第五章(六)
「ええ、ここまで魂が拒絶しているのがわかった以上、正直申しあげて太夫がこのお仕事を続けるのはもう無理です。引退なさるべきです」
「そう、でしょうね、でも」
「なにか問題が? 」
「わたしもぜひそうしたいところです。ですが、曲がりなりにもわたしは金夢楼で御職を張っていた身。楼主がそう簡単にやめさせてくれるわけがありません」
四娘は、このままでは魂が逃げ場を失い、いずれおかしくなってしまうと説得したのだが、太夫は楼主の洪泰元を恐れていて、なかなか覚悟を決めきれないでいる。
最悪の場合「足抜け」(廓から脱走すること)も勧めたが、太夫は今までに、捕まってひどい私刑を受けたり、なぶり殺しにされた(妓女ぎじょ)を何人も見てきたのだ。北京の遊郭に馴染みの深い燕青にはある程度理解できるが、四娘にはおよそ想像のつかない、身に染みついた恐怖心なのである。
いろいろな方面から翻意を促したが、やはり震えて首を振るばかりである。
四娘も困り果て、燕青に助言を求めようとしたそのとき、棚の上の箏がうっすらと光を放ちはじめた。
光はやがて箏から離れ床に降り、だんだん輝きと大きさを増していき、人の形をとりはじめた。輪郭がはっきりしてきたのを見て太夫が叫んだ。
「李承! あなたなの! 」
箏の中から出てきた鬼は、殺された太夫づきの禿、李承の魂だった。
李承の魂は三人に頭を下げてから語り始めた。
(太夫、お願いですからここはお逃げになってください。このままだと近々魂が衰えてお亡くなりになってしまいます)
「それよりあなた、今までいったいどうしていたの、なぜ姿を見せてくれなかったの」
王扇太夫の問いに、李承の魂は切々と答えた。
唐回に殺されて、鬼になったあとも、太夫のことが心残りであの世に昇華することができずにいたが、殺された翌週にまた唐回が客でやってきたこと、洪楼主が咎めることもしなかったこと、太夫が自分の無残な死を思い出し、歯を食いしばりながら唐回の相手を勤めていたことを見ていて、何とかしてやりたかったが、廓にくる「男という存在」そのものが恐ろしく感じてなにもできずにいたのだという。
できることといえば、箏の中に潜んで太夫のことを案じることだけ。苦しく悲しかったが、箏から出て見つかれば、僧侶や道士に祓われてしまい、太夫の身を案じることすらできなくなる。そう思うと箏から出ることすらできず、ひたすら見つからないようにしていたのだと。
だが今日、久しぶりに、小乙が純粋な気持ちで 箏を引いてくれたこと。太夫が自分のことを思い出しながら、昔と同じように笛を吹いてくれたこと。そして何よりも
(今日太夫は三ヶ月ぶりに、心底満ち足りた気持ちでお眠りになれましたよね。ということは、小乙様が本当にお優しく、信頼できる殿方だからだとお見受けしました。ですから妾も、勇気を振り絞って出てきたのです)
李承の魂は、今度は四娘に向かって懇願した。
(道士様、妾のようなものを祓うのがお仕事なのでしょうが、どうか太夫がお逃げになり、落ち着く先が見つかるまでは、妾を祓うのを待っていただけないでしょうか? お願い申しあげます)
「小融様、妾からもお願いです。この娘は決して悪さをするような子ではありません。どうかお祓いにならないで、このまま妾のそばに置いてください。お願いします! 」
「ええとね。あたしの仕事は、人に災いをなす妖物を祓うことであって、だれかを守ってあげたいと思っている魂を、わざわざ祓うつもりもその必要もないわ」
四娘の言葉に、王扇太夫も李承の魂も、安堵の表情を浮かべ、深々と頭をさげた。
「小融様、妾覚悟を決めました。ここから足抜けいたします」
唇を噛みしめ、眦をあげた王扇太夫の表情に、もう迷いはなかった。
(小融様、ありがとうございます。しばらくのあいだ、妾は太夫の体に隠れさせていただきます)
李承の魂は太夫の背中から、体の中に溶け込むように消えていった。
燕青は久しぶりに口を開いた。
「小融、見事な道士っぷりだったな。ではここからは鏢師の出番だ。太夫は馬に乗れますか? 」
「はい、大丈夫です」
「それならば」
三人と一霊は太夫の身の振り方についてあれこれ思案した。が結局、一旦「二仙山」で保護してもらい、あとは羅真人や一清道人に考えてもらおう、という話になったのである。丸投げも甚だしいが、他に妙案もなかった。
こっそり部屋を抜け出し、太夫と四娘は白兎馬で、燕青は別の馬を奪って廓から逃げ、昨日泊めてもらった千住院に匿ってもらう。
そして状況説明の手紙を持たせた太夫を、「縮地法」を使って二仙山に送り込む、という作戦である。
ここまでくれば一蓮托生である。小乙は偽名で本名は燕青といい、元梁山泊の一員であること、小融は本名は祝四娘という二仙山の道士であることを太夫に明かした。
「善は急げだ、太夫はそのヒラヒラの服ではまずい、何か動きやすい服に着替えてください。準備ができたら行きましょう」
太夫は急いで裤子を穿き、その上から裳を巻きつけ、袖の短い袍衣を着込み、高く結い上げた髪もおろして後ろでひとつに束ねた。
そして部屋を出ようと、扉に手を掛けたまさにそのとき、いきなり外から声がかかった。洪泰元の声である。
「先ほどから何やら話し声が聞こえましたが、祓いの方はお済みになりましたかな? 」
声とともに、洪楼主と、数人の妓夫太郎(廓の使用人)がなだれこんできた。
「おや太夫、そんな格好をなさって、どちらへおいでですかな? 」
きゅう、と洪の口元がねじあがって笑顔を作っているが、目は全く笑っていない。
一瞬怯んだ太夫であったが、きっと表情を引き締め声を張った。
「洪様、長年お世話になりましたが、妾はもうこのお勤めを続けることはできません。やめさせていただきます」
「太夫、困りますなぁ。そんな我が儘が通るかどうか、御職まで張ったあなたなら分かりますよね? もう妖物は祓えたんですよね。馬鹿なことをおっしゃらず、またお仕事に精を出していただきますよ」
「いやです、お断りします! 」
「やれやれ、祓いだけしておけばいいものを、何を吹き込みやがったのか。まぁいいでしょう。小乙さんでしたか。あなたにはもう用はない。ですが、そっちの小さい道士さんには、もうひと仕事していただきますよ」
「あたしもお断りよ! あんたみたいな腐れ外道のいうことなんか聞くもんか! 」
「そうはいかない。そもそもあなたでしょ、こちらの方々に亡者をとり憑かせたのは。責任は取ってもらいますよ」
と、嫌らしく話しかける洪泰元のうしろから現れたのは、体中に怨霊を纏わせたままの唐回たちであった。
ここまでお読みくださりありがとうございます。続きが少しでも気になりましたら、評価や感想をいただけると今後の投稿の励みになります。よろしくお願いします。




