第二部 第四章 (七)
「ほれほれ、どうした小僧。かすりもせんではないか。こっちじゃこっちじゃ」
ひらりひらりと身を躱す己五尾にすっかり翻弄され、汗だくになった張嶺は少し距離を取り、息を整えてから考えた。
どうする? このまま続けてもただ疲れるだけ……あ、そういえば!
馬歩立ちになり、ふうっと息を吐き出してから、燕青のそれを思い浮かべてすっと半眼になった。
落ち着け、また同じ過ちをするところだった。ええとなんだっけ、全体をうっすらと見て、当たる瞬間に強く握って、肩の力を抜いて、それから・・・・・・・
それからもなにも、教わったことは基礎の基礎ばかりで、それほど多くない。逆にいえばそもそも注意すべき点もほんのわずかしか知らない。
やるべきことが絞れたぶん、思考が明確になり、落ち着きを取り戻したのだ。
ほぉ?
向き合っていた己五尾は、がちがちに強ばっていた張嶺の肩がすとんと落ちているのに気づいた。睨みつけるような目は細くなり、どこを見ているかわかりづらくなっている。
ふふん、少しは工夫するようになったでおじゃるな。
己五尾は握った片手を前に伸ばし、ひとさし指で挑発的に招いた。
張嶺は半眼のまま、先ほどとはうってかわって小さい歩幅の素早い歩法に変え、腕全体を柔らかな鞭のように使って突きを出した。
先ほどまでの、突き出しから振りかぶった全力の突きとは違い、加速させ当たる瞬間に最速になるよう、そして当たる瞬間にきゅっと拳を絞るよう突くのだ。予備動作が小さくなった分、突きの拍子が分かりづらくなってきた。
さらに先ほどまでの一打一打全力で打ち込む突きや蹴りを、小刻みな連打に変えた。半眼でうっすらと全体を見たまま、上下左右強弱大小と、突き蹴りを織り交ぜ始めた。
さすがの己五尾も足さばきだけでは避けきれなくなり、前に伸ばした片手で打ち払わずにはいられなくなった。
息もつかず次々に突き蹴りを繰り返す張嶺だが、功を積んで鍛えた下半身のおかげで、自分が体の均衡を崩すことなく連撃を出せていることに気づき歓喜した。
おいら、強くなってる!
自らの成長を感じ、勇気づけられた張嶺の攻撃はますます鋭くなり、やがて先ほどまで功を積んでいた「牽縁手」の一手が、己五尾の片手を払い飛ばした。
今っ!
一瞬がら空きになった己五尾の胴体目掛け、張嶺は一気に飛び込み、両手で掌打を繰り出した。「双推手」である。
「奮!」
むにゅ。
?
「……やはり男じゃのお、そこが好きかえ」
その声で我に返った張嶺は、そのときやっと自分が己五尾の両の乳房をわしづかみにしていることに気づき、あわててとびのいて頭を振った。
「ち、ちがうおいらそんなつもりじゃ」
「よいよい、あんなつるぺたちび助では物足りないのであろう。わかっておるぞえ」
赤面した張嶺に茶々を入れながら、己五尾は内心舌を巻いていた。
決して油断したわけではないが、この小僧なかなかやりおるわい。
「まぁとにかく一本とられたわ。約束通り饅頭を食わせてやろう、来よ」
張嶺は赤面し、自分の両手を見つめつつ己五尾の後に付いていった。
ふたりが食堂についたとき、ちょうど饅頭が蒸しあがっていた。普段食堂や売店で売り子として働いている己五尾は、食堂の調理人とも仲が良い。蒸籠から肉饅頭をふたつ取り出したが、特にとがめられることもなかった。
「ほれ、とりあえずふたつ。足りなければ言うがよい」
皿に乗せられた人肌の饅頭をつかんだ張嶺は、何を感じたものやら、また真っ赤になってしまった。
あ、この小僧……
にやにやと顔を見つめられ、張嶺は照れ隠しに大急ぎで饅頭を口に詰め込み、のどに詰まらせ目を白黒させている。
食堂の小姐が持って来てくれたお茶で何とか流し込み、人心地ついたところに兄弟子の楊倜が入ってきて、張嶺を三清殿へと連れだした。
御堂に入ると、椅子に座った羅真人の周りに一清道人以下二仙山の道士の面々、それになぜか南岳衡山に行ったはずの杜允と薛永のふたりも立っている。
「おお来たか張嶺、ではこれで全員揃ったな。実は昨夜南岳衡山で不思議な出来事が起きたそうだ。杜允と薛永に説明してもらう」
一清道人の言葉に続き、ふたりは昨夜のことを話し始めた。
「なるほど、小融が何かに呼ばれたように神隠しにあったと。そしていなくなった場所が祝融殿と。真人様、これは……」
「ふむ」
羅真人が長髯をしごきながら
「杜允よ、薛永よ。お主らには伝えておらなんだが、実はこんなこともあろうかと思っていたのじゃ。想定内の出来事よ。心配であろうが、もう暫く様子を見よと、成仁たちに伝えてもらいたい」
小融が神隠しにあったってのに、しばらく様子を見ろだって? 師父は何言ってるんだいったい!
説明を聞いた張嶺は気が気でない。その青ざめた顔に気づいた羅真人は、弟子たち全員に静かに語りかけた。
「皆のもの、小融はそもそも生まれたときから浄眼を持ち、さらに常人の何倍も強い火の力を持っていて、わしはこれは何らかの恩恵なり加護だと考えておった。じゃから今回、火の神である祝融神の住まう南岳衡山に小融を遣れば、きっとその影響で、火の性が増強されると踏んだのじゃ。まさか、直接祝融神に見込まれるとは思わなんだが、決して悪いようにはならぬ。おそらく神界に連れていかれたのだと思うが、いずれ帰されるはずじゃ」
林翠円がおそるおそる尋ねた。
「とはいえ師父、いくらいなくなったのが祝融殿だとしても、狐狸妖怪の類の仕業という可能性も? 」
「そんじょそこらの妖が、聖域である祝融殿の中で、ましてやあの小融を化かせるとは思えん。どうじゃなそこの狐よ?」
「左様」
己五尾が首肯した。
「言いたくはないがあのつるぺたちび助の仙力を無効化し、自在に操るのは妾の全能力が復活しても相当骨が折れるじゃろう。まぁ十中八九、その祝融とかいう神の御業であろうな」
「で、でも! 」
堪えきれずに張嶺が聞き返した。
「あいつがたまたま祝小融って綽名だからって、祝融様に目を付けられるなんておかしいじゃないですか」
「たまたま、ではないのじゃよ、張嶺」
噛んで含めるように羅真人は続けた。
「これは話す必要もなかったのでいま始めて教えることじゃが他言無用ぞ。あれは小融が三才、祝家荘の主人がわしのところに預けに来たときに言っていたことじゃが、小融めが産まれるとき、夫人の夢の中に真っ赤な体の恐ろしげな男が出てきて、『産まれる子供には小融と名づけよ』と言われたそうな」
「その男が祝融神だと? 」
一清道人の問いに羅真人が答える。
「まぁ実際のところはわからぬが、祟りを畏れた夫人は言われるがままにそう名づけたそうな」
「では四娘というのは」
「ふむ、むしろそちらが渾名だったのじゃよ」
たしかに、「祝氏の三傑」で有名だった祝龍、祝虎、祝豹の、四番目の妹だからと言って、本名を「四娘」とつけるのはいかにも雑な話である。
もちろんかつてその祝豹の婚約者だった女豪傑「一丈青扈三娘」の例はあるが。
「そういえばかつて、我ら梁山泊の頭領だった宋江様も、九天玄女様に神界に連れていかれ、そこで三巻の天書をいただいたと聞いております。小融の異才も祝融神の祝福を受けたものと考えれば、合点はいきますな」
元梁山泊第四位、「入雲龍公孫勝」こと一清道人は、感慨深げにうなづいた。
「では杜允、薛永。済まぬが一休みしたらまた南岳に戻ってもらいたい。ああ、連絡用に鸞を連れてゆくがよい。」
「しかと承りました」
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