では忖度抜きにしても相手にならないほどニィルボグの実力は高く、特例を認めて戦場に繰り出させるべきではないかという意見さえ上がり始めた頃に、ネルドゲル自身が睨みを利かせて双方を封殺するまでが、一つのお定まりの流れになっていた。
その大将軍のみにとどまらず、戦場を女人禁制にすべしという見識を持つのが圧倒的多数を占める所以は、フル=オークの掟に反するという観点も大きいながら、何より敵対する人間族の騎士たちの中においても、女性の個体を見受けられなかった事によるところが最大の理由であるかもしれない。いかに個々人が武の才に秀でているかよりも、元来命を産み育てる機能を持って生まれてきた存在を、戦場に駆り出すことを恥とする象徴的な原則を優先する環境が、あるいはニィルボグの有する衝動性を無軌道にしている根本的な原因であったことは確かである。
まるで潰された肺でもって呼吸するかのような頼りない息をつきながら、ゴミを漁る野犬も同然に辺りを手探りする彼女の前に、探し求めていた一本の長槍が“立っていた”。肘を支えにニィルボグがようやくそれを見上げると、それの持ち主であるネルドゲルと目が合う。大将軍が娘の側まで最後の一撃を加えに近寄ったのを見て、舞台上の二人と決着の大銅鑼を任された副将軍を除いた誰もが、悦に浸りながら鯨波を小刻みに煽り始めた。
「うッ……ぁぎ、ち……くしょう。入れて……やる、その……鼻に、一発―――」
ニィルボグは父の携えていた長槍へすがるように手をかけると、思わず吐き気を催すほどの激しい痛みを脇腹に感じるのもごまかしながら、生まれたばかりの仔鹿のようにどうにか身体を起こし始める。彼は娘に何も言葉をかけず黙ってそれを見守っていたが、ニィルボグがようやくネルドゲルの手に持つ長槍を杖に立ち上がったのを見届けると、おもむろに得物を手離した。その行為を前に思わず気をゆるめてしまった娘のスキを大将軍は見逃さず、ニィルボグの懐に低く踏み込んで、彼女の心窩と自分の右掌の間にこぶし大ほどの距離を作るまで詰めるが早いか、予備動作もなく全身を前に運びながら、思い切り腕を伸ばして突き飛ばした。
「―――きゅふッ」
この掌打による寸勁がもし握り拳によって行われていたならば、あるいはニィルボグの内臓が一部破裂していたかもしれない。ともあれ、突き倒されるような力の方向で同じ位置に痛恨の一撃をもらった彼女は、退きよろめいては重力に負けて、そのまま吸い込まれるように舞台の縁から落ちて父の前から姿を消した。
大銅鑼が打ち鳴らされた。
一族の呪われた恥さらしとして周知された娘の場外負けを見たオークたちは歓喜の渦に沸き、勝者ネルドゲルを称える鬨の合唱が、大広間から砦の隅々までその波を伝えていく。祭壇の下で逆流した胃液にこらえきれず吐瀉物を撒き散らしていたニィルボグは、言祝ぎのため舞台の階段を上がるエンゾルカの、侮蔑を込めた目線と目が合ったのを最後に、視界を薄れさせ気を遠くしていった。
次回投稿は11/19中を予定しております。