#4-3 “Sorrows of Life”
アメンドース城の天守塔の地下では、捕虜収容所が二階層に分けて使用されている。ニィルボグが収監されたのは上の階層にある一番奥の牢獄で、ここは壁面から唯一鉄檻越しに外の様子が伺える半地下構造となっており、彼女がそこから朝陽を見たのは、この日で三度目となっていた。
「いけませんわ王子妃様、またネズミたちに先を越されているではありませんの」
艶の乱れた白金の髪ごと、寝台から引き剥いた平織りの敷布に包まってその隅でうずくまっていたニィルボグは、ようやくその言葉を聞いて鉄柵の向かいにエイミリンがいることに気がついた。鋭い聴覚を誇っていたはずの彼女も三日前の事件で拘禁されて以来、後悔や罪悪、そして激発や憎悪などが、心の抑圧を忘れた頃に代わる代わる身の内で追想される負荷を味わわされ続けたことによって、身体が気絶するのを待つかのように不定期に眠っては、うなされるように起きることを繰り返しているうちにすっかり鈍らになってしまったのである。
「食べ物のある場所を憶えると、来るたびにその数を倍にしてくるのがネズミというものですのよ。さあ、今日こそは取りにいらしてくださいな。このままでは直にお食事だけでなく、王子妃様までかじられてしまいますわ」
「……いらない」
この時ニィルボグの腹は自身を鳴らすことによって、真反対の答えを子爵夫人に返した。しかしエイミリンもまたその様子を笑うような気にもなれず、かじられた跡のあるパンと汁気の散らばったスープ、それから紅茶を新しいものに入れ替えて、空き皿へは新たに“緑色”の葡萄を添える。
「ご存知ですか、これは“葡萄の女王様”と呼ばれている果物なんです。このたび王太子様の荘園では皮ごと食べられる新しい品種を作られたとかで、私も少しばかり融通していただいたんですのよ」
対フル=オークの戦線が長らく続いてきたこともあるが、わざわざ第一城壁の城内、しかも天守の根本に収監される捕虜や囚人などそういるものではなく、いたとしても大抵下層の牢から順に放り込まれることもあって、上層に投獄されていたのはニィルボグただ一人だけであった。そういう事情もあったからこそエインビィ子爵夫人は、ルクスの手配によって選ばれたハイユーズの護衛付きとはいえ、食事を運ぶついでに様子を伺うことも許可されたのであるが、かえってそのことは今の王子妃には重圧となっていたかもしれない。
「王太子様のお酒好きは有名ですけれど、これもその恩恵ですわね」
「しつッこいなぁ……」
億劫がったニィルボグが追い返そうとエイミリンを睨みつけた時、彼女が一粒のマスカットをつまみ食いしたのが目に入った。
「あっ、あらあらごめんなさいね。実はこれ、最近のお気に入りなんですの。貴重品ですけれどとっても美味しいし、色も素敵で……ほら、お召し上がりになって」
「いい加減にしてよッ、オークが独りで哀れだとでも思ったわけ。本当は憎んでいるはずなのにおかしいんじゃないの、アンタの旦那と同じようなものよ。だったら格好つけずに餓え死にでもさせておけばいいじゃないッ」
無論この言葉は、王子妃が自分自身で勝手に思っていたに過ぎない言葉である。
相手への情報やその理解が足りなければ、期待や妄想を投影して会話するしかないことは、種族を問わず同じことなのかもしれない……そう感じたエインビィ子爵夫人は腰に手を当て、居丈高に鼻を鳴らして勿体つけたように質問に答えた。
「ニィルボグ様、種族云々と言う前に、貴女様は一つの生き物なのでしょう。『生き物は死体でも出来るようなことをしてはいけない』のですわ、これは家訓の受け売りなのですけれどね。食べないことは死体でも出来ます……でも悩むことは死体には出来ません。生きているくせに片方だけしか出来ないなんて不合理ですことよ。食べるものを食べてからお悩みなさい、それが自然というものですっ」
弱っていたニィルボグは、この時初めて彼女から名前で呼ばれてすっかりへどもどし、またしても自分自身の執着と向き合わねばならなくなった。本人には経験のないことであるが、母親に叱られた子供のような顔になった王子妃は、それでも何とか我儘に振る舞おうとする自我に抗えずに、言葉だけは歯向かわせようとした。
「だからって―――」
しかしその出鼻をまたしてもエイミリンがくじいた。子爵夫人そのヒトはたしなめるように右手の人差し指を立てながら、牢の中へと突っ込んだのである。仰天したハイユーズはすぐさま止めに入ろうとしたが、もう一つの手で自信たっぷりに止めてくるエイミリンを見て遠巻きに警戒を続けざるを得なくなってしまった。
「それに恐れ多いことですけれど……私は王子妃様のことをお友達だと思っておりますのよ、それも生まれて初めての。本当はもっと前から欲しかったのですけれど、領内の人たちときたら、“友”という意味が言葉通りではありませんの。それを“引き立て役”とか“下働き”、“顔利き役”に“中継ぎ人”と勘違いしてらっしゃるのか、およそ気の置けない仲良しと呼べるものではなくってよ。結局皆様は、自分に都合のいい道具を探していただけなのですわ」
ニィルボグはそれのどこが友達なのかは理解に苦しんだが、エイミリンのどこか天真な感じが善悪そのものを寄せ付けず、だからこそヒトが近寄りがたいのかもしれないとは思った。
「でも、私もそれらを咎める資格はありませんわね。王子妃様に初めてお会いした時にも、私はぬけぬけと『自分自身は戦わず、理想とするヒトの後ろ盾になる』などと言ったことを覚えておりますもの。きっとそれは、自分が一番嫌がっていたものを拒み続けるあまり、いつの間にかそれ以外からの影響を遮断して、なりたくないもの以外にはなれなくなってしまっていたのでしょう。でも貴女様はそれが可能か不可能かとかではなく、身一つで何かをしようとする姿勢を最後まで崩しませんでしたわ。多分、それが王子妃様というお人そのものだったから……私、たとえ相手が誰であったとしても自分自身で居続ける王子妃様のことを、あの時本当に大好きになりましたのよ」
この発言はハイユーズの前でするには危険であったかもしれない。その内容が騎士の剣を奪って公王にそれを向けたこと、第二王子の手に凶刃を突き立てたことを称揚しているとも取られかねないものだったからだ。実際この子爵夫人は、私人としては非の打ち所がないが公人としては甚だ無警戒であると評されるところがあり、だからこそ公人としては隙がないが私人としては少々抜けているルクス近衛長とも反りが合ったのである。彼と結婚しなければあるいは、その善意も悪意も距離感もなく、感性の赴くままに振る舞っては宮廷のどの派閥にも属せず、壁の花としてその没落を待つしかなかったかもしれないことは彼女自身が最もよく分かっていたが、結局それが自分自身であるという自覚もあり素行を変えられなかったので、一本筋を通そうとしたニィルボグには共感と憧れを抱いたのかもしれない。
いずれにせよハイユーズは、我関せずといった立ち位置に居続けることを決めた。上職である近衛長に似たのか、彼もまたそういう男だったからである。
「奥方、私はこれを下げて参ります。何かあればお知らせください、ただちに駆けつけて参りますゆえに」
自分が傍にいることは無粋であると判断したハイユーズは、甚だ危険であると知りながらもその場から離れることを選んだ。フル=オーク族の王子妃を信じたというよりは、ルクスの妻を尊んだというべき選択であったが、自分もまた“騎士の瑕疵”を突かれれば自滅を免れないであろうことを自嘲しながら、彼はネズミがあちこちぱくついたお膳を飼い犬の餌に変えるために、入り口の守衛所まで引っ込んでいった。その心遣いをしてくれた近衛の背に礼をしたエイミリンは、新しく食事を並べた膳を牢の差し入れ口に寄越すというと、そこから一歩引いてニィルボグに告げた。
「……さ、焼き立ての冷めない内に。もし誰かが傍にいてお召し上がりにくいのであれば、私もこれにて失礼いたしますわ。もしお望みでしたら人払いも守衛のお方に頼んでみますから、どうぞご遠慮なく仰ってくださいね」
未だ温もりを保つパンから放たれる、少し焦がしたようなライ麦の香りが、しっかりと煮込まれた鶏肉と二十日大根のスープに添えられた茴香の匂いと絡まって王子妃の鼻孔を満たしてきた。
「……んぅ。わ、分かった。分かったわ、もう降参……そこにいてよ、外にいられる方が恥ずかしいから」
亡霊のように包まったままの敷布を引きずりながら、涎を飲み込んだ喉を大きく鳴らして引き寄せられるように膳に近づいたニィルボグは、まるで財宝でも掘り当てたかのような表情で僅か湯気を放つ食事と向き合うと、気を配って守衛所へと目線を向け続ける“友達”を打ち見するが早いか、スープの皿から手をつけ始めた。
おそらくカトラリーなど使っていないのであろう、粗野な食事の仕方が伺える音が聞こえてきたのに安堵したエイミリンは、視線はそのままに何気ない話を始めて、身の内からこみ上げるものを抑え込む。
「……ライ麦は丁度時期なんです。農地に何事も無ければその後は、豌豆を蒔いて冬を越して……春には苺と一緒に穫るのですわ。この間は食べそこねてしまいましたけれど、ティースタンドの中段にあったパンケーキ。あれに塗るためのクリームをつけて、その苺を食べるともう絶品ですのよ。それにアメンドースの豌豆は甘さが強いので、莢の苦味を引き立てますからローストビーフに合わせるととっても―――」
啜り込むような音がしたので、思わず言葉を止めて王子妃へと振り返った子爵夫人は、鬼哭とも悔し泣きともつかない、ともかく大粒の涙をこぼしながら犬のように食事を貪るニィルボグの姿をそこに認めた。それを受けたエイミリンもついにこらえきれなくなり、まるで自分自身が救われたも同然に感極まった。
腹も内から温まり、膿を出し尽くしたようになった王子妃は、結局子爵夫人と半量に分け合った“ブドウの女王”を一粒一粒、まるで宝石でも千切るかのように惜しみながら口へ放り込んで話を切り出す。
「それで……その、あのヒトは……王子はどうしているのかしら。あんな怪我で、まだあちこち働かされているんでしょう」
「勿論まだ動かすことは厳禁だそうですけれど、手創は縫い留められて繋がっていらっしゃいますわ。ただ、完治するまでに金切竜が飛んでくる可能性は否定できないと、殿下ご自身が仰っておりましたけれど……」
さもありなん、といった具合にニィルボグは眉をひそめるしかなかった。
「やっぱり嫌われてるわよね……あぁ、それは元からかな」
二粒を残したマスカットの房を乗せた“左手”を見つめながら、自棄と切願を綯い交ぜにして独りごちる王子妃の肩に、壁の鉄格子から洩れ来る光の裾が降り注ぐのを見たエイミリンは、あるいはそれを期待しているであろうニィルボグの心にこう答える。
「この捕虜収容所の一番端の監房にだけは、外から日光が差し込むことをご存知でしょうか。殿下は御自ら湯治場の医療室へ向かわれる時、夫にここへ王子妃様を置かれるように仰ったのですわ……私思うのですけれど、あの殿下がお嫌いになられたヒトに対して、果たして昼と夜とをお授けになるとは信じられません。もっとも慈悲深い方ですから、種族位階に隔てなく処置を取り計らわれたと仰られればそれまでですけれど、でしたら陛下に白刃を向けられた時点で、何らかの厳罰を以て断罪する方が自然に考えられます。それをああして丸ごとその掌に受け止められたのですから、王子妃様は紛れもなく、騎士たる者の守るべき婦人として肯われているに違いありませんわ」
この子爵夫人の励ましを聞いて、真否の程はどうあれいくらか救われた気がした王子妃が、手慰みに弄っている房から葡萄一粒をもぎ取って口に放り込んだ時、彼女の肩にかけられていた光が遮られる。いくらか勘を取り戻したニィルボグは、エイミリンよりも早くそれに気づいて振り返るというと、影の落とし主が格子窓の向こうで、両の眼を光らせながら羽を休ませているのを認めた。
「……“あの子”だッ」
「渡鴉ですわね……って、えぅっ」
子爵夫人が驚きの余り最後の一粒をむせた時、王子妃はシャイシルトから飛ばされてきたその伝書鴉を口笛と共に呼び寄せる。格子の間を何とか抜けてきた彼をその肩で受け入れた彼女は、二度と会えないと思っていた友人との巡り合いに顔をほころばせた。しかしその脚元にくくられている筒にあった“一本角の狼”の封蝋を見て、渡鴉との再会に抜き差しならない緊急性を感じることになる。
「はぁぅ……おかしいですわね、こちらから送り返した伝書鴉は、本来明日あたりにシャイシルトに到着するはずです。立て続けに送られてきたということでしょうか……」
福々しい胸元を抑え込んで、何とか息を整えたエイミリンが訊ねたとき、慣れた手付きで封蝋を文書筒から剥がしていくニィルボグを見て再び仰天する。
「あぁっ、いけませんわ。送られてくる書簡をお読みになれるのはまず公王陛下か、その方が不可能であれば、それに血の近しい者から順にと決まっているのですよ。あっ、困りますわ王子妃様、あーっ」
そんなことは百も承知であった王子妃がさっさと中身を確認したのは、フル=オークと繋がってしまったはずのこの個体を、わざわざ送ってくるほどの重大な事態が発生したことに気がついたからである。
「最悪私の元に、先に届いても構わないからこの子を寄越したのよ……やっぱりッ。ほら見てエイミリン、すごくマズいことになってるわ」
「い、いけないわいけませんわ。そんなことをしてそれが陛下のお耳に知れたら、夫婦共々“ここ”に入れられてしまいますわ。きゃーっ、ダメダメダメっ」
そう言いながら顔を手で覆う子爵夫人の指元には、バッチリと両目の部分にだけ隙間が空けられており、一転ニィルボグはその明け透けな素振りに呆れ返させられる。とりあえず彼女は、この長旅の務めを無事に果たした“一人目の友人”に、葡萄の女王から最後の一粒を千切って差し出すというと、彼は眼を細めながら渇きを潤すようについばんだ。




