第二章(五)
湯煙りの向こうにふたり連れの影がうっすらと見える。声で気づいたが、夕方に会った林翡円、翠円姉妹に違いない。燕青は慌てて声をかけた。
「あ、いや暫くお待ちを。すぐ出ますので、服を着るまで外でお待ちください」
ふたつの人影は驚いたように立ちすくんだが、それも寸時のこと。小声で何やら相談している。すぐ相談はまとまったらしく、姉妹が声をかけてきた。
「あの、燕青さま。失礼でなければご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」
「少々お話などさせていただければと存じます」
さて、どうする? もともと北京大名府で、その人ありと知られた風流子だ。妙齢の女性との混浴ごときで動揺するものではないが、さすがに美人双子姉妹となると勝手が違う。
それに、今日到着したばかりのこの道観で問題を起こすわけにはいかない。ただでさえ先ほど一清道人から、波風を立てぬよう釘を刺されたばかりである。
しかし、この場合断るほうが波風が立つのか、それとも了承するほうがまずいのか? ええい、ままよ。
「わかりました。そちらがお嫌でなければ、どうぞお入りください。暫く後ろを向いていますので」
人が近づく気配がし、しゅるしゅると僅かな衣擦れの音が聞こえ、そして小さな水音。
「もう肩まで浸かりました」
「こちらをお向きになられても大丈夫です」
聞いて燕青はゆっくり振り向いた。一丈(3m)ほど向こうに艶然と微笑む二つの同じ顔が見える。 「ええと、こちらが翠円さんで、そちらが翡円さんでよろしいですか?」
黒子の場所以外は見分けようもないほど酷似したふたりがうなづく。顔だけではなく、首、肩、そして湯面から上半分だけ見える豊かな双丘の形や大きさまで全く同じに見える。
白くむっちりとした肉置きの肌は、艶々として湯滴を残さず、弾力性と滑らかさが見てとれた。姉妹の美貌と相まって「酒池肉林」もかくや、という気持ちにすらなってくる。やがて翠円が口を開いた。
「昼間、小融を助けてくださったそうですね。ありがとうございます」
「いやいや、別にわたしが手出しをしなくても、あの子なら何とかしていたと思いますよ」
「本当にもうあの子は、怖いもの知らずで危ないことばっかりなんですよ」
「そもそも、わたしたちの仲間があの子達の家族を亡き者にして、寂しい思いをさせてしまった。あなた方があの子をお育てになったそうですね」
「いえ、私達なんて何にもできませんでした。姉の役割はできても、やはり母にはなれません。寂しいはずなのに、あの子必死なんです。」
「必死?」
「はい、自分はこの『浄眼』のせいで家族から捨てられた。でも自分がここにいられるのは、自分のこの眼が『見鬼』で役に立つからだ。だからわたしは道士として成果を出さなければならない、と」
「わたしたち四人は、みな戦で親を亡くたり攫われたりで、師父や師兄に救われました。ですがあの子だけは、親に疎んじられてここに預けられました。だからまたいつか捨てられるんじゃないかと、いつ捨てられても生きていけるようにならなきゃいけないんだと、そう思い込んでいるんです」
「ふぅむ、だから旅に出て、ひとりでも生きていく術を身に付けたいということか。物見遊山だけで山を下りたいわけじゃないんだ」
「いえ、実際に世間をいろいろと見たいんだという気持ちもあると思います。でも一番の理由は、独り立ちしたいんですよ」
「一見、元気で明るい子供に見えますけど、そんな思いを抱えているんですね」
「はい、暗い顔、苦しいところを見せたら、うざったい、邪魔だ、と捨てられる。だから弱みを見せるな、辛い顔を見せるな、そう考えてるんだと思います」
「そうか。だから強がって、小生意気な態度を取ったりするんですね。でも子供らしい笑顔を何回か見ましたけど」
それを聞いて、翡円、翠円顔を見合わせ、目を潤ませる。
「姉さん、初対面の人に笑顔ですって」
「ええ、これならきっと大丈夫だわ」
両名は意を決したように、湯壺の中を燕青の方に詰め寄ってきた。
燕青は、裸の美女ふたりに膝詰めされて、さすがに動揺しながら岩と岩の間に追い詰められた。
「あ、あの、なにか? 」
柄にもなくどぎまぎする燕青の右腕にすがりついて翡円、
「あの子はめったな人に気を許しません。それなのにあなたに笑顔を見せた、ということは、あなたに少なからぬ信頼や好意を感じたのだと思います」
さらに左腕を翠円が抱え込み、
「それなのに、あの子は魔物を祓うときにいつも笑うんです。祓いに意識を集中すれば、余計なことを忘れられるからでしょう。けれど、それでは心が歪んでしまいます!」
ふたりはますます強く燕青の両腕を抱きかかえ、息のかかるほどに顔を寄せ
「どうかあの子をお救いください」「厚かましいお願いですが、どうかお頼みもうしあげます」
たわわな乳房を、真剣な面持ちで両腕に押しつけられては、燕青はもう何かをまともに考えられる状態ではない。返事をしようと思ったが、なんだか頭がくらくらする。
(ぬぅ、酔いが戻ってきたか、あるいはのぼせたか)
これはまずい、湯から出なければ、と思わず立ち上がってしまった。「キャー!」という悲鳴とも歓声ともつかぬ声が二つ響き、翡円翠円姉妹、両手で顔を覆って真っ赤になっている。(ふたりとも指の隙間からしっかり見ているのはお約束であるが)
立ち上がったのが逆にまずかった。燕青は酔いとのぼせで立ちくらみを起こし、そのままうつ伏せに湯壺に倒れこんだ。温泉の湯面に、水中花のように背中の極彩色の彫物が揺らいで見える。
(まぁ、なんてキレイなん……じゃなくて大変!燕青さましっかりして!)
(ちょっとぉ!だれか早く来てぇ!小融!玉林!紅苑!)
燕青はそんな叫び声を聞いた気がしたが、不覚にもそこから後の記憶はない。
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