第三部 第二章(六)
2026年WOWOWで北方謙三原作の水滸伝が放送開始されます!
かなり内容は違いますが、別系統のスピンオフ、として読んでいただけると有難いです。
東京開封府。朝靄の中、大内の東側を、破れ笠をかぶり、顔は煤で汚れ、小さな袋を担ぎ、あちこちほつれ土埃でまだらに汚れた粗末な衣に身を包んだ男が歩いていた。
燕青である。
宮城の東側にある、皇城司の役所周辺をぐるりと回ってみた。
いかにも機密を扱う役所らしく、外塀は二丈弱(五m)ほどもあり、平らに磨かれていて手がかり足がかりになりそうなものはなく、燕青の軽功をもってしても登るのは難しい。
南側に広い表門があるが、北側の裏門はかなり小さくて目立たない。またその門から四丈(十二m)ほどの幅の、道を挟んだ向かいの建物は、出入り口の無い長い塀が門の方を向いていて、出入りするところを見られる可能性は低い。
もし隠密裏に出入りしようとするならば、必ずこの門を使うに違いない。
この門を、目立たずに監視できる場所はないか。
道を挟んで裏門に面した建物の、長い塀の角から振り返ると、裏門は小さく見え、人の出入りは確認できるが、人相風体までは到底判別できそうにない。
幸い、裏の建物の塀は一丈(三m)ほどと、普通の高さであり、表面の煉瓦もあちこちひびが入っている。
この高さならば苦も無く乗り越えられるだろう。幸か不幸か、裏の建物の塀際には、何本か大きな樹木が立っていて、あれの上からならば目立たずに監視できるのではないか。
燕青は一度安道全の邸宅に戻り、こざっぱりした町人風の衣装に着替え、真昼時にもう一度皇城司のそばを通ってみた。
案の定、正門はひっきりなしに人が出入りし、門前を多くの人が通過するが、裏門の通りは人通りがなく、逆に燕青が通るだけで目立ってしまいそうだ。
一般の皇城司ならばともかく、暗殺を請け負うような後ろ暗い連中である。昼間から出入りすることは考えづらい。
燕青は暗くなってから監視に入ることに決めた。
日が落ち、街に灯がともるころ、再び安道全の家から出てきた燕青は、裏の建物をひょいと乗り越え、袋に入れた濃茶色で細身の装束に着替え、同じ色の布で顔を覆い、目の周りや手の甲を煤で汚した。
裏門から少し離れた、大きな柏の木に登り、枯れ始めた大きな葉の陰から皇城司の裏門の監視を始める。
一日目。出入りなし。辺りが白々明るくなるころ、木から降りて元の服に着替え、安道全の家に戻る。
二日目。出入りなし。
三日目。子の刻(午前一時ころ)、二人連れの人影が出てくる。
手袋無し、月光に照らされた男二人の顔に見覚え無し。だがやはり、出入りがあるとすればこちら側であろう。
四日目。出入り無し。
五日目。丑満時(午前三時)今日手がかりがなければ、一度二仙山に戻ろうかと思ったその時、音も無く開いた扉から、二人の男が出てきた。
ひとりは小太りでつやつやした顔、目尻が下がり笑っているように見える。
間違いない。南岳元霊宮で、燕青を一瞬で金縛りにしたあの男だ。そしてもう一人は・・・・・・!
燕青は歓喜に震えた。月光に照らされた青白い痩せた顔、両手にはめられた革手袋・・・・・・
ついに見つけたぞ! 廬俊義さまの仇!
ふたりは特に急ぐ様子もなく、ゆっくりと歩いていく。
十分に距離を取ってから、燕青は音もなく柏の木から飛び降り、ふたりの後を尾行し始めた。
二人は振り返りもせずどんどん東へと進み、夜市を通り過ぎ内城を出ていく。
この辺りで燕青、ひょっとして罠では? と思ったが、この機を逃しては手袋の男に二度と巡り会えないかもしれない。
罠なら罠で噛み破るだけだ、と覚悟を決めた。
人家が少なくなり、草原や林が多くなってきたところで、前を行くふたりが振り返った。
「浪子燕青だな。お前の素人くさい監視に気づかないと思ったか。大人しく捕まってもらおう」
道士陶凱が低く声をかけてきた。
やはり罠か。どうやら監視に気づかれていたようだ。だがやるしかない。
「そうだ、だが捕まるのは断る。やい、そこの手袋の男、お前だな、廬俊義さまを殺したのは! 仇をとらせてもらう!」
ぴしゃり、と決めつけた。
手袋の男こと馬征は、何も言わず手袋を脱いだ。
その両手は、月光に照らされ、まだらな紫色に光っている。
何も言わないということは、認めたということだな。だが、あれが毒の手か。触られたら終わりの。
燕青は覆面をつけたまま袍を脱ぎ、ふたつに裂いて両手に巻き付けた。
馬征は馬征で、こいつはなぜ、俺が廬俊義を死なせたことも、俺の毒手のことも知っているのだ? 南岳にも行ってないし、一度も会ったことはないのに?
と不思議に思ったのだが、そんなことはおくびにも出さず、両手を前に突き出したまま、ゆっくりと燕青に近づいていく。
燕青は慎重に距離を測りながら、一歩、二歩と下がった次の瞬間、
むっ!
理屈ではなかった。何やら背筋がぞくっとし、本能のまま上体を前に倒した。
その上を、ぶん、と音を立てて何かが通り過ぎた。
上体を前に倒した勢いを使って斜め前方に転がり、すばやく跳ね起きると、男がもうひとり、片足を上げて立っていた。
さっきの音はこいつの蹴りか!
黒猴軍第二隊隊長、曹琢である。
こいつ、いつの間に後ろに! 何の気配もなかったが。
大きく跳び退いたが、その先には陶凱が回り込んで逃げ道を塞いでいる。
馬征、曹琢、陶凱の三人によって、三角形の中心に閉じ込められる形になってしまった。
「わしがやる、お前らは囲んで逃げられぬようにしろ」
「応」
曹琢は、背中に手を回し、帯から二尺ほどの棒を二本引き抜いた。
拐か! 落ち着け、慌てるな・・・・・・
燕青は肩を落とし半眼になった。
拐は沖縄に伝播しトンファーと呼ばれるようになった、中国武術の武器である。
短い棒に垂直に握りをつけたもので、突いてよし、守ってよし、回転をつけて殴ってよし。握りに引っかけて武器を奪ったり足を掛けて転ばせたり、変幻自在の武器だ。まして曹琢の拐は、良く木刀に使われる固い枇杷の木でできていて、下手に受ければ骨が砕ける。
疾っ!
まず握ったまま連続で突いてきた。握った状態でも、拐の先が拳から三寸(九センチ)ほど突き出ているので、それだけでも距離感がつかみづらいが、さらにそこから回転させれば、二尺近く伸びてくるのだ。
左右の拐が次々に燕青に襲いかかる。縦振り、横振り、順回転逆回転、止まっては突き、持ち替えては引っかけようとし、さらに握りでも殴ってくる。
神出鬼没縦横無尽。消えては現れる初めて戦う武器を相手に、防戦一方になる燕青。
距離をとろうとすると、馬征が回り込んで毒手で圧力をかけ、もう一人の道士陶凱は既に「水術」の詠唱を終え、手の平の上に黒い「水球」を顕現させている。
隙あらばいつでも放てる、という構えだ。しかも暗い中で玄の水球は、飛ばされても見えづらいこと甚だしい。
じゃあ、と横を見ると、馬征の両の毒手が待ち構えている。
これは・・・・・・
豪胆な燕青も、さすがに死を覚悟した。
まずは目の前の拐の男だ。
近づくと危険だが、あとのふたりは仙術を放つのも、毒の手で触ろうとするのも、この男に当たるのを恐れて、そう簡単には手を出せまい。
滑り込むように低く近づくと、曹琢は右の拐を燕青の頭めがけて振り下ろす。
首を振って避け、拐の通り過ぎた空間に跳び込んで懐に一撃を食らわそうとしたが、通り過ぎたはずの拐がぴたりと止まり、そのまま下から跳ね上がってきた。
慌ててのけぞり、地に手を突いて一回転、着地した顔面に拐の横薙ぎが来る。上体を捻って避け、そのまま背中から地面に落ちる。
曹琢は拐を長く使い、燕青の胴体に突きを入れてきた。
これが燕青の狙いだった。
回転する拐を押さえるのは難しい。どこに当たってもこちらは不利だ。もし拐を掴むのなら、止まった状態で突いてくる所を捉えるしかない。燕青は隙を見せて、曹琢に突きを出させたのである。
掴んだ!
ところが、掴んだ拐には重さがなかった。
曹琢はわざと燕青に拐を掴ませ、すぐに手を離してそのまま倒れ込むように燕青の腹部に肘から落ちてきたのである。
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