#7-1 “初陣”
彼方から伝わる竜の嘶き、巨人の足音を思わせる大太鼓、そして遠く雷が落ちたような爆裂と振動。それらの音が一様に響いてくる収容所の通用門へ、指を組んでは祈るように押し黙っていたエインビィ子爵夫人が、突然朝焼けに開いた蒲公英を思わせるような、満面の笑みを咲かせて振り返った。背後からようやく聞こえてきた音が、二人分の足音によるものだったからである。
「いいか、子爵夫人を城内の地下倉庫までお連れせよ。お前が騎士たる由来を示せ」
「エイミリン、危ないから早いとこ逃げるのよっ」
門前に置いた騎槍を再び手にして、守衛にエイミリンの護送を命じたボギーモーンが荒駆に跨ると、ニィルボグをも軽く乗せたその駿馬は急ぎ戦場へと疾駆していく。
再び下中庭まで続く第一城壁の関門まで差し掛かったとき、丁度その階下からいくつもの槍を突き刺された翼を羽ばたかせ、宙へ舞い上がったのち鎌首をもたげて急降下していく金切竜が認められた。
「首をやってるわね、効いてるのはあそこだけみたい。羽もボロボロにこそ思えるけれど、見かけだけの話だわ」
「見えるのかここからッ……今思えば、私は“逆鱗”とやらに触れたのかもしれん。攻撃の有効箇所がもはや首周りぐらいとあっては、ひたすらヤツの激発を煽ることになってしまうな」
「いや、でも変に賢いやつを相手にするよりマシかもしれないわ。あれだけおっきいと見境なく暴れてくれたほうが逆に……うわっ、ホントに完成してる」
降下した飛竜がその彼方に姿を消した幕壁を目で辿り、南西の方角から太鼓を響かせ近づいているフル=オークの隊列を目にした王子妃が、その先頭に陣取る巨大兵器を確認して驚愕する。
「ヨグ=リノート……あれが出来たから、ここに入ってこれたのね」
「ええい、投石機まで持ってきている。それこそあれぐらいのものが無ければ、高度を取った火吹きトカゲまで攻撃は届かんぞ」
水面に跳ねる魚のように、幕壁の向こうで姿を見せてはまた飛び込む金切竜を見て、ふと何かに気づいたニィルボグが夫に質問した。
「待って、あの羽から伸びていた紐みたいなのは何だったの」
「縄を付けた長槍を金切竜の翼に撃ち込んで、飛ばさないようにするために大弓の土台から伸びていたものだ。だがヤツめ、すぐにそれを火で焼き切ってくるから意味が無いッ」
歯噛みしたボギーモーンを後ろに見上げた王子妃は、ややあったのち閃いて、視点を前に戻してこう呟く。
「ここからだと厳しいけれど、あと一回……それを当てられれば、飛び移りやすくなるかも」
およそ重装の歩兵では考えもつかない発想に驚かされた王子は、危険以前に無謀ではないかと反射的に却下しようとした。
「ばッ、馬鹿を言うんじゃない。私も熱線を吐く時の隙を見てようやく近づけたのだぞ。あのように空を舞う飛竜によしんば跳び移れても、お前の身に―――」
「ね。信じて、あなた……最初のお願い」
無茶を言い始めた妻が、それでもただ無根拠に我儘を振る舞っているのではないことをボギーモーンは知っている。彼女のそのオーク族らしからぬ身軽さと鋭さをもってすれば、あるいはそれが可能かも知れないと彼自身の頭にも真っ先によぎったことではあったが、当然失敗すれば取り返しのつかないことになるため、すぐさま排除した選択肢だっただけのことであった。
だが僅かあって、王子はそれを受け入れることにする。ニィルボグが背中で語る自信の表れを、彼も買ってみたくなったからである。
「……分かった、それを最後にするなよ」
「ありがと……待って、止まってッ」
妻に制止を促され、即座に荒駆の脚を止めさせたボギーモーンは、一刻を争う事態の中で彼女が何に気づいたのか、またもや空へと姿を見せた飛竜を見つめながら問いかけた。
「どうしたのだッ」
「あいつ今度は少し狙いが上なの。これから向かうところより高いところを狙ってる」
ニィルボグがついと指差した方角は、第一城壁から突出した塔の天へと向かっていた。
(側防塔の辺りか、ついに父上を潰しにきたな)
金切竜の狙いを妻によって教えられた王子は、手綱を引いて愛馬に方向転換を促す。
「だとすると関門を抜けたらそこへは行けん……荒駆よッ」
夫婦が息を揃えて重心を右に傾けると、荒駆は関門の手前で前脚を上げて秒針が進む方向に半周し、再び体勢を低めると再び斜路になっている城壁に沿って疾駆をかけた。
「ねえ。あの塔には、その大弓はあるの」
「ああ、一台だけな。だが撃ち込む大槍が残っているかどうか」
王子から情報をもらった王子妃はかすかに微笑むと、突如馬鞍の上にしゃがみ込んで、夫の方へと振り返る。
「あいつの狙いがそこなら好都合ね。先に行ってるわ」
そう言うと彼女は放たれた矢のように屋根付きの歩廊の縁まで跳び上がり、その柱にある双つ牙の猪を象った装飾を踏み台にして、猿のごとく壁を駆け上っては大屋根を伝って塔まで駆けていった。
(私があれと戦ったとは信じられんな……もう治っているだろうが、あいつの腹に異常が無ければあの時、一騎打ちの結果もどうなっていたことだろうか)
妻に負けじと荒駆に拍車をかけさせながら、ボギーモーンはその初めての夫婦喧嘩による経験を思い出し、百万の味方を得たような気分になった。
ひたすら高所から迎撃されたことで毒気切れを起こした金切竜が、それでも執拗に食い下がることでついに側防塔の屋上まで昇りつめる中、もはやこれまでと見た道化がすくみ上がって悲鳴を上げる。
「陛下ァッ」
「慌てるな、まだ一本あろうが」
異常ともいうべき客観性で己の逆境を見つめるミディクラインは、手ずから弩砲につがえた縄索付きの長槍を、眼下より迫り来る飛竜がその姿を見せた瞬間に撃ち込んだ。
しかしこの人間族の作り出した“玩具”の性質をいよいよ理解した金切竜は、目標物に辿り着いた瞬間全ての翼を大きく広げて風を捕まえると、落下傘を開いたような体勢になってそのまま後方まで飛び退る。
(ヤツめ、すっかり冷静だ……いかんな、これは)
「御退がりください陛下、ここはもう駄目ですッ」
その空中動作によって最後の長槍を躱され、縄索が軌道に沿ってむなしく追いすがるのを目の当たりにした公王は、用意すべき矢を失って抜剣したミメイトに迫る金切竜の、大鎌を思わせる鉤爪を持った後ろ脚が、この場の全員を完全に捉えることを認めざるを得なかった。
「間に合っ……たぁあッ」
ところがその鎌が、三人の命を刈り取ることは無かったのである。
鋸壁を段飛ばしに駆け抜け、せり出した側防塔の壁を水切り石のように駆け上がったニィルボグが、杭打機によって飛竜の右首筋に残された傷痕を見るが早いか、屋上の縁を蹴り跳んでは一閃、全く同じ箇所に得物の穂先を叩き込んだからであった。
黄金の瞳孔を見開いて、闘争による高揚と喜悦の入り混じった戦姫の表情を見たミディクラインは、彼女がその手に持つ長槍の柄にきらめく紋章へといち早く気づいて、おおよその成り行きを理解する。
「フムン。あいつめ、よく連れてこられたな」
空中で暴れ出す前に槍先を首元から引き抜いて、再び塔の天井に着地したニィルボグは、大きく息を吸い込んだ金切竜の予備動作に気づくとすぐに、長耳を塞いでは周りにも警告を叫んだ。
「耳を守りなさいッッ」
その言葉が終わる頃には既に耳元を押さえていた公王に続き、道化とミメイトも何とか“それ”に間に合った。
一瞬のちけたたましい大音声が空からつんざかれ、それが伝える空気の波が一同の心身を震え上がらせる。獲物を目前にしていきなり横槍を入れてきたこの小さきものに、有効打を食らわされたことで怒髪天を衝いた金切竜は、宙空でのたうち回るように地を這う者どもの位置を把握すると、もう一度大きく息を吸い込んで、瞬膜を下ろすと鎌首をもたげた。
「下りよ、どうせここはもう使えんのだッ」
その予備動作が息吹を吐くものだと思い知らされているミディクラインが、ミメイトを殿として塔内へと続く螺旋階段を下りながら伝えてくる。
しかし公王の足はふと歩みが止まった。自分の撃ち外した長槍と結ばれている縄索を、王子妃が手繰り寄せる姿を認めたからである。
そして彼女が矢羽根の付いた長槍を引っ張り上げた時、同時に飛竜が口元から吐き出したのは“火炎弾”であった。毒気に火を点けた火炎放射でもなく、それを収束させた熱線でもない、火の玉そのものをぶつけてくるこの芸当の目的は、眼下により広く散らばる人間どもに対し、より一層効率的に炎熱を浴びせかけるためのものである。
その対象は側防塔にいる者たちへは勿論のこと、そこへ近づくボギーモーンに、下中庭や差し向かいの壁垣の上にいる騎士たち、そして収容所の守衛と共に城内へと急ぐエイミリンまでもが狙われ、的確にその動きを先読みされながら火の塊を吐き落とされてゆく。
「マズいッ」
一瞬早く飛び退いたニィルボグはそのことに気づき、代わりに直撃を受けて消し炭となった羽根つきの槍から伸びていた縄索を引っ張り込んで、焼き切れた縄先の火を踏み消して構わずそれを素手で掴むというと、自身が持つ長槍の石突きに“引き解け結び”でくくりつけ、そのか細い身体からは想像もつかないオーク族特有の怪力をもって、弩砲に愛槍をつがえては撥条を引き絞った。
「翼膜を狙えッ。他は弾かれるぞ」
手早い判断に感心したミディクライン公に助言を受け、思わず苛立ちの唸り声を上げた王子妃は、その怒りもまとめて火吹きトカゲにぶつけることにした。
「あたしの友達に―――」
甲高い角笛が一吹き、音の波をこの瞬間に伝えてきた。金切竜は火の手を躱しつつ馬で駆けてくるボギーモーンが吹き鳴らす合図へと反射的に注目し、結果生まれたその隙をニィルボグは見逃さなかった。
「―――何目ェつけてんのッ」
ニィルボグの長槍が矢羽根を持たないにも関わらず、飛竜の翼膜に突き刺さることができた最大の要因は、弩砲から目標物までの距離が近かった事にあるだろう。これの距離が離れていた場合では、失速した槍の穂先が後流に伝わる抵抗を流しきれずに暴れ落ちるか、縄索の重さに引かれて極端に威力が下がった切っ先の一撃が竜を少し小突くだけのことになる。
加えて言えば彼女の照準が初め狙っていたのはまたしても“首筋”の傷痕であり、結果として公王の一言がなければあるいは、この一発の命中は生まれなかったかもしれない。そのことを考えると無性に腹が立った王子妃は、振り返れば相変わらず表情を崩さないミディクラインを見て、思い切り舌を出して赤目をしたのち、金切竜にそれが繋がっているうちにと弩砲を踏み台にして縄索へ飛び乗った。
またもや飛竜を怯ませはしたものの、あまり時間がないことはニィルボグにも分かっていたことである。というのも、彼女が撃ち込んだ長槍には弩砲用のそれが持つ穂先のように逆鉤が付いていなかったため、いつその翼膜から得物がすっぽ抜けることになるか見当もつかないからであった。さらに金切竜も弩砲へ近づいて縄索に遊びを作り、後は切るなり焼くなり好きにすればいい事を学習しているため、そのようにしたことでニィルボグの足場は徐々にたわみ、落ちずに重心を保つことが難しくなっていった、ということもある。
「ぜりゃぁあッ」
しかしこの火吹きトカゲはここで、生まれて初めて“小さきもの”に対して恐怖を覚えたかもしれない。何しろこの緑色の小人が何十倍も大きな自分を恐れることもなく、たわんだ縄索を利用してその場でしゃがみ込んだことで反動をつけ、自らの身体をつがえられた矢のようにして、思い切り跳ね上がっては飛び込んでくるのだから。
金切竜は何かの予感にかられて飛び退ろうとしたが遅かった。すでに彼女は竜の翼腕にしがみついて、それを振り落とそうともがく動きにすらものともせずに、翼膜の背面に抜けた槍を縄索から解くというと、もう一度得物を同じ翼に突き立てつつ、空いた穴にその側防塔から伸びる太綱を括り付ける。
(エイミリンはッ)
宙空に繋ぎ止められて混乱状態に陥った飛竜の背から、鷹の目を凝らすように城門を睨みつけた王子妃は、丁度鎧の隙間を埋める亜麻布へと燃え移った火を叩き消しながら、エインビィ子爵夫人の盾となるように彼女を城内へと導く、収容所を守衛していた騎士の姿を確認した。
「よかった……よォくもッ」
ニィルボグが驚異の平衡感覚で、飛竜の背に立っては幾度も長槍を引き抜いて、再び翼膜を貫くことを繰り返していくというと、金切竜はそれぞれの翼を滅多刺しにされた挙げ句、陸地とも距離を取れずに翼腕で風を掴まえきれなくなったか、徐々に側防塔まで引き寄せられていく。
飛竜の身体をぶつけた勢いで塔がどこまで壊れるか、想像もつかなかった王子妃は思い切ってその背から、鎧われた長首を伝って頭角まで駆け渡るというと、傷口から血をぬらつかせる首元めがけてさらに得物を、槍も折れよとばかりに突き立てた。
「このォッ、刺してんだからちゃんと曲がんなさいよッッ」
響かない位置に陣取ったとはいえ、その金切り声を間近に浴びて気をやりそうになった彼女は、それでも唯一開けられていた傷口をほじくり回して刺激を促し、その激痛から竜も姿勢を反射的に崩して、宙で暴れざるを得なくなる。その事によってこの飛竜は、側防塔の縁にこそ軽く衝突したものの、括り付けられた縄索によって自慢の翼膜も引き千切られ、継ぎも入らぬボロ布のような翼にされては、姿勢も直せず不格好に中庭へと墜落させられた。
翼膜の千切れる際にかかった制動を利用して、槍を引き抜き猫のように着地したニィルボグは、未だ残響の強く残るとんがり耳をそれでも澄ませて、夫が駆けてくる動線を塞がないような位置取りをしながら、起き上がってくる金切竜からの反撃行動に備える。
「いい嫁を持ったなあいつ」
「危ないところでしたなぁ。王子妃様がいなかったらと考えただけでも私、どこにあるやら知れなくなるほど肝が縮み上がりますぞ」
側防塔内部の螺旋階段を下りる途中にある、縦長の狹間からことの成り行きを見守っていた公王は、傍にいた道化がいつぞやの冗談を繰り返すほど余裕を取り戻したのを見て、この小男の腹を軽く蹴りつけることで応じてやった。その意味を知らないために少々顔を青くしたミメイトの足元で、仮面の小男は嬉しそうによろめく仕草をとってふざける。
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