#4-2 “作戦会議3 ~ 決戦”
委員会室に集められたのは先の四人と公王にその道化、あとは王太子とその側近たちに加えて、立法府の主に貿易や外交政策を司る議員に法服貴族が数名、そして各公族が保有する荘園の管理代表者を務めるそれぞれの農奴といったような面々である。ボギーモーンはその様相を見るや、これから行われるのは評議というより私的な裁判のほうが性質としては近いのではないかと察したのだが、実質は果たしてその通りであった。
第二王子たちが着席したのに続いて“入廷”したのはルクスの部下であり、ボギーモーン近衛隊を指揮する片翼も担うミメイトであったが、彼の風貌には室内の一同が驚愕することになる。応急処置こそ済まされていたが、その身体には矢傷の跡と思われる治療痕が肩に背中に散らばっており、左腕を包帯で吊りながら一礼をするその姿は、明らかに何者かによる襲撃を受けたことを証明していた。
「これが何を示すものであるか分からんとは言わせんぞ」
評議の第一声はミディクライン公が発した。室内に響き渡る程度の、やや大きめな声色である。
無論第二王子や近衛長たちは驚かされつつも、その意味を瞬時に理解していた。ミメイトにこのような不慮の手傷を負わせた要因は、彼らの指示が招いた結果であったからである。しかし他に召集を受けた面々は事情を知らないからこそ仰天させられたのであり、そういった意味では、ボギーモーンたちの受けた衝撃とは趣が異なっていた。
「……では第二王子が近衛のミメイト、無理を押させるようだが説明を願いたい」
すかさずインミークが進行を務めた。
アメンドース領では公王たる君主と行政を司る立法府、そして法律貴族の管する司法貴族院による三権が、それぞれの機能を担うことで国家作用を行っている。しかし君主は添え物ではなく、実際に三つに分かたれた権力の一角をその身一つに保持しているため、彼の持つ領内に対する影響力たるや絶大である。ミディクライン公はそうした力を、このような非公式の“集まり”などを開くことによって、不測の事態に対応する段階を引き上げる事を特に好んでいた。民主的な総意が必要な場面はそれらに任せておくとして、あからさまに抜本的な挙動が公国内に必要になった際に、民意を汲んで一寸刻みに動くことは、彼にとっては何よりも公族としての沽券に関わることだと信じていたからである。
このような性格の公王を父に持つインミークは、その気質からなる勢いを利用することで事業が加速することがしばしばあったため、今回のように便乗しつつ、全体の様子を伺うことが顕著であった。その一連の行動様式は結局臣下の者や、他の二権を司る者たちへの進退にも影響を及ぼすことが多かったため、今度の司会役にしても王太子へと精神的に従うべき案件の一つであると見られたが故に、不平不服を申し立てる存在が無かったのである。
「……はい王太子殿下。私はルクス近衛長指示のもと、第二王子ボギーモーン殿下の所有される荘園から、此度金切竜からの襲撃によって、二度目の損害を被ったフル=オーク族に対する支援物資を輸送する部隊の指揮を任されました。昨日三度目の鐘が鳴る頃までには一通り、資材や人員、接見役の野伏などを揃えて第三城壁を越えて根深の森へと向かいました。日没した四刻(葦原では一刻十五分の単位となっている)ほどのちでしょうか、普段野伏たちがフル=オークどもの使者と会見している地点へとたどり着きましたが、そこに待ち構えていたのは武装したオーク兵の集団だったのです」
ルクスは勿論その他の誰もが、ミメイトにつけられた新たな傷からその後の展開を察したようだった。
「彼らは警戒体勢をもって我々の目的を訊ねてきました。それが支援物資を運び、必要であれば復興作業の人員も提供することをこちらが答えると、この援助の指示は誰によるものかを続けて問うてきたのです。そしてこの指令はボギーモーン第二王子に仰せつかったものである事をさらに伝えると、連中は殿下を“ニィルボグ王子妃をたぶらかしたる者”と愚弄した上で、眠らずの砦に間者を送り込んで同胞を殺したという冤罪を、一方的に着せてきては襲いかかってきました」
自分たちの確信が事実に変わったこの報告に、会場の公王と道化を除いた誰もが嘆息する。特にニィルボグのそれは大きなものであった。彼女は野伏によるオーク兵への介錯に嫌悪感こそ露わにしたが、だからといってその報復を喜ぶこともない。そもそも故郷で爪弾きにされ続けてきた王子妃にしてみれば、今更自身の存在をオークたちが錦の御旗に掲げる道理も感じられなかったため、単なる大義名分として使われた程度にしか思わなかった。しかし自分がそういった“道具”として扱われた挙げ句、軽挙にも同盟先に手をかけたきっかけとしてこの場に存在させられている事については落胆を禁じ得なかったのである。
「我々の中に戦闘準備をしていた者は殆どおりませんでした。まず丸腰の人足と馬とが射掛けられ、特に野伏の者が集中的に狙われて真っ先に命を落としました。私を含め僅かいた騎士も流石に多勢に無勢であり、今湯治場にて治療を施されている者たちを庇いながら、引き返すのがせいぜいといったところだったのです。兵馬はことごとく射殺されてしまい、二頭の荷馬に怪我人を乗せてからがらアメンドースさして帰ったのが払暁のことでした……これは、部下の身体から引き抜かれたものです」
そう言いながら彼は、射掛けられた矢の一つを取り出した。朱塗りの本矧に大鷲の矢羽根、鏃には燃える三日月を認めたニィルボグがしかめた顔を見て、ミディクラインは少なくともそれがフル=オークの使うものであるという確信を得た。毅然としてはいるが目に見えて疲弊している近衛の様相から、血が足りていないことを洞察した王太子は、これ以上は限界であると判断し、公王を打ち見して父が頷いたのを確認するというと、振り返ってこう伝える。
「大儀であったなミメイト、外に担架を待たせてある。今は身体を休めてくれ……これでフル=オークとの同盟がこじれたとすれば、今後は金切竜とフル=オークに対する二正面作戦を強いられかねませんが―――」
一礼した後、ニィルボグをひと睨みして退いていく近衛を見送りながらインミークが私見を述べる途中で、ミディクラインが合図で差し止めることによって、この評議の司会役が彼に明け渡された。
「想像で判断するな。ネルドゲルとは意を異にする勢力が、こちらとの対立を煽ったことも考えられようが。現状は大将軍の確たる意志が分からんままで動くべくもないが、今一度使者を送ることは甚だ危険であると見て良いだろう。それらを見分ける術がこちらには無いし、ますます王子妃を差し向けることも難しくなってしまったからな……ボギーモーンよ」
公王は視線を変えなかったが、その声遣いには明らかに咎める調子が含まれていた。自身の名を呼ばれた第二王子は、あらゆる感情的な反応を封印しながらその場に立ち上がった。
「物資の供出を咎めはせん。運んだものはお前の荘園に備蓄されていたものだそうだし、こうした支援活動は即断即決に限るからな。聞けば部隊編成の報告書もすでに提出されているそうだから、しかるべき処置を終えているのなら今頃はルクスの手を伝って、お前の手元にあるといったところだろう……問題は物資提供にあるのではない、それを独断専行したことだ。フル=オーク側の感情を少しでも顧みれば、今の状態で“ボギーモーン”という名を聞いた彼らの神経がどう逆撫でされるかくらい、見当がつきそうなものであろうが」
ミディクライン公はここでボギーモーンに、騎士団長の片翼としての返答を待ったようだったので、彼は起立したままかねてより用意していた、事後報告用の陳述を流用することでもってそれに応じた。
「意見も具申せずに早まった真似をいたしました。先々日の一件に即応して輸送部隊を編成いたしましたのは、仰せの通り救援を行う速度も勿論のことですが、鍛鉄を未だその身体に馴染ませていない、金切竜の飛来があり得ないからでもあります。ミメイトにつけた野伏も件のオーク兵を看取った者をもう一度配置しておりましたが、これは事後処理の甘さからフル=オーク側に誤解を与えていた場合、本人が自身でその宥恕を乞えるようにと考えてのことでした」
息子の腹積もりが本当のところどうであるかは父王には興味が無かった。彼の気にするところは実際、王太子の指摘も然ることながら、それ以上にネルドゲルの真意である。ニィルボグの実父でありながらほぼ人質も同然となる彼女を人間側に預けることを肯い、なおかつ金切竜が何処にいるのかも分からない状態で“竜を殺す手”の完成を強行するということの、何も整合性を感じられない行動などから彼の狙いが読めず、さりとて無根拠とも思えぬその活動内容に対し合点がいかなかったのだ。ミディクラインは半ば自分に言い聞かせるようでもあることを自覚しながら、一応の理屈は並べてきたボギーモーンに裁定を下し、加えて内政に強く影響する者たちにも同時に牽制をかけていく。
「どうも近頃は全体に対する理解度の低さが目立つようだな……目の敵になるような者をわざわざ派遣して、誠実さに身を任せれば手打ちになるとでも思ったのか。交渉とは一挙手一投足を道具に変えることだ、価値づけ出来んものはそれこそ無価値になるからな。お前はこちらとの同盟を反故にしたいかもしれない勢力に、格好の正当化となる理由をぶら下げてしまったに等しいのだぞ。これまで憎み合いこそすれ、何かに共感し合ったことはまだない種族に対し、いきなり感情に訴える真似をしてどうするのだ」
“公開私刑”であるな、と傍に立っていた道化は特に思った。実際は第二王子に牽強附会して、それを通じて室内に座っている貴人たちに伝えたい何かがあることは、およそこの仮面の小男だけではなく、公王の話を聞く者全員が分かっていたことであるが、この非公式の議会を開くことを実際に手配したインミークだけは、その集めた面子から何となく察しをつけているようだった。
「感情とはそれから一歩退かない限り、絶対に価値をつけることは出来ない。誰のために動いたのか知らんが、私人としてならともかく、公人として親しいものに対する深入りをすることは禁物であろう。一個人として不慣れな生活を始めたことで、この頃は幾らか振る舞いを乱れさせていたようだが、今回のそれはほとんど最悪のものだ。これを好機と捉えた領内の、各議会の者やら法服を着た者やらの中から、反動勢力に回る連中が出てきたら取り返しのつかんことになるぞ。さて、どのような沙汰にしたものやら……」
公王の狙いはこれであったのかと、普段の父王らしからぬ冗漫な説教を受けていたボギーモーンはようやく得心した。何しろミディクライン公は論功行賞から勅裁懲罰に至るまで、無駄に時間をかけるのを嫌うことで通っており、その機械的にすら思える感情の読み取れなさから“撥条公王”や、実際彼が領内に設置させたそれにちなんで“時計王”と呼ぶ者までいたほどである。
そのミディクラインが暗に伝えるところには、もはやボギーモーンが起こしてしまった事は取り返しがつかないため、対竜政策下で現状表立ってはいない復古主義者や、オークを是が非でも排斥したいと考えている者たち、単純に公王を嫌う勢力などをこの場の貴人たちからの上意下達でまとめて抑え込み、その演芸ののちに第二王子と関係者を処断して、被害者にいくらかの溜飲を下げさせるという意味合いが含まれていた。彼の本音どころを言えば特段ボギーモーンのしたことも、連絡と相談こそ欠いていたが作戦行動自体は悪いことではないものとみなしており、それが上手くいったらいったで僥倖の状況であったため、公王の立場からしてみれば実際、どちらに転んでも正当な結果になるように調整するだけのことである。
とはいえ今回の一件は第二王子の勇み足によって、無視できない損害と同盟の軋轢を生み出してしまったことは事実であり、何らかの制裁措置を下さねばならないことは確かであった。本来こういう役回りのための法服貴族であったが、彼らによる弾劾ではかえって処罰が軽いものになりかねず、その忖度を快く思わない者たちの増長を招かないためにも、公式な場で実の息子に厳罰を与える必要に、ミディクライン自身が迫られてしまったのだった。
「近衛長とその細君が荘園にて、愚息から受け取った書状を使って荷拵えの手配に尽瘁したことは、管理人たちからも既に報告を受けている。私的なきらいのある計画ではあったが……ボギーモーンの指示に従っただけのことだ、咎は無かろう」
公王が素の状態に戻ったのを見て、あるいはこの評議が今ようやく始まったのかもしれないとルクスは感じた。エイミリンもひとまずは安堵したものの、事態の収拾がついていないことは当然自覚しており、残された新婚夫婦に対する処断に、募った不安が丸ごと移ったようになったのである。
「王子妃にしてもこの件に関与したという裏付けは得られなかったし、仮に動いたとしても、その行動理念に理解を得られるまでには時間がかかることだろう。みな第二王子の一存によって動かされたと考える方が自然であるとみたが、実際のところはどうなのだ」
ボギーモーンは難しい回答を強いられることになった。事実その問いには肯定をもって応えるしかないのだが、言い方によってはあらぬ方向に累が及ぶことにもなりかねなかったからである。
「……ご推察の通りです陛下。妻を直接故郷へ送ることは、今回のような事態に陥った場合最悪の結果を招きかねません。よって同盟の事情を探りつつ、段階を踏んで交渉にあたるつもりでしたが、この結果は慚愧に堪えないものであります」
父王は“本心”という奥の手を、この潮合いで切ってきた息子に成長を見た気がした。今回の実態を単純に俯瞰すれば、ボギーモーンがニィルボグのために身銭を切って動いただけのことである。だがそれを初めからひけらかすような真似をすれば、後になって本心という価値そのものが交渉の中で薄れてゆく。それを伝えるための潮目を読むことに抵抗が無くなり、公私を使い分けられるようになってきただけでも、この失敗から得た学びとしては充分なものであろうとミディクラインは評した。
いずれにせよこの第二王子は対竜設備の陣頭指揮を執る立場であったし、その補佐を務める近衛長共々、急造の砦を音頭を取ってこしらえさせたりと、彼らの手腕そのものは全く見事であったため、いよいよ金切竜が再びやってきた際に、この二名が処罰によってそれまで動けなかった場合、フル=オークに対する目配せも含めると、前回以上の損害を被る可能性は高いであろうと公王は判断する。彼はその対象を子爵夫人に置き換えても、周囲の溜飲を下げさせるには弱く、やはりというべきか結局政治的な象徴としても、王子妃に一時泣いてもらうより他にないであろうという結論に至らざるを得なかった。
「一度として一敗地に塗れない一流など存在しない、ヒトでも国でも同じことだ。過ちはそれ以上の実りをもって取り返すが良かろう……だが、王子妃の身柄は天守の地下に移し替えるように。それはフル=オークの動向がいかなるものか判明するまでか、あるいは金切竜に対する非常事態宣言が解かれるまでかの、いずれかが完全に解決するまでの措置とする」
このミディクライン公による沙汰には、彼自身がそれを狙ったのもあるが、会場の全体がどよめかされた。天守をいただく塔の地下といえば捕虜収容所だったからである。主君の意図は多くの者が察したようではあったが、仮にも公族の配偶者を囚人も同然に収監することは、対象者が異種族とはいえ領内の歴史においても前例が無かったものであり、それは同時に第二王子に対する、周囲からの汚名を甘んじて着せるという意味でもあったからだった。
「あそこに拘置せよと仰るのですか、仮にも王子妃は今や公族の一員なのですぞ。謹慎させるなら他所でも出来ましょうし、何より全ての責任は私にあると先程仰ったばかりではありませんか。同様の処置をなさるのであれば、それは私が今後の義務を果たした後に受ければよろしいでしょう。どうか私めに騎士としての使命を与え、婦人を盾にさせる不名誉を取り払ってはいただけないでしょうか」
ボギーモーンはこの処置に反駁した場合、自己保身する印象を周囲から免れ得ないことを自覚しながら、敢えて皆が分かりきったことをそのまま口に出す。今度はミディクラインが理論武装を行う番になったが、息子のこの反論にはあまりにも穴がありすぎたので、軽く駄目押ししてやればそれで充分であった。
「お前に処遇を決める権利や資格があると思うのか……調印式前の私闘を忘れたわけではあるまいな。王子妃のその後の振る舞いから見ても、ついと激情に身を任せて騒動になれば事であろうが。個人としてもその者が持つ武事の才幹は強すぎるものを感じるし、有事にそれが重なったときの憂いを考えれば、むしろ措置としては適切なことであろう。らしくもなく些事にかまけているようだが、まずお前の妻がフル=オーク族であることを鑑みてみよ。既に向こうから布告も無しの先制攻撃を受けた状況になっているのだぞ、領民の感情への配慮や今後の交渉に向けての対応としては当然のものではないか」
確かに王子妃に対する人間族の懸念を慮れば、第二王子を以後も責務に邁進させながら与えられる懲罰としてはこれ以上のものは無かったのであるが、仮にもニィルボグと婚姻させた謂わば仲人でもあるにも関わらず、さらには彼女に咎は無いとしておきながら、その舌の根も乾かぬうちに異種族として突き放したようにする父王の徹底的な公人ぶりに、ボギーモーンは本当に心が撥条仕掛けなのではないかと疑う気持ちを抑えられなかった。ミディクラインはそれを察したか、およそ情など不要とばかりに実の息子の退路を断ち切りに出る。
「……領地を竜が襲った日、お前に“世界の仕組み”を教えたはずだな。覚えておるはずだろう、そらんじてみせよ」
(残酷なお人だ。背中を押す時にさえも、命令と強制とを突きつけることを厭わない)
それまで一切姿勢を崩さず、冗談の一つも口にしなかった仮面の小男が心の中でそう独りごちた。それは彼が笑いを差し挟める状況ではなかったからでもあるが、何より詮索のつもりで参加した茶話会によって、本人が予定よりも深く、第二王子たちの間柄に首を突っ込んでしまった負い目があったからであろう。
“天守での会話”を知っているのは、この父子を除けば道化だけである。彼はあるいはボギーモーンが、その内容を忘れてさえいればと期待していたが、王子の口から出た言葉に淡い希望は打ち砕かれた。
「……“生涯の友にせよ連れ合いにせよ、故意に作ろうとして作れるものではない”と」
当然これは公王が言わせたい答えではない。あくまで彼の狙いが、王子妃の拘束を承服させるものであったからである。
「違う、その一つ先に言ったことだ」
このミディクラインによる言の後、沈黙が生まれた。特に当事者でありながら、その意味をまだ知らないニィルボグは嫌な予感がしていたであろう。既に“正解”の一部を口に表してしまったボギーモーンは、今更そらとぼけることも出来なくなってしまったため、父王からの問いに完答せざるを得なくなった。
「……“それが、必要になったからこそ”」
彼にはこれの続きを言うことはためらわれた。その刹那の逡巡に王子妃を僅か一瞥してしまう悪手をはたらくほど、ボギーモーンは追い詰められていたのかもしれない……あろうことか憂える妻と目を合わせてしまった彼は、折角築いてきた城壁がもろくも崩れ去ったように感じながら、最後まで言葉を繋いだ。
「……“道具として、いつの間にか目の前に与えられている”と、仰せでした」
やはりと言うべきか、その言葉を聞いてニィルボグは愕然とした。
彼女は自分を取り巻く人間たちに……彼らはおよそおくびにも出さないが……政治利用の材料として、いいように使われる事以外の価値を持たされないのではないかという恐怖を、常に心の底流に漂わせていたのである。それでも王子妃は夫との距離が遠いことは何ら問題にしていなかったし、本人なりに政略上の邪魔になることを指摘されれば出来るだけ妨害をしないように努めてきたのであるが、それはひとえにボギーモーンから、“それだけではない何か”を感じさせるものがあったからだった。
しかしながら彼から放たれたその一言は、調印式以前から結婚相手を利用することを心得ていたと判断するに足るものであり、自身の勝手な解釈と期待とはいえ、一存在としての人格が裏切られたような気がして失意に突き落とされたのである。
「そうだ。血筋も位階も資産も美醜も、あるいは種族も環境も、全ては道具や手段に過ぎない。それらの使い方を学べ……でなければお前の目の前にあるものに、逆に使いこなされてしまうのだぞ。お前は葦原五大名家が一つ、アメンドースの旧き血を継ぐ男なのだ。騎士としての使命は、牙なき民草を守ることでもあるのを思い出せ。その上で王子妃をも守り通すと言うのであれば、自らの手で妻を拘留するがいい。このまま二正面作戦が現実のものとなり、お前の妻を憎んで領内から反旗を翻す者が出てきたとき、本当に守るべきものが何なのかを見失いたくなければな」
凄腕の騎士でもその自らが掲げた矜持によって破滅を迎える物語はいくつも伝わっているが、今回はその典型的な陥穽であるといえよう。この“時計王”は今やそれこそ私人としての性能を自ら除却してしまっているのであり、主君という公人としての機能を全うすることがその全てであった。“撥条仕掛け”の彼にしてみれば矜持そのものが騎士という道具の弱点であったため、そこを突くというと彼らが立ちどころに自己矛盾に陥ることを熟知していたのである。
よって父王から“騎士たる者の瑕疵”を突かれてしまったボギーモーンは、隣り合った妻の眼を見てより一層追い詰められたようになった。何しろそれは、彼女と初めて出会った時の、兜越しにみた目線を思い出させるものだったのだから。
「……それなら、あたしがやったげる」
ニィルボグは夫が暗唱させられた文言を聞いた時からというもの、それまで自身を満たしていた炎熱は潮のように退き、何か別の憎しみが彼女の内側を煮えたぎらせていた。居ても立っても居られなくなった王子妃は、ドレス姿もそのままにそう宣言するが早いか、ルクスの佩いていた剣をその鞘から奪うように抜き放つと、委員会室は中央の通行路まで跳び下がってミディクラインにその白刃を向ける。ボギーモーンをはじめ、各近衛長も遅れを取らぬよう駆け寄ろうとするが、公王自身が合図を送って差し止めた。
「何が出来るというのだ」
茶でも差し出されたかのように平然として問いかける、その顔を切り刻んだ時どう反応するかを拝みたい気持ちを抑えながら、ニィルボグは人間族の君主に対して怒声を浴びせる。
「あたしが故郷へ戻って、気になること全部を確かめてきてやるッ。おっ父が裏切ったんならその理由まで、洗いざらい暴いてあげるわ。アンタは今まで想像だけで喋ってる……だから何も確定できてないし、そのためにどう動くかも分からない」
ミディクラインは眉一つ動かさなかったが、内心『その通りだな』とも思っていた。
「確かなことが知りたいのはあたしも同じ、だけどあたしは何者でもない。だからこそどこへ行くことも何をするかも、あたしの意志で決められるんだ。アンタには“自分”が無さそうだから分からないだろうけど、誰だって誰かを道具に出来やしないのよ。せいぜい縛りつける程度のもんでしょうね」
半ば吐き捨てるように言いながら踵を返す彼女に、エイミリンが夫の制止も聞かずに声をかけてきた。
「いけませんわ王子妃様、今ここから出られたら貴女が危険―――」
「止めるか人間がァッッ」
思ったことをそのまま言うのがオークである。不安にあっては不安そのものとなり、怒りにあっては怒りそのものとなるのだ。混じり気のない憎しみを気迫とともにぶつけられて怯まされた子爵夫人を見て、武人としての心を瞬く間に取り戻したボギーモーンは丸腰のまま論壇を超えるというと、牙を剥き出しにした妻の前に大股で立ちふさがった。
「返すんだ。それはルクスの奥方が、今まで日毎に手入れしてきた剣だぞ。それを振るうことはまかりならん」
「馬鹿にしないでよッ、これで今まで“あたしたち”を斬ってきたんでしょう。所詮……所詮王子も道具なのよ、自分が無いの。そこに座ってる道具の親方の一部分に過ぎないくせに、自分の気持ちで止めにきたでもないくせに……もしかしたら醜く生まれたことを、分かってくれるかもって思ったのに……結局そういう生きるバカバカしさに蓋をして、役割を自分だと思い込んで、何もかもから目を背けてきただけじゃない」
この第二王子は初めてニィルボグの話を聞いたような気がしたが、何も言い返さずに剣を渡すよう手を差し出したままだった。それは対話するにおいて相手の激昂を鎮めるには、言いたいことを言わせてやるのが一番であると知っていたからであったが、黙っていれば投げかけられた言葉は全て相手に返っていくという、会話の原則も同時に心得ていたからである。そのような対応を受けたため言葉の詰まった彼女は、対処に困って公王を代わりに睨みつけたが、意外なことにもここでミディクラインが、穏やかな感情を込めたような声色で王子妃を諭し始めた。
「わしはわしの心身そのものをすら道具としているだけだ、使えないものは“無用の長物”と同じだからな。自身に与えられた全ての道具に、ケチをつけては理不尽だと喚くほどそなたも幼くはあるまい……理不尽に生まれない命などあるものか。この世に生まれた以上は、不条理に生きて不条理に死ぬがよい。不条理の中に身を溶かして個我を手放すことでようやく、そこに条理を見出だせることをこそ、悟ってみたらどうなのだね」
その言動に驚かされたのは何もニィルボグだけではなく、この室内全体の、特に今までにそんな主君の様子など一度も見たことがない道化がそうであったかもしれない。実際この発言の内容こそが、仮面の小男が持つ信条とその所存を等しくするものだったからである。
確かにそういった意味では、ミディクライン公は脱人格した一つの存在として、ある種の完成を見た人間なのかもしれない。しかし光明を得た者が俗物であった頃の自分には戻れないのと同様に、未だ凡俗な感性をほしいままにしている者たちによって概ね構成されているこの“社会”と呼ばれる群れの中に、無我の境地に達した者たちの居場所など存在しないこともまた事実である。より視点の高い孤独の御座からの一瞥を受けた王子妃は、自身の孤独感が単なる自我の発露に過ぎないことを喝破されたのを、言語化出来ないまでも感じ取って独特の薄気味悪さを覚えた。
「余り時間はないぞ……別に誰でも構わんのだがな」
調子を戻した声で公王が言葉を部屋全体に投げかけると、武装を得ていた近衛たちがすぐさま応じたが、今や鞘のみをぶら下げたルクスが躍り出るのが一番早かった。
「下がれ、ルクス」
インミークの近衛長から得物を借り受けんとしていたエインビィ子爵に、ボギーモーンが待ったをかける。
「しかし殿下」
「私以外にやらせてはならぬ」
今や誰に抜き身の刃を振るえばいいのか混濁していた妻を自分だけに集中させ、ボギーモーンは徒手で彼女と真正面から向き合った。先の二人が邂逅した時のような憎悪はその瞳から既に消え失せ、どこか救いを求めるような眼差しだけを無意識に差し向けてくるニィルボグに、彼は父王の権威を超えた何らかの力を見た気がした。王子は再び妻へ、手に持つ剣を渡すよう左手を差し出したが、この時ふと備え付けたばかりの壁時計を垣間見たミディクラインは、王子妃を拘束するのが“それ”に間に合わなかったことを察した。
それが鳴らなければあるいは誰も血を見ずに終わったかもしれなかったが、アメンドースの機械式時計が領内に“始業”の合図を知らせた。
朝に九度鳴り響くその鐘の音の中、一度目のそれをきっかけとして挙措を失ったニィルボグがボギーモーンと衝突し、それ以降二人の影法師は輪郭線を一つにしたまま、その足元に敷かれた緑色の絨毯に流血による赤い線を引き続ける。旧き血が凶刃を伝ってぬらつくのを見た近衛たちが、まだ鳴り止まぬ鐘声のなか王子妃を取り押さえようとするのを、第二王子は“空いた方の手”で差し止めて決して間合いに踏み込ませぬようにしつつ、咄嗟に左掌に受けて貫かれた鈍色の切っ先から震えを感じていた。そして終の点鐘が鳴り終わろうかという時、狼狽で震え、取り押さえるまでもなく身動きが出来なくなってしまったニィルボグの両手を、右手でほぐして剣の柄から手放させたボギーモーンは、そのままルクスの愛剣を引き抜けば溢れ出る血を止めるすべが無いために、今はただこの業物を眺めるしかなくなってしまった。
「なるほど、よく磨き込んである。迷いなく突き立てられていたら、この手も斬り落とされていたことだろうな」
負傷というものはそれを受けた本人ほど冷静になるものなのか、この手創に顔を青ざめさせていたのはむしろ彼の周りにいた者の方かもしれない。
「看護兵をここへ。すぐに傷をお繋ぎしろッ」
「構わん。湯治場まではすぐ階下だ、歩いて行ける」
王子妃を他の近衛長と共に取り押さえたルクスが叫ぶのを、手巾を取り出しては宛てがってくるエイミリンに礼をしながらボギーモーンが引き止める。拘束されたニィルボグは最早抵抗の意志など無く、己のした取り返しのつかない行為に現実感を失っているようだった。彼が妻の凶器をその混乱ごと受け止めたのは、単純に覚悟と威力が不足しているのを見抜いたからでもあるが、仮にも評議の開かれたこの委員会室内で、騎士の剣による流血を見たという一つの象徴的事件を、父王の眼前で生み出すという腹づもりもあったのである。
「あなたの招いたことでもあるのだ」
第二王子がミディクラインへと放ったこの一言は、血刃という説得力をもってその場の誰もを納得させた。確かに一連の流れは公王によって枠が定められ、そこを決議が流動したのであったが、人格を超えたものを求めすぎたが故に流れる血があるのだと、その身を以て証明したからである。あくまでも騎士としての矜持で自分に向かい合ってくるボギーモーンに、ミディクライン公は自らと異なる求心力を見た気がしたが、結局は自身の裁決通りに事が運んで決着したため、公務に戻る旨を伝えると事後処理を王太子に任せて席を立った。
時計王からしてみれば、誰が何と言おうと“始業の鐘”が鳴ってから既に四分も時が過ぎてしまったので、その遅れを取り戻したかったのである。




