第五章(四)
「なんだよ、なにが分かったんだよ? 」
「まぁまぁ、まずはさっきの案を試してみたいんだけど、大夫、どうでしょう? 」
「ええ、もういろいろと試してみて、途方に暮れていましたから、あなた方が頼みの綱です。なんでもご協力いたします。小乙さま、よろしくお願いします」
頭を下げられた燕青、赤くなるほど初心ではないにせよ、どんな顔をしていいものやらわからず頭を搔いている。それを見た四娘から
「なによ、鼻の下こーんなにのばしちゃってさ、腹立つわぁ! 」
と脇腹に肘鉄を食らい、思わず「うっ」と呻いたものだ。
「では、夕食をいただいて、夜が更けるまでお話などさせていただきましょうか」
少しは気が楽になったのか、王扇大夫は本来の艶然たる表情で二人に微笑みかけてきた。
やがて王扇大夫の部屋に夕食が運ばれてきた。楼主の洪泰元がいかに強欲で信用ならぬ男かは、すでに明白だが、さすがに食事を吝嗇るほどではなかったようで、十分な、そして道士の四娘にも配慮された料理が出された。燕青の前には「胡炮肉」(羊肉の蒸し焼き)に饅頭、湯麺など、四娘には野菜の春巻きや焼餅、野菜の炒め物などの大皿が、卓狭しと並べられた。
大夫が気を使って、すべての料理を先に少しずつ毒見をしてくれたこともあり、久しぶりにゆったりとした気分で食事ができた。
食事のあいだも、大夫がふたりに絶えず話題を振り、楽しそうに話を聞き、うまく相槌をうち、思わず答えたくなるような質問をしてくれるので、いささかも話が停滞せず、それでいて誰も取り残されることのない、名人芸と言っていい会話の転がし方の中で、すっかり白い影のことも、時の経つことも忘れてしまっていた。
御職を張る太夫ともなると、ただ見目麗しく、客と夜伽をすれば済むというわけではない。歌舞音曲ひと通りこなすし、詩作もする。新旧尊俗の話題など、どんな相手に対しても、退屈をさせないよう日々鍛錬を怠らないものである。
ただし、大夫も燕青も、当然四娘も酒は一切飲まなかった。もちろん深夜に備えての心構えだ。
とはいえ、大夫が煮てくれた四川の銘茶の味と香りは、どんな名酒よりも素晴らしいものであった。超一流のもてなしとはこういうものかと、四娘はすっかり感銘を受けたのである。
夕食が済み、食器が下げられ一息ついたとき、燕青が何気なく妖物が出るという部屋の隅を見た。
その脇の棚に、ひと張の箏が置いてあるのを見つけた。
「あの箏は太夫のものですか?」
太夫ははっと目を見開き、
「はい、もとは妾のものでしたが、李承に与えて弾き方を教えていました。あの娘は覚えが早く、あっという間に上達して、時間のあるときには私の笛と合わせて合奏したりしていたのですよ」
当時を思い出したのか、寂しげな目で箏を見つめる太夫の様子に、燕青は自責の念にかられた。
「太夫、余計なことを思い出させてしまい申し訳ありません」
頭を下げると、太夫は慌てて、
「いえ、かえってお気を使わせてしまい、こちらこそ恐縮です。でも、あの箏も弾き手がいなくなってしまって、可哀想なことをしました」
と目を伏せた。
それを聞いた燕青は意を決したように背筋を伸ばし、
「なんであれ楽器は弾いてやらないとすぐに朽ちてしまうといいます。ご迷惑でなければ、わたしにあの箏を弾かせていただけませんか? 」
と問うた。
それを聞いた太夫、椅子から立ち上がり深々と頭を下げる。
「わたしも弾いてやろうと思いましたが、どうしても手に取ることができませんでした。あの娘の供養になればなによりです。むしろこちらからお願いします」
頷いた燕青、棚から箏を丁寧に卓の上に運び、弦の張りを確かめ、一礼してから弾き始めた。
すでに夜もとっぷりと更けろうそくの明かりに照らされた王扇太夫の部屋に、箏の音が静かに流れ始めた。
廓では誰もが知る、後朝の別れの切なさ、辛さを謡った曲だった。囁くが如く、哭くが如く、恨むがごとく、呟くがごとく、呼ぶがごとく、叫ぶがごとく。
押し手、後押し、押し離し、突き色。減り張り、緩急、そして余韻。
亡くなった李承にとどけとばかりの、燕青の渾身の演奏を聞き、四娘は鳥肌が立った。
太夫は暫く、目を瞑ったまま聞き入っていたが、やがてつい、と椅子から立ち上がり箏のあった棚の引き出しから、1本の笛をとりだした。
そして元の椅子に戻り、燕青の演奏に合わせて、自分も笛の音を乗せ始めたのである。
(最後に箏を弾いたのは2年前だったか、3年前だったか。確か九月九日重陽の節句、梁山泊に流星が落ちて、百八人の星主が全員揃ったときだった。「鉄笛仙」(馬麟)の兄貴が簫を、おれが箏を弾いて、珍しく大酔した宋江さまが即興で謡われたんだったっけ。その兄弟たちもいまや半分以上が鬼籍に入っちまった。盧俊義さまや宋江さまはいかがお過ごしだろうか)
奏でながら燕青は昔を思い出していた。自然と、別れの哀しさ辛さの気持ちが音色に乗る。感じ取った王扇太夫も、自分を慕ってくれた李承の生前を思い出し、覚えず涙がにじみでてくる。
二回、三回と曲が繰り返され、やがて消え入るように箏と笛の音が止んだ。
燕青の箏も太夫の笛も名人の域である。そのふたりが、対象は違えど別れの哀しみを思い切り音色に乗せたのだ。
聴いていた四娘はすでに滂沱の涙である。何が悲しいのかよくわからないけれど、とにかく愛惜の思いをはっきり感じ取っていた。
(ったく泣かせないでよね。色男で腕っ節がめっぽう強くてそのうえ箏までうまいなんて、反則もいいとこだわ)
聞き終えて四娘は涙を拭き、軽く燕青を睨みながら心の中で毒づいた。
「久しぶりに思い切り吹かせていただきました。李承もきっと満足してくれたことでしょう。小乙さま、ありがとうございます」
「いえいえ、とんだお耳汚しでお恥ずかしい。太夫の笛のおかげで気持ちよく弾かせていただきました」
棚に箏と笛を戻しながら、にっこりと笑い合う眉目秀麗の美男と傾城傾国の美女。
大人同士の視線が絡み合い、なんとも色っぽい風情であるが、それと見た四娘は心中穏やかではいられない。
(そりゃ確かに太夫は美人だし優しいしさ。出るとこは出て引っ込むとこは引っ込んでてすごく素敵よね。そもそも悋気をおこす筋合いはないけど……なによ、また鼻の下そーんなに伸ばして! )
すっかりおかんむりである。こめかみに青筋を立てながら
「はいはい、そろそろ夜も更けてきたことですし、太夫と乙兄ぃはお床入りということで」
遣り手婆よろしく太夫を寝台に押し込んでから、燕青の耳を引っ張って寝台から引き離し、そっと耳打ちした。
(良く聞いてよスケベ鏢師。あたしの考えが正しければ、別に太夫と、その……ことに及ばなくても大丈夫だからね。とにかく太夫をぐっすり眠らせて)
(どういうことだ?)
(まだ確信は持てないけど、太夫がぐっすり眠ったらきっと白い服の鬼が現れるはず。で、きっと青兄の方を向くはず。でも恐らく知ってる人の顔だと思うんだ。だから驚いて逃げたりしないでよ)
(誰だそれは?)
(確信はないっていったでしょ。とにかく出たらあとはわたしがなんとかするから。まずは太夫が深く眠れるように工夫してみて)
(わかった、やってみよう)
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