#2.5 “安堵と苦悩の胎動”
遠い昔、『葦原』という世界が遥か彼方にあった。
そこでは現在のように、人間だけという画一的なありさまではなく、様々な種族が栄華を誇るか、あるいは人知れず暮らしを営んでいた。
その中でもやはり、争いに積極的な類いの生き物はいた。とりわけ『人間』と『オーク』と呼ばれる種族は絶え間なく戦い、覇をとなえることに血道をあげている。
この物語は、その二つの種族にそれぞれ醜く生まれついた男女が、それでも確かな力を培い、やがて牙と心を交えてゆくさまを書き残したものである。
その女オークはとても美しかった。
なんといってもその筋の整った鼻と尖った耳、しなやかな細枝を思わせる腰つきなどは、あるいは“豚鬼”とも称せられるオークたちの目からすれば、肌の色が同じ薄緑であること以外は、空の下なる憎きエルフ族を彷彿とさせるに充分な容姿と言えたのだった。
「……もういいだろ、ニィルボグ。初めての夫婦喧嘩にしては激しすぎるぞ」
“ニィルボグ”……そう呼ばれた女オークは、自らを取り押さえているひときわ大きくいかめしい鎧武者姿のオークへと、牙をむき出しにして反抗の意志を崩さない。
「おっ父、あたしは絶対に嫌だ。どうして人間と、それもあたしらを殺し続けてきたヤツなんかと……」
父に首根っこを掴まれたようになった彼女は、その白金色の髪を振り乱す。荒い紐で留められて馬の尾のように流れ、照らし返す光が身にまとう武具をも鈍く照らすその様子には、この世に不変なるものがあると錯覚させるに足る、不気味な力を感じさせるものがあった。そしてニィルボグの黄金色の鋭い眼は、憎しみを込めて一点を睨みつけている。己の振るった長槍を、全て捌ききった憎き仇敵へと一点に……。
その事件は“双つ牙の猪”がかたどられた紋章が、旗に壁に門柱に、象徴として装飾された城の入り口から、城門に至るまでの通行路で起こっていた。それと同じくする意匠を施された武具をまとい、形ばかりは威儀を正して出迎えた人間族の騎士中隊と、同族内の儀式で使われる礼服を身に帯びて、慣れない外交上の礼節につとめようとするオーク族の小隊……それらが向かい合う中心点へ、両陣営一同が瞠目して事の成り行きを見守っている。
両軍の境界線上に立つ“四人”の動向次第では、あるいはウンザリとしていた倦怠を伴う戦いの火蓋が、またしても切られるかもしれないのだ。種族を問わずその各々が、佩いている剣の刃や立てている槍の矛先を、いつでも再びその相手に向けられるように、肚の内で油断なく気構え合っていた。
父であるオークの首領に動きを封じられつつも、今なお血気にはやるニィルボグの目先にあと二人、人間族の姿があった。そのうちの一人は頭からつま先まで、まるで彼女の眼光という射撃に耐えるべくして、あつらえたかのような出で立ちである。
完全武装だった。視界の他を全て覆う、野猪にも似た牙を生やした鉄兜。肩に傾斜装甲を備え、あらゆる矢玉を弾かんとする重鎧。針山をも踏み砕く軍靴に、戦斧をも打ち壊す手甲。そして極めつけは、数多のオークの返り血を拭われてきたであろう騎槍。
鋼の武装に身を固めた彼を“片牙の猪”と、彼我の誰しもがそう呼んだものだった。馬上で振るうべき強さをそのまま平地でも通用させるという、彼の掟破りな強さを体現するかのような姿がそこにあった。そんな彼は今棒立ちで呆けていたが、隣の人間に肩を揺すられてようやく我に返る。
「そう、“あれ”がそうだ。人を想像で判断するな」
そう言うとその男は、“片牙の猪”の肩から手を離して、甲冑に結つけた紋章入りの外衣を翻すと、城内へと歩を進めた。海でも割れるかのように騎士たちは慌てて道を空け、彼の側近である道化と、直属の近衛長は後ろに続く。恰幅の良さを伺わせる首元まで整えられた白髪頭の真上に、その人間は金の冠を戴いていた。
「父上」
取り残された猪武者が野太く呼びかけるが、人間族の公王たる男は何も応えずに調印式の会場へと戻っていった。その振る舞いの意味が『同じことは二度言わない』だということに気づいた彼は、自身を刺すように睨みつけてくるその相手にも“想像を解かせるため”に、自らの兜に恐る恐る手をかける……僅かあって彼は、オークたちにその素顔を露わにした。
その人間の男はとても美しかった。
なんといってもその幅広く上向いた豚鼻と小さく潰れた耳、厚ぼったすぎる唇にアンコ型の頑健な体格などは、あるいはオークたちの目からすれば、肌の色が白豚のようであること以外は同族の、しかも絶世の美男子像を彷彿とさせるに充分な容姿と言えたのだった。
ニィルボグは他のオーク族と同様、彼の持つ美貌に狼狽していたが、彼女の父だけは周囲とは違う種類の“揺らめき”を、己が娘の表情から見出していた。
「そら、彼がボギーモーン殿だ……もう知っとろうがな。さあ、矛を収めて旦那さんに挨拶をせんか」
父にそう言われるまで“兜を脱ぐ前の彼”のように呆けていた彼女は、その時初めて素顔同士で婚約者と目を合わせた。それまで自身を煮えたぎらせていた憎しみは潮のように退き、何か別の炎熱が彼女の内側を満たした。ひどくバツの悪そうな顔をしている“ボギーモーン”と呼ばれた男は、うつむきながらそれでも目線は逸らせず、ニィルボグとの見つめ合いに応え、徐々にその頬面を紅潮させていった。
彼がひどく自分自身の容姿を卑下していることを、そのいたたまれない様子から汲み取ったニィルボグは、自分の顔面が火照っていくのを感じた。走ったでもないのに荒ぶる呼吸を整えられず、悪くしたでもない心臓が高鳴ることを抑えられない彼女は、ついに自分の方から、繋がった目線による共感に耐えきれずに顔を背けてしまった。
その瞬間水が湯気に変わったように、顔中真っ赤にしてとんがり耳をしおれさせた娘を見て、呆れ笑ったオークの首領は部下たちに合図を送った。その手信号の意味するところを理解したオークの小隊は、首領の近衛となる副将軍と、巫蠱たる女官の二名を除いて左右に散らばり、草を分けるように道を空けては各々が待機の構えをとる。これで首領の前後に行く手を遮る者は、運命の出会いをしたこの二人以外いなくなった。
「ではアメンドース領の第二王子ボギーモーン殿。よろしければ式場まで、わしら父娘の介添を頼めるかな」
首領にこう言われて再び我を取り戻したボギーモーンは、全ての構えを解いて矛を収める。ニィルボグもつられるようにそうしたので、和睦への道はついにひらいた。
題のナンバーが半端に見えますが、このエピソードが序章となる構成になります。
文庫本一冊分ほどの分量で完結しておりますので、気楽にお読みいただければ幸いです。