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#5-3 “追憶の甘い痛み”

 結局王子妃の叙勲式がお流れになってから二日が過ぎた。

 そもそも彼女が騎士になるはずだったその日は、シャイシルトからの伝書鴉が到着する当日でもあり、その内容がまたしても金切竜が返り討ちに遭い、その深手を癒やすのと新しい外殻の定着を待ったのちに、仮の塒からアメンドースさして襲撃を始めるだろうという西方の観測班からの報告であったため、一通り戦闘態勢の備え終わった領内でも明後日に襲来があることが確定したのを知ると、残る一日は最後の詰めとばかりに、準備の忙しさをいや増していたのである。

 もはや件の竜が十五日おきに銀山脈を越えて、アメンドース公国に飛来することを疑う者は誰もいなくなっており、前日となる最終調整日の夕刻ともなれば、本領決戦の雰囲気にあてられた多くの騎士たちが、一種の狂乱にも似た熱狂に駆られてお祭り騒ぎを始める様相もそこかしこで見られた。しかし各近衛長やあるいは二人の王子ですら鎮めるのに気を揉んだこの空騒ぎにも、いつ休んでいるのか知れないミディクライン公がひょっこり顔を出してくるというと立ちどころに静まり返り、冷静さを取り戻したアメンドース騎士団が歩哨を残して持ち場に戻ると、彼らもまたそこを“仮の塒”として一夜を明かしたのである。

 「随分夜も白んだな。軽く寝ておけルクス、いざという時にお前が戦えんでは困る」

 「……殿下。問題ありません、私も今ハイユーズと入れ替わったばかりです」

 払暁のアメンドース城、その壁垣に設置された弩砲の脇で、夜の明けていく空を見るともなく見張っていたルクスは、近づいてきたボギーモーンに一礼したのち、階下の詰め所を指差してそう答えた。

 王子が近衛長の示した方向へ視点を移した丁度その時、飼い主の帰還を待っていた犬の鳴き声が、歓迎の声音を伴ってかすかに鋸壁まで響いてくる。見れば門衛塔にある出入り口の扉を開いたハイユーズの足元に、ちょこまかと走り回っては短い前脚を主の脛周りに当て当てする、焼き立てのパンに尖り耳が生えたかのような仔犬が遠目からでも確認出来た。

 「あいつ、コーギーなぞを飼っていたのか」

 「交易品に隠れてうっかり紛れていたのを、最近引き取ったのだそうです。彼も元々インカベディ領の牧場まきばの出でしたからね、牧羊犬には慣れているとかで、すっかりあの調子ですよ」

 「近頃残飯を選り分けていると思っていたが、そういうことか……まあ生きるのに張りが出たなら良いことだ」

 階下の扉が閉まって再び静寂が訪れた時、いよいよ日の出と見えて彼方の地平からの来光を背に浴びた二人は、未だ夜の帳をめくられていない銀山脈の稜線を睨みつけていた。

 「……金切竜は不思議と、夜の間は飛んできませんでしたね。おかげでこうして準備を整えやすくもありますが、何やらそんな規則正しさを不気味にも感じます」

 「半月に一度の周期性といい、まるで“時計”と戦うかのようだな。もっとも調整が要らない分だけ、竜のほうが幾らか誠実かもしれんがね」

 いつになくボギーモーンが際どい言葉を使うので、ルクスは周りを見渡したのちにそれに続くことにした。

 「しかしフル=オークの動向に関しては、結局不規則どころか音沙汰も無かったですね……矢文は回収されていたようですから、忽然と姿を消したということもないでしょうが、このままこちらが何も把握出来ないというのは、状況として憂惧ゆうぐを残すようで歯痒いものがあります」

 「既に『王子妃を騎士と認めた』と触れ回ってしまったが、その確認にさえ動きを見せん。結局叙勲はお流れになったのでかえって助かるのだが、何の興味も動きも示さないとなると、幾らなんでもこれは異常だぞ。今日の決戦だけで荒事が終わってくれるのが、結果としてはこの上ないものなのだがな……」

 このニィルボグを騎士に任ずるという措置には、フル=オークとの和睦が破棄された場合、公王の命のもと彼女に同族殺しをさせるという意味も含まれている。その効果を見込んだからこそミディクラインは、今の曖昧な状況下で叙勲式を執り行うことを許可したのであった。これがネルドゲルたちと敵対状況にある中で行ってしまった場合には、文字通り本当に“人質を取った”という意味でしか内外を問わず評価を受けないことは必至であるために、公王がそれを承認することはあり得ないであろう。

 「分からないのはあれほど戦線に立ちたがっていた王子妃様が、何故今頃になって断固それを拒否しているかということです。まさか、オークたちが裏切ることを予め知っていたとでも言うのでしょうか……」

 本当は男女間における交流に疎かった、自身の未熟さが招いた結果であることを知っていた王子は、近衛長の中にすら未だ残る偏見から、ニィルボグのことを気の毒に思った。

 「それはお前の想像だ、実際の原因は私にある。あのまま騎士にされたのでは、妻は今後父上の命に背かないことを誓わなければならなくなるのでな……その前に処置を施そうとしたのだが、どうやら話の持って行き方がマズかったらしい」


 しみじみ西方へと朝陽の輝きが、地を駆け伸び上がってゆくのを眺めていたボギーモーンは、視線を同じくするルクスにその時の事情を話して聞かせた。一連の顛末を語り終える頃には、顔を見せた太陽がいよいよ銀山脈の峰々を黄金に染め上げ、その稜線がまるで闇を裂いて中から光を溢れさせたように、煌々と美しくそれを輝かせる刻限になっていた。

 妻から事情こそ知らされていたルクスも、ボギーモーンの立場や心境を慮ったエイミリンによって説明を省かれていた仔細のやり取りを王子から補足され、ようやく得心のいく顔になっていく。

 「うーむ……誠に申し上げにくいことですが、確かにそれは良くない切り出し方でしたね。王子妃様が殿下との婚姻を本意に思っていたかはさて置き、その関係性そのものをぞんざいに扱われることは、我々騎士で言うところの“守るべきもの”と、同じようなものを蔑ろにされたように捉えられる御婦人は多いことかと存じます」

 「ふふ、お前の細君にも同じことを言われたよ。あの後で妻にそう切り出した理由こそ説明したが、それはもうこっぴどく叱られてしまったものだ」

 夫婦で信条を同じくしていたことに心嬉しいやら気恥ずかしいやら、とにかく汗顔の至りとなった近衛長は、誰かと向かい合って話していないことが、これほど救いとなったことはそれまで一度も経験がなかった。

 「とんだご無礼をいたしましたッ、我ら至らぬ真似をしたばかりにお恥ずかしい限りで」

 「いや、いいんだ本当に……私は母というものをよく知らないが、もし生きておられたならば、あのように正しく怒ってくれる女性ひとであって欲しいと思う。本題に入るにも作法があることは分かっていたつもりだったのに、アレを目の前にするとどうも、私は手違いが多くていかんなあ」

 一度離縁をしなければいけないような処置とはどのようなものであるか、それにしても想像のつかなかったルクスは訊ねてみたい思いに駆られた。初めこそ己の直属していた王子がオーク族と結婚するなどとんでもないと考えていた彼も、それまで交友関係に乏しかった妻がニィルボグと親しくする様子を見て、命のやり取りを繰り返してきた種族に抱く敵意とは明らかに異なる感情を、王子妃に対し心のどこかで僅かに持ち始めていたからであった。

 「しかし殿下、一体どのような―――」

 だが近衛長がその本題を知る機会は奪われた。

 銀山脈にかけられた光の帷幕カーテンの中に、一点の“染み”がうごめいたのがその目に入ってきたからである。

次回投稿は12/2中を予定しております。

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