第三部 第三章(二)
2026年WOWOWで北方謙三原作の水滸伝が放送開始されます!
かなり内容は違いますが、別系統のスピンオフ、として読んでいただけると有難いです。
「その魯知深めのことで、できれば内密に韓世忠様にお伝えしておきたいことがあるのですが・・・・・・・こう酔われていては無理でしょうかね。奥様?」
と、梁紅玉に水を向けると、ふん、と鼻でせせら笑い
「嘗めるんじゃないよ若いの。はばかりながら韓世忠は男でござる。こんな酔いなど何するものぞ。見てなって」
言うが早いか、卓上の鉄の大皿を引っ掴み、目の焦点も怪しい韓世忠の耳元で銅鑼よろしく打ち鳴らし、
「遼軍来来! 遼軍来来!」
と叫んだ。
途端に、韓世忠の目はくわっと見開かれ、すっくと立ちあがるや否やすらりと腰の長剣を引き抜いて、辺りをぐるりと見まわしたときには、真っ赤だった顔色はすっかり素面に戻っていた。
三十代後半の精気に満ちた厳つい顔に、ぎょろりと光る大きな眼。鍾馗様のような虎髭で油断なく哨戒する姿は、まさに質実剛健な猛将そのものであり、覚えず燕青は刮目させられていた。
「紅玉、遼はどこだ!」
「ごめんよお前さん、嘘だよ。この若い衆が、お前さんに話があるんだってさ。なんでも梁山泊軍にいたんだって」
「なにおぅ!」
ぐい、と顔を近づけ、いきり立って睨みつける。
「やい若えの、てめぇんとこの魯知深ってぇくそ坊主が、俺を虚仮にしやがったのを知ってて来やがったのか? 帰れ帰れ! まごまごしてやがるとドタマかち割るぞ!」
「まぁまぁお前さん、とりあえず話だけでも聞こうじゃないか。その魯智深とかって人の話らしいしさ」
「……なんでぇ紅玉、お前ずいぶんこの色男庇うじゃねえか、おめえまさか」
「イヤだよお前さん、まさか妬いてんのかい? バカだね、いくらいい男だってアタシにゃ若すぎるさね。アタシにゃアンタが一番だよ」
と、また濃密な接吻が始まる。
物見高く周りを囲んでいた人々も、付き合ってらんねぇやとばかり頭を振りながらそれぞれの卓へと戻っていった。
……なんだか知らないうちに一方的にフラレちまったぞ、と呆れる燕青だか、ふと梁紅玉が、接吻しつつ密かに指でマル印を作って見せているのに気づいた。
どうやら、この剛毅な奥様は、うまく俺と亭主の渡りをつけてくれようとしているらしい。ここはお任せしてみよう。
やがて長い接吻が終わり、韓世忠が落ち着きを取り戻したところで、梁紅玉が燕青の方を向き、
「で、なんだったっけ若いの? 内密な話があるとか言ってたね。場所を変えようか、いいだろお前さん?」
なんと賢くて気の利く女性だろう。燕青は思わず嘆息した。
毒気を抜かれた様子の韓世忠と梁紅玉、そして燕青は酒楼の二階個室へと場所を変え、燕青はふたりに向かい、まず深々と頭を下げた。
「初対面にも関わらず、不躾なお願いを聞き入れていただきありがとうございます。改めまして、わたしはかつて梁山泊で歩兵軍頭領を務めておりました、燕青と申します」
一兵卒の振りをすることも出来たが、せっかくの梁紅玉の厚意に応えるためにも、隠し事をするべきではない、と判断したのだ。
案の定、それを聞いたふたりの目の色が変わった。
「ほぉ。廬俊義のとこに浪子燕青という強ぇえ色男がいると聞いたことがあるぞ。 お前がそれか? 魯智深のことで伝えたいこととはなんだ」
目に怒気を含ませたままの韓世忠の問いに、燕青は極力静かに応えた。
「はい。まず方臘討伐が終わってまもなく、魯智深は入寂いたしました」
「なにっ! あの坊主死んだと申すか」
「はい。方臘戦で梁山泊の主だった者が半分以上戦死しまして、残った者で集まった時に、わたしは魯和尚から捕縛の際の話を聞きました。それをお伝えしたかったのです。なぜ方臘を殴り倒しておきながら、そのまま立ち去ったのかを」
「理由などあるものか。おおかたわしに恩でも着せようとしたのだろうて。わしの面子は丸つぶれだ、どうしてくれる!」
昔も今も、中国人が面子を気にすること甚だしいのは変わりない。
また興奮し始めた韓世忠を、表情と手で宥めてから、燕青は「魯智深が方臘を放置した理由」を説明し始めた。
魯智深は宋江軍の将として方臘を追い、烏竜嶺万松林での戦いで、敵将の夏侯成を見つけ、山中でこれを討ち果たしたが、他の味方からはぐれてしまい、山中を彷徨うはめに陥ってしまった。
ところが人跡稀な森の中でひとりの不思議な老僧に出会った。その僧は魯智深を自らの草庵へと誘い、食事を振る舞ってくれたのだが、そのとき
「ここでしばらく過ごすがよい。もし背の高い男が林から出てきたら、それがおぬしの探している男だ。ただ、おぬしがその男を捕らえるとき、もしも潮の音が聞こえたら、おぬしの入寂(僧が死ぬこと)が近いものと知れ」
と言って、どこかへ行ってしまったというのだ。
「不思議なこともあるものだ、と思いながら、草庵の窓から外を見ていると、次の朝行ったとおりに松林から出てきた男がいて、それがまさしく方臘だったそうです」
聞いて韓世忠は忌々しげにつぶやく。
「そうだ。そのときわしらはその遙か後ろを追いかけていた。林の中で見失い、とうとう見つけたとき、ちょうどあの坊主が方臘を殴り倒していたのだ」
「魯和尚は昔、鄭という肉屋を殴り殺したことがあるそうですが、同様に方臘をぶん殴り、二発目を食らわそうとしたときに、ざあっと潮騒の音が聞こえて驚いた、と言うのです」
「おお! そういえば確かに方臘を殴り倒したあと、もう一発と拳骨を振り上げたところで、急に手を耳に当てて、しばらく呆然としていた! そしてそのあとふらふらとどこかへ立ち去っていったのだ」
「魯和尚はそのとき、御自分の死期が来たことを悟ったそうで、不意にもうすぐ死ぬ自分が、方臘を捕らえて栄誉を得たり、そもそも方臘を殴って無駄な殺生をすることに何の意味があろうか、と思ったそうです。それで止めをささず、山を下りたのです」
「そうか、わしらに手柄を譲ったわけでもなんでもなかったのか。わしはなんという思い違いを」
「よかったじゃないかお前さん。方臘を捕らえたのはあんたの手柄で間違いないってことさ」
「ああ、その後で辛興宗にかっ攫われたのは今でも許せねえがな。おい若ぇの、燕青だったか。さっきは済まなかったな、聞けてよかった。おかげで少し腹の虫が治まったぜ」
「そうですか、わたしもお伝えできてよかったです」
燕青はふっと肩の荷が下りた。
「で、そのあとその魯智深さんはどうなさったんだい?」
夫の韓世忠が気持ちに一区切り付けたのを見て、梁紅玉が如才なく話を促す。
「じつはその後・・・・・・」
仲間と合流したとき、すでに魯智深は足元がおぼつかず、左半身が動かなくなっていた。言葉も不自由になっていたのだが、わずかに「どこか清浄な地でこの身を終えたい」とつぶやいたという。
ちょうど討伐を終えた全軍が引き上げる途中、杭州の名刹「六和寺」に着いた夜、魯智深が病身を横たえているところに、そばを流れる銭塘江が逆流し、潮の音が雷鳴のように響きはじめる、という怪現象が起こった。
浙江省銭塘江では、大潮の時期に川の水が海から逆流する「海嘯」という現象が起き、現在でも観光名物となっている。魯智深が聞いたのはこの音、すなわち「潮信」だったのである。
「魯和尚はこの音を聞き、ああ、かつて五台山で、智真上人からいただいた偈(真理を説いた韻文)はこのことだったのかと、蓮華座を組み、合掌し晴れ晴れとした顔で円寂したそうです」
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