#2-1 “例えば敵意に満ちた楼閣”
葦原を縦へと割るようにそびえゆく銀山脈は、その重畳たる山並みが受け止める季節風の影響で、二分された東西の景色が全く異なることで知られている。その西側では寒波を弾くように連なった山脈が、一面白銀の雪化粧を施されて彼方まで続いているのだが、ひるがえって東側では雪の代わりに麓の樹林が、その山々の足元に茂り積もっていた。このアメンドース領の外れから南方まで長く伸び続ける山林地帯は“根深の森”と名付けられており、太古より人の手が入らない樹木の織りなす景色は、踏み入るものを皆惑わせる天然の迷宮を彷彿とさせている。
その古森を我が庭として暮らす種族の一つに“フル=オーク族”があった。彼らは根深の森の起伏に富んだ大地や、そこから繋がる山脈の奥深くにまで洞窟を掘り、死して枯れゆく木々を燃やし、風を取り込んでは鉄を溶かし、獣と果実を糧として、めいめいの命を営んでいる。旧き時代に闇の軍勢が誇る尖兵として、数多の命を脅かしていたと伝えられるオーク族であったが、その面影は遥か遠く今や一文化を紡ぐ民族であるとして、人間族が認識を改めたのはごく最近のことであった。
この樹海では彼らしか知り得ぬ道順を辿らねば、銀山脈による天然の要害を掘り進めた坑道の奥深く、フル=オークの本拠地である地下都市にはたどり着けない。明かりを湛え続ける特産の鉱石“光明石”を各所にあしらわれて、昼夜問わず暗がりを知らぬこの山の下の要塞は、彼らの言葉で“眠らずの砦”という名で呼ばれている。ネルドゲル率いるオークの軍勢は、その道順を違えず山麓まで辿るというと、鉱業での精鉄における主要設備“であった”大タタラ場”の跡地をまたいで、鉱脈筋を利用した、砦まで続く通行路を引き上げていった。
「あァ、暗ぇ暗ぇ。気が滅入っちまわァな」
「仕方あるめぇが。そのおかげで羽が四つのクソトカゲが、人間どもを襲ったのは確かだ」
「大将軍、何も今更あのクソ袋どもと仲良しこよしでもないですぜ。このまま放っときゃ奴らは丸焦げだ、そこを突けば俺たちの勝ちじゃないですかい」
思いついたことを思いついたままに口にするのが、オーク族の典型的な行動様式である。この者たちにも身分や立場を体系づける概念は当然あるのだが、その習癖と礼式を欠く口調のせいか一枚岩には感じる反面、個性をその中から見出しにくい種族であるというのが専らの風説であった。
何よりその世評を後押しする最大の要因は、彼らの一様にも思える身体的特徴にあるだろう。あるいは“豚鬼”とも称せられるその顔立ちは皆、幅広く上向いた豚鼻に、瞼や耳口をそれぞれ出っ張らせる分厚い皮膚を持ち合わせている。その体格にしても脂肪にこそ見え、その実全て筋肉である張り出した腹を持ち、人間族のように住む所によって皮膚の色が異なるといったこともなく、薄緑の皮膚を例外なくその身にまとわせている。この特有の外見が男女ともに類同しているため、外部の種族からはオーク族の個々における年齢や性別を一目で見分けることが困難である場合が多く、その見極めには身長や服装、あるいは若干異なる眼や髪の色などから、かろうじて判別を行うしかないことが常であった。
「だが、あのヒト猿どもの作り出す武器は……イイ。このまま金切竜が燃やすに任すのは面白くないほどにな。それにあのアメンドースが潰れた後には、やはりもう一度こっちを襲うと考えるのが自然じゃろうが」
しかしその中にあっても一際異彩を放つのが、一族の大将軍をつとめるネルドゲルであった。六呎は下回らないオークの平均身長にあって、彼はその二周りは大きい八呎を誇る体高を持っている。この大将軍を先頭として、蛇のように後から続くフル=オーク軍の一行は、元は坑道であったその通行路を抜けるというとようやく、眠らずの砦の開けた玄関口に差し掛かった。彼らの目の前に閉ざされている、燃える三日月の紋が彫り込まれた分厚い鉄門に手をかけながら、ネルドゲルは背後の戦士たちにこう言葉を繋げる。
「せっかく焚き続けた火も止めっちまったし、人間どもに竜をけしかけた以上、もう後戻りもできんじゃろうて。お前たち、こっから七日間は少なくとも殺し合いはせんで済むぞ……或いはもっと長いかもしれんが。その間せいぜい、カミさんでも喜ばせてやるんだな」
この言葉と同時に、大首領は戸板でも押しのけるように鉄の扉を奥へとこじ開けると、眠らずの砦の中から光と歓呼の声が漏れ出てきた。その声の正体は野太くも黄色い声が大半を占め、その声の主たちが帰還した愛すべき戦士たちの“腹元”へ、伴侶としてあるいは家族として飛び込んでいく。
オークへの弁別に慣れていない者がこの光景を目の当たりにしたとき、誰が誰とどういう関わりにあって、どれが誰とどのようにしてその関係を築いているのか、一目で判断するのは困難を極めるであろう。彼らの美的感覚を刺激する価値観の一つには“腹部の張り出し具合”というものがあり、それが男性のものであればたくましさの象徴として、女性のものであれば丈夫な命をその身に宿せる証明として、それぞれ腹を打ちつけあって気分を高め合う文化があるのだ。あるいは慣れない人間の目からすれば、それは同じような見た目の大小様々な生き物同士が、腹を擦り付け合う緑色の集団にしか見えない光景であったろう。しかし当然ながら、彼らオークは一人ひとりの人格を持った種族の一つであるし、様々な信念や趣向もその個々人によって異なっている。
それを象徴するかのような三人の女オークが今、階下の中央広間にある祭壇からネルドゲルの元へと、物々しい足取りで近づいてきた。彼女らは大鷲の風切羽をふんだんにあしらった礼服を着込み、その身体にはヘソを中心として“燃える三日月”の入れ墨が彫り込まれ、そこから蔓草や獣骨のような、生誕や自然の恵みを象徴する模様を四肢の付け根まで刻みつけている。巫蠱をつとめるその三者は、他のオークたちと比較しても一回りは大きい腹をしており、畏敬によって群衆からは距離を空けて跪かれ、近づかれたネルドゲルにすらその頭を垂れさせる様子には、彼女たちが独自の威権を握っていることを裏付けるものがあった。
「して、どのようであったかの」
「手を結べるほどの見込みは感じられたかえ」
両脇の女官がそう訊ねると、大将軍は目線を下げたまま鎧の左肩部を外し、当て布をめくり上げながら質問に答える。
「想像以上ですわい。こちらの誘いに乗せられこそしたヤツですが、すぐに狙いは見抜くし腕も立ちます。面構えも悪くない」
質問した二人はネルドゲルの肩口についた傷に驚いたようだったが、彼女たちを侍らせていた中央の女オークは、慈悲を込めた眼差しで首領に近づくというと、労るようにその戦士の勲章に口づけをした。それを見ていたオーク……特に兵士たちは、伴侶がそばにいる者であろうと憚らずに生唾を飲む。補足するならオークの価値観では、この巫蠱たちは絶世の美女として崇められる容姿をしていたので、それらからの労いをほしいままにしている大将軍を目の前にして、現実感のない羨望が彼らを満たしたわけだったのである。さらに余談ではあるが、ネルドゲルの巨大な体躯にしても同族内では憧れの的となっており、この光景に息を呑んだ婦女子も少なくはないようだった。
「族長、軽はずみではありませぬか」
「よい。大儀に報いるには足りないかもしれぬが、許せよ」
(困ったお人だ。このところお立場も弁えられず、近づきすぎることが増えた)
変わらず面を下げたまま、ネルドゲルは身なりを整え直した後、この女オークの前に跪くことで応えた。名を“エンゾルカ”というこの若き族長は、大将軍があくまで忠臣として自らの気持ちに応えてくることに口惜しさを覚えつつも、フル=オークを象徴する存在として課せられた責務を、全うすべく話を進めてゆく。
「……これは重畳。相手が大将軍ネルドゲルの眼鏡に適うというのであれば、そのことは僥倖というべきであろう。和睦の意志を示す報せをアメンドースに送るのは、急ぐほうが善いと思うのだが」
「はい。金切竜の襲撃から間を置かない今のほうが、ミディクラインにも条約を受け入れさせやすい状況になるでしょうな。そこでエンゾルカ様、調印式はアメンドース領内にて執り行うことを提案する旨を、文書の中にも盛り込むべきではないかと存じますが」
「何故か。無主地にて行うが常道であろうに……それからいい加減、面を上げるがよい。そちの顔を見ながら話がしたいぞ」
ネルドゲルは顔を上げて、エンゾルカと目線を合わせて事務的に説明を続けた。
「まず、ここ眠らずの砦の位置を明かしたり、根深の森に対するアメンドース側の地政学を刷新させるのはまずいでしょう……竜がまだ生きているうちは特に。そして調印式には娘の父でもあるわしが代表として赴くつもりですが、人間側の代表は公王であるミディクラインのはずです。族長である貴女がお参じになれば無主地での式典でも釣り合いましょうが、隣り合うのがわしでは一枚落ちますからな。加えて言えば、一人の将として連中の城内を見たいという野心もあります」
「分かった、好きにいたせ。そちの立てた戦術のおかげで、金切竜めもここへは二度も来なんだしな。送る文書の内容も含め委細任せるとしよう……だが一つ問題があっての。鴉がおらぬのだ」
大将軍は顔をしかめた。彼の身の内に埋め込まれた悩みの種が、ついに芽吹いたことをさとったからである。
「……“ニィルボグ”の姿が確かにありませんな。見た者はおるか」
ネルドゲルが後ろを振り返ってした問いに、訊かれたオークたちは一様にかぶりを振った。
「あいつめ。またぞろ勝手に外をほっつき歩いとるのじゃろうが、一族の命運がかかっとる身の上だということを忘れおったのか」
「……あたしの命運はどうなるのよ、おっ父。政の道具ならお断りと言ったハズよね」
張りのある低声が天から降り注いだので、フル=オーク族は一斉に上を見上げた。一同の視線の先には、オークというにはあまりにも細く頼りない体つきをした少女が、伝書鴉と長槍を携えて穹窿に彫り込まれた三日月型の窪みに腰掛けている。もっともその姿形は、回廊を照らすための光明石によって影法師にしか見えず、今は彼女と鴉の照り返した眼の光だけが、誰しもに正しく捉えることのできる全てであった。
「降りて来くされッッ、族長の御前だぞッ」
「今ここでこのカラスを仕留めたらどうなるだろう……まあ使い番を代わりに寄越すだけのことなんだろうけど。でも果たしてそれが山を西に飛び越えて、金髪のヒト猿どもにお手紙を届けてくれるのかな」
人間族が用いるはずである伝書鴉の喉元を、ニィルボグは優しく撫でながら返事をした。鴉は明らかになついている様子で身体を擦り寄せ、彼女の思うがままに任せて警戒心を捨てている。ネルドゲルは唸り声を上げ牙を剥き出しにしたが、それを見て目を細めたエンゾルカの意を汲んだ女官たちが、族長に代わってその口々を開いた。
「おや、細っこいエルフが紛れたかと思うたわ。高いところが好きな辺り、彼奴らや狼煙と変わらんのが笑えるのう」
「せっかくネルドゲル殿が勿体なくも婿まで見つけてくれたというに、心根まで醜女そのものとは親不孝な娘じゃて。手を煩わせるでないわ、早う降りてきてつとめを果たせ」
「腰元には関係のない話ね、自分でもない者のために喋る方が笑えるわ。誰かに寄りかかってさえずらない分、このカラスの方が遥かにマシよ。それに何、婿って人間族のことなんでしょ。今までずっと殺し合ってきた相手と……本当に頭でもおかしくなったんじゃないの」
その高みから嘲るようにして取り合わない様子のニィルボグに、侍女の巫蠱たちも憤懣を露わにし始める。実の娘の無作法ぶりに呆れと心労をおぼえたネルドゲルは、場がそれ以上こじれるのを避けるべく、この姦しい応酬に割って入った。
「関係ならあるッ。一族の命運がお前にかかっておると、そこで立ち聞きしとったのだろうが。お前があの第二王子と結ばれれば、八方丸く収まることは散々言って聞かせたハズだぞ」
「前にも言ったけどお断りよ。あのミディクラインってヤツの子だか何だか知らないけど、あんなクソ袋の提案を真に受けるなんておっ父も鈍ったものね。その肩の傷もわざともらったモノなんじゃないの……それ以上戦いたくないってぐらい腑抜けたなら、これからはあたしが代わりにやったげる」
ニィルボグの父に対するこの態度を見て、忍耐の臨界を最初に迎えたのは他ならぬフル=オークの戦士たちであった。
「ふざけんじゃねえぞエルフもどきがッ」
「女が戦場に出るだけで掟破りだってのに、お前ごときにネルドゲル殿の代わりがつとまるわけねェだろブス」
「呪われたアンタにはぴったりのお仕事じゃないか、大人しく人間相手にその平たい尻でも振ってくればいいのよっ」
「大将軍のお嬢だからって調子に乗るなよスベタがッ。ヤキ入れてやるからかかってきやがれ、それとも怖くて降りらんねェかよッ」
いつの間にか戦士以外の怒号も入り混じった罵声の大津波も、ニィルボグの腰掛けるアーチの継ぎ目までは届かないようだった。彼女はかけられ慣れたそしりを吟味するというと、最後のその言葉を聞いて待ってましたとばかりに口角を上げる。思う様をすぐ口に出すオーク族を相手にとって、挑発のきっかけを掴むことなど、ニィルボグには造作もないことだったのだ。
「それならあんたたちをぶちのめしたら、あたしは自由にして構わないのかッ」
彼女は虎が獲物に飛びかかる前のような前傾姿勢をとり、そう叫ぶが早いか穹窿を蹴ってオーク兵たちの只中に降り立った。三日月に取り残された渡鴉が短く鳴いた丁度その時、槍を灯りに閃かせながらニィルボグは、自らの全貌をようやく露わにする。
その女オークはとても醜かった。
なんといってもその筋の整った鼻と尖った耳、しなやかな細枝を思わせる腰つきなどは、あるいは“豚鬼”とも称せられるオークたちの目からすれば、肌の色が同じ薄緑であること以外は、空の下なる憎きエルフ族を彷彿とさせるに充分な容姿と言えたのだった。
「女だてらのつもりかバカめッ、今日はいちいちサシでやると思うなよ」
「嫁に行く前の体だろうと知ったこっちゃねえ、これまでの借りをまとめてかえしてやらァッ」
ネルドゲルが制止の糸口を掴む隙もなく、大将軍の娘を取り囲んだオーク兵たちは、先手を取って一方的に畳み掛け……られてしまった。長槍を振り回したニィルボグは戦鬼のごとく喜悦の表情を浮かべ、武器こそ取れまだ動きが鈍い者の懐に潜り込んでは打ちのめし、一人討つときには次なる一人を見据え、多数の男衆を相手に大立ち回った。部下たちが毎度のように面倒を引き起こす短絡ぶりにも呆れたが、何よりネルドゲルが気に入らなかったのは、自分の娘が己の容姿を云々などではなく、“女人としての機能”をはじめから放棄して、あたかも自らが戦士のごとく振る舞っていることだった。
フル=オークに女戦士はいない。命を育む身体を持つ者を戦場に出すことを、部族内の掟で禁じているからである。それは婦人を護ることを矜持とする人間族の騎士道にもたまたま共通していたが、何よりもそれは“生まれ持った身体通りの役割を果たす”という、オーク族の信条が根底にあるがゆえの取り決めであった。ネルドゲルは何の因果か醜く生まれてしまった我が子が、同族内からないがしろにされる境遇に同情こそ覚えはしたが、それ故にもたらされた歴史の転換点になりうるこの千載一遇の機会を獲得すべく、混沌とした状況に収拾をつけるための息を大きく吸い込んだ。
「ぜァぁあああああッッッ」
大将軍の放った空気の振動は回廊の隅々にまでその波を伝え、灯火を残らず揺らめかせ、それを聴いた生き物はことごとく息を止めた。衝撃で穹窿から落とされた伝書鴉は、墜落の途中で自らが飛べることを何とか思い出し、ニィルボグが持つ長槍の柄に留まりなおす。荒れ狂っていた波浪のような状況は打って変わってベタ凪のように静まり返り、その勘気の大喝を背後から一身に浴びた大将軍の娘は、頭を振り払い全身の鳥肌を取り去ったのち、銅鑼声の主である父のいる方へと振り返ってこう言った。
「……どうなのよ、おっ父。あたしの言った通りなわけ」
ひとかたまりの殺気と化したネルドゲルに、物怖じせずに話しかけられるだけの武の天稟をニィルボグは持っている。他にこの場で大将軍の放った覇気に動じなかったのは、同時に側近も務める副将軍と、フル=オークの族長ぐらいのものであった。エンゾルカに至ってはネルドゲルの一喝を目の前に味わい、えも言われぬ恍惚と充足感を湛えた瞳をうるませていたほどである。しかし族長は自身に“ある許可”を得んがために顔を向けてきた大将軍に、我を取り戻し意を汲んで、無言で頷き承認することで応えた。
“決闘”の認可が下りたネルドゲルは再び自分の娘に向き直るというと、階段下の中央広間へ誘うように手招きしながら、ようやくニィルボグからの質問に返事をする。
「お前に断る権利など本来ありはせん。既に状況が、わしにさえそれを許さんからな……だが与えてやる。アメンドースから飛ぶ鴉を捕まえて手懐けたのは、他ならぬお前だ。その功に報いる何かをこれまで思いつきもせなんだが、いよいよそれが決まったわい。疲れて帰ってきた連中を相手に困らせることはないぞ、わしが直々に戦ってやる。どんなやり方でも構わん……お前がわしの顔に一発でも入れたら今回の婚約の件、破棄にしてやろう」
この発言に取り分け動揺したのが政も勤める巫蠱の女官たちであったが、当のエンゾルカは絶対の信頼をこめた眼差しで大将軍を僅か見つめた後、もと来た中央祭壇の方まで下りはじめた。その後を追うように女官たちが、そしてネルドゲルが続き、望むところとばかりに勇んだニィルボグが階段を下りはじめたときになってようやく、呆けていた銘々のオーク達も、忘れていた我を思い出していく……。
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