第三部 第二章(十)
2026年WOWOWで北方謙三原作の水滸伝が放送開始されます!
かなり内容は違いますが、別系統のスピンオフ、として読んでいただけると有難いです。
人目に付かぬように陶凱が放った「木」の仙術が、燕青の足下に植物を生やし、足首に絡みついていたのだ。
馬鹿か俺は! 剣の切れ味に浮かれてんじゃねえ!
急いで絡みつく草木を吹毛剣で切り離したが、その隙を見逃す曹琢ではない。一瞬で間合いを詰め、左脇に強烈な蹴りをとばしてきた。
燕青は反射的に左腕で受けにいったが、肩が上がっただけで麻痺した前腕部は思ったように上がってこず、そのまま上腕部に回し蹴りを食らってしまった。
みしぃ、と腕の骨とともに左の肋骨が軋み、そのまま体全体が弾き跳ばされる。当たる直前にかろうじて上腕の筋肉を締めたので、ひびまでは入っていないが一瞬息が詰まった。
かろうじて体勢を整えて距離を取り、吹毛剣を陶凱に向けたが妙に足元が滑るのに気づいた。見ると、砂埃がたつほど乾いていた街道の表面が、いつの間にか泥に覆われているではないか。
これもやはり陶凱が秘密裏に配置した「土」の仙術の罠であった。
燕青の功夫は、軽快で複雑な歩法と、站椿で練り上げた踏み込みこそが肝である。「その脚飛燕の如し」と言われた燕青の、最大の武器を封じ込めにきたのだ。
ええいっ!
気合い一閃、泥の中から跳び上がり、乾いた地面に着地した、と思った瞬間、右の太腿にちくり、と微かな痛みが走った。
太腿に小さな円錐形の紙が突き立っている。
しまった! 吹き矢かっ!
振り返ると、暗器を得意とする蘇峻華が、五寸(十五㎝)ほどの短い筒を咥えていた。燕青の鋭い聴力を持ってしても、蘇峻華が吹き矢を飛ばす音には気づけなかった。
慌てて吹き矢を払い落としたが時既に遅し。吹き矢にぬられた痺れ薬が右足の感覚を徐々に奪っていく。
左腕は使えず、右足は麻痺していては、いかに吹毛剣が素晴らしくとも、到底逃げおおせるものではない。
この場から動かずに、どれだけ戦えるものか。
左腕をだらりと下げ、右足を引きずりながらも、戦う意志は捨ててはいない。だがこの足では、少なくともこの場から逃げることは不可能だろう。
黒猴軍の三人は、絶対有利ではあるが、それでも油断せずじりじりと間をつめてきている。
さすがにここまでか・・・・・・こうなったらせめてあの頭目らしき男と差し違えて。
燕青がそう覚悟を決めたその時であった。
さらに人数が増えた野次馬の後方から「どけどけ、道を空けろ!」という怒鳴り声が聞こえた。
その声に続いて、馬に乗った古ぼけた甲冑を着込んだ男が、野次馬の間を割って駆け込んできた。
燕青と黒猴軍の三人が、思わず馬の方を見た瞬間、その男の甲冑の胸をいきなり矢が貫いた。
男はたまらず馬から転げ落ちる。乗り手を失った馬はそのままの勢いで、燕青と曹琢の間を駆け抜けようとする。
しめたっ!
燕青はかろうじて動く左足一本で馬の背中に飛び乗り、握った手綱を口で咥え、剣を握った右手を曹琢に向けたまま、馬の脇腹を強く蹴る。
馬はさらに速度を増し、燕青を乗せてあっという間に北へ走り去っていった。
刹那の出来事に、黒猴軍の三人はあっけにとられ追う機会を逃してしまった。
そこに、弓を携えた若い男が、馬に乗って走り込んできた。してみると、先ほど馬から落ちた男は、この若者が射たのであろう。
若者は馬から飛び降り、背中から胸まで甲冑を貫かれた男の顔を確かめ、満足げに頷くと矢を引き抜き、男の死体を事もなげに抱き起こして、乗ってきた馬の背中にひょいと放り上げた。
甲冑を着た胴体を貫通させる矢の威力といい、死体を軽々と持ち上げる臂力といい、只者ではないのは確かだが、あと一歩で憎き燕青を捕まえられるところを邪魔された曹琢はまさに「怒髪天を突く」思いで、何事もなかったように立ち去ろうとする若者の肩を掴んだ。
「おい若僧! お上の御用を邪魔しおって! お前はあの賊の仲間か!」
と怒鳴りつけたが、若者は振り返り涼しげな顔で
「賊の仲間とは失礼なことをおっしゃる。邪魔になったとあれば申し訳ないが、こちらもお上の御用で動いてのこと。私が射殺したこの男は、間違いなく賊ですけどね」
と、馬の背に載せた死体を指さした。
せいぜい二十歳過ぎくらいの、引き締まった顔つきに太い眉毛、その下に意志の強さを示す大きな黒い目が輝く好青年である。
言葉遣いは丁寧だが、逆にその「一向に動じない」素振りと、自分が任務に三度も失敗してしまったことで、冷静なはずの曹琢もつい逆上してしまった。
「生意気な若僧め、思い知らせてくれる!」
曹琢は若者に向け、猛然と拳を突き出した。
若者はひょいと跳び退き、弓を捨て身構えた。
「若僧結構。ですがそれならばそちらも、もう少し大人の対応をしていただきたいもので」
言って若者はにこり、と笑った。
おのれ、半殺しにしてやる!
曹琢は物も言わずすうっと間合いを詰め、次々に突き、蹴りを繰り出した。曹琢の腕前を知る陶凱と蘇峻華は、血へどを吐かされる若者の姿を思い浮かべた。
ところが、である。
あに図らんや、若者は曹琢の強烈な突き蹴りを、一歩も下がることなく避け、受け、捌いているではないか。
当の曹琢も驚いた。自分の全力の攻撃を受け流せる相手は滅多にいない、という自負がある。だがこの防御に徹している若者には、一向に有効打を入れられないでいるのだ。
攻撃を加えているうちに、曹琢は若者が明らかに正統な少林拳の流れを汲んでいることに気づいた。
これは容易に片付く相手ではない、と曹琢はますます攻撃を強める。
かれこれ数十打の息詰まる攻防を見つめていた蘇峻華は、はっと我に返り叫んだ。
「お頭! 奴を追わなくていいのですか」
声を聞いて曹琢は我に返った。すっかり頭に血の上っていた曹琢が、燕青の逃げた方に目を遣るも、当然影も形もない。
「す、すまぬ。わしとしたことが」
と、がっくりと肩を落とした。
それとほぼ同時に、一群の兵士たちが駆け寄り、若者に声をかけた。
「鵬挙! 奴らの頭目はどうした!」
「ご心配なく、この通り討ち取りました」
「でかした! おぬしに任せてよかった」
若者は取り囲まれ、年上の兵士たちから肩を叩かれて笑っている。
曹琢は兵士たちに近づき、忌々しげに声を掛けた。
「少々物を尋ねたい。我らは東京開封府から重罪人を追ってきた巡検だが、その若者に逮捕を妨害され、犯人を逃がしてしまった。どういうことかご説明願おう。事と次第によってはその男を逮捕する」
それを聞いた兵士長が向き直り、拱手しながら
「それは失礼いたしました。こちらも東京開封府からこの相州を荒らし回る盗賊団の討伐に参った、宗沢様配下の義勇軍である。先ほど盗賊団の巣窟に攻め入ったが、頭目が馬で逃げたため、弓の名手であるこの者にあとを追わせました。そちらのお役目を邪魔する気など毛頭ござらぬ。どうかご勘弁いただきたい」
と、頭を下げる。
確かに公務、しかも宗沢配下と知れば、黒猴軍としてもこれ以上横車を押すのはうまくない。そもそも自分たちの言っている内容は大嘘である。燕青の行方がわからぬ今、ここでごねても詮無きことである。
ふうっと大きなため息をひとつ。もう曹琢は冷静さを取り戻していた。
「あいわかった。そこの若いの、なかなかの腕前だな。弓もたいしたものだ。おれは巡検の・・・・・魏良という。お前の名も聞いておこうか」
若者は穏やかな声で
「先ほどは失礼しました。私は岳鵬挙と申す、駆け出し者でございます。以後お見知りおきを」
「ふん、開封の義勇軍の岳とな。その名覚えた。今度御用の邪魔をしたら、そのときは今日のようにはいかんぞ」
言って黒猴軍の三人は踵を返し、東京開封府への帰路についた。
皇城司指揮の閻霧から、どのような処分が下るものか。五臓六腑が凍りつく思いである。
こうして燕青は、飲馬川の山砦で寸勁を教わった周侗の愛弟子、鵬挙こと「岳飛」に、密かに命を救われたのだが、そんなことは燕青自身知る由もない。
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