憂鬱な旅路
この国の名は、『マノガスト聖王国』。
古い文献を漁ろうとも、『マノガスト』という単語は実に簡単に見つかる。およそ5000年前の大革命時代から国として機能していたらしい。人類の進化の歴史の最前線を、遠い過去から今日まで先導してきた。この世界の2大国の片翼を担う。それほどの国だ。
そんなマノガスト聖王国の歴史に名を刻む者の一人が、初代『聖託』ベラ・サクホードだ。
彼女の功績には一つドデカいものがあるが、没後何百年と愛され続けているのはそれが理由ではない。国内各地、時には外国をも巡り、数々のお悩みを解決してきた実績からだ。気付けば領地と城を手にしていた。ベラちゃんはちょっと涙目になっていた。
そうして自身の領地を統べるようになった『聖託』だったが、当然何一つ分かるはずもなく、他の人に任せていたら領地がとんでもなく大きくなっていた。いつしか『王都』と並んで『聖都』と呼ばれ始め、当時の『マノガスト王国』を『マノガスト“聖”王国』へとするほどの影響力を持つに至ったのだ。人の善意を無碍にする訳にもいかず、ベラちゃんはとっても泣きたくなったけど泣かなかった。
さらにさらに、どこかから誕生日が漏れた日には、聖都のみならず世界中からお祝いされた。この出来事が『聖誕祭』の始まりとなり、今年もあと数日に控えている。これにはさすがにベラちゃん、犯人をポカポカ叩いた。
そんなところから国賓として招かれるアーサー・レイ・マノガスト何某については、今は割愛しよう。国の歴史に名を刻むどころか、国を背負った名前をしているが、割愛しよう。
兎にも角にも、これがツナギとリュウゴが向かう聖都、ひいては聖誕祭の概要である。
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『クソジジイめぇ~!』
「まだ言ってんのかよ」
林道を歩く人物が一人。長旅のため、体への負荷をできるだけ軽減できるよう楽な服装をしたツナギだ。腰には剣を一本携えている。
ツナギは首から、物を収納できるペンダントを下げている。ある程度の制限はあるものの、基本的に何でも入る。あまり気にせず使っているが、由来は不明だ。ツナギがアーサーに拾われた時にはもう持っていたらしい。この世界には不思議な現象を引き起こす道具もそれなりにあるので、いちいち気にしていられない。
それでも重い鉄製の剣をペンダントに入れておかないのは、ツナギのクセによるものだ。咄嗟の判断では、ペンダントから剣を取り出すよりも、直接柄を握った方が早い。ずっとそうしてきたが故の、クセ。服装とは裏腹に非効率的だ。
『『聖剣』はルール違反だろうがよ!何で追い詰めたら次の段階に進むんだ!ラスボスかっ!』
「何でもありってルールだし。こっちも【アーク】込みで負けた訳で」
『甘ぇなツナギ坊ちゃん。そんなにお祭りが楽しみか?』
「は?嫌だけど?」
二人は振り返る。彼らの育ての親であり、師でもある老人との戦いを。
勝負はそんなに長引かなかった。ほんの5分程度だ。二人の全力は、老人によって真正面から叩き潰された。後に残ったのは、折れた右腕の骨と「すまんやりすぎた」という謝罪だけ。おかげで出発が大幅に遅れたが、それだけが唯一の救いだった。
「治癒魔法で治ったけど確かに痛かった。でも恨むのはお門違いだ」
『恨みはねーよ。ただの愚痴』
「そうだったな。お前は非がない人でも無条件で嫌いだもんな」
『いやいや、俺が嫌いなのは一目見た時に「あっ、こいつは生理的に無理だぞ」ってなる奴だけだから』
「俺もその理由でお前を嫌っていい?」
『俺は他人の評価とか全然気にしない派だから。無意味で無意義~。ハハハ』
(殴りてぇ~……)
リュウゴの戯言は気にするだけ無駄。割り切ろうと何度も決意してはいるが、いつも心を乱される。要するに、とてもムカつく。顔面をぶん殴ってやりたいほどに。
「にしてもあと3日かぁ。まあ間に合うだろうけど」
『ジジイに全責任を押し付けよう。バックレないだけえらいえらい』
リュウゴは両手をひらひらさせながら無責任な言葉を口にする。早めに聖都まで来いとのお達しだったが、療養のため遅れたという理由で押し切るつもりのようだ。そもそも、その一方的な約束を律儀に守るつもりはあまりない。
「ほら、もう拠点だ。夜通し歩いたしちょっと休憩しようか」
『いやぁホントおつかれ~』
「一歩も歩いてない奴はもっと労いの心を持ってもいいんだぞ?」
『へーそんな奴がいるんだーたまげたなー』
「その身を鏡に写さんでも自分のことを顧みることはできるぞー」
『お前も言うようになったなぁ』
「そりゃ誰かのおかげさまで」
「『……』」
ここは、『ベンマトル森林地帯』というマノガストの国土のおよそ3割を占める広大な森だ。別名『魔の森』。
ここでは実に様々な超常現象が観測されている。場所によって環境が急激に移り変わったり、重力がおかしな方向に働いていたり、有機物が土に還るのが早すぎたり。中には迷宮なんてものもある。そういった現象を調査、研究するために、魔の森内にいくつか拠点が設置されているのだ。この森で過去何人も死んでいるため、時には墓場と揶揄されることもある。
ツナギたちがここで暮らしているのは、研究云々とは関係ない。アーサーにとって大抵のことは障害足り得ないし、二人にとってもここは庭のようなものだ。何度も死にかけたことすら今は懐かしい。
「ここまで長かったなぁ。後は馬車にでも乗せてってもらおう。この時期だから何本かあるだろ」
『あったらいいなぁ。無くても俺は困らんが』
この一人(二人)旅の最大の敵は相方だった。リュウゴの相手をするだけで、精神的にドッと疲れる。耳元で羽虫が飛んでいると鬱陶しいと感じるだろう。あれと似たような感覚だ。
ツナギは二股に分かれた道を、拠点の方へと進む。その道を塞ぐように、高い防壁がそびえ立つ。この研究拠点――たしか第三拠点と番号付けられたこの場所をぐるりと取り囲んでいる。規模はそれほどでもない。中で暮らしているのはせいぜい30人ほど。小さな村くらいの大きさだ。
壁の上の、おそらく見張りであろう人物と目が合う。相手は全身に鎧を纏っている。顔まで覆う徹底ぶりだ。ここは国の施設でもあるので、彼は十中八九国属の騎士だ。位置的に王都ではなく聖都の方から派遣された騎士だろう。
「わざわざ扉を開けてもらうのも忍びないし――」
そびえ立つ防壁と言っても、ツナギにとって飛び越えられない高さではない。マノガストの騎士団の中で使われるハンドサインで今からそこに行くと伝え、軽く助走をつけて壁の上まで跳躍する。奇襲ならこの時点で大成功だ。
「あ、通りますねー」
「あ、はい、えと……どうぞ」
彼ではなく彼女だった。何か言いたげだったが、彼女は言葉を飲み込んだ。
聖都所属の騎士ということはツナギのことも少なからずは知っているだろう。例え不名誉な広がり方でも、こういう時に顔パスできるのはメリットだ。それと、何でまだこんなところにいるのだろうという視線も感じる。傷を癒していました私は悪くないです。
ここ第三拠点には、魔の森の調査機関が設置されている。それら中でも特に、植生や生態系についての調査研究を行っている場所だ。
魔の森には、実にユニークな世界が広がっている。生物も植物も、外の世界とは比べ物にならない。植物は色とりどりの実を実らせ、それを雑多な動物が食う。その動物や弱い魔物を、さらに強大な魔物が食す。魔の森で死んだものは、即、植物たちの栄養となる。
大自然が生み出す蟲毒の中で、人間にとって有益な物を見つけ出す。それがこの第三拠点の調査員たちの仕事である。
ちなみに、マノガスト国内において魔物の存在が観測されるのは魔の森だけだ。
「久しぶりに来たな。1年ぶり?景観がすっかり変わってる」
『うっわ何だあのキショイ植物。蠢いてやがる』
壁に守られた拠点の中は、各所が植物のツルに占拠されていた。建物の壁や地面をヘビの如く這っている。拠点内に持ち込まれて放置されているということは、何かしらの益があるということだが、どう見ても侵食された古代遺跡にしか見えない。壁に生えたコケも、その印象を助長している。築10年も経っていないだろうに。
「やあツナギくんじゃないか。珍しいね。こんなところまで」
「今年もあの季節が来たってことですよ。スピルクさん」
「ハハハ、そう悲観することでもないと思うんだが」
遠い目をして答えるツナギに、気さくに話しかける眼鏡の男。ベンマトル森林地帯特異研究所第三拠点所長の、スピルクだ。30という若さで所長を任される秀才。異国で学んだ生物学の知見を存分に発揮している。
「おはようございます!」
「おはよう。大きくなったね。イルルちゃん」
「もう5さいです!もうすぐ6さいになります!」
そして彼には、小さな愛娘がいる。スピルクに肩車され、舌足らずながら精一杯あいさつするのがイルルだ。屈託のない笑顔に、釣られてツナギも笑い返す。
「えへへ」
「ああうちの子はかわいいなあ」
「親バカに磨きがかかってますね」
「当然だとも!イルルはもうすぐ聖都の学校に入学するんだ!その間僕はここに残ることになるんだよ!しばらく離れ離れだ!そんなの耐えられない!今のうちに可愛がるぞぉー!」
「おとうさん恥ずかしいです!」
『こんな愉快な人だったかなぁ?』
髪の毛を引っ張られながらも、肩車は決してやめようとはしない。そのうち頭が寂しいことになりそうだ。
「いたた……そうだ。今年は一人?」
「ええ、一人で」
『……』
「そっか。おっちゃんの馬車なら今日の昼過ぎに出るよ。聖都に着くのは前日かな。うちの調査員たちが乗ったのは昨日出たんだ。果物を運ぶやつだけど大丈夫かい?」
「ありがとうございます。正直当てにしてました」
ここまで歩いて、残りの道程は馬車に相乗りさせてもらう。その代わりと言っては何だが、荷運びや護衛なんかを手伝う。毎年のことだ。ツナギにとってこれはとてもありがたい。一度聖都まで全て徒歩で向かった際には、ヘトヘトになってお祭りどころではなかった。
「いってらっしゃいです。ツナギさん!」
「あれ?そういえばイルルちゃんはここに残るんだ?」
「はい!」
「そうなんだよ。僕が今ここを離れられない状況でね……」
「だから今年はおとうさんと一緒にいます。聖都には来年からずっと居ますし!」
「本当にいい子だなあ!うちの娘は!」
「もう!」
親子の様子を、またやってるよ、といった雰囲気で他の調査員たちが見守っている。ここには子供はイルル一人しかいない。そもそも家族3人が揃っているのがこの一家だけなのだ。暗くなりがちな研究所を明るく照らしてくれるので、みんなから愛されているのだ。イルルちゃんはお菓子をいっぱいもらえるのでご満悦。
「じゃあお土産を買ってこないとね」
「楽しみにしてますね!」
スピルクたちと談笑をした後、ツナギはこの拠点の倉庫を訪ねた。もうほとんど荷物は積み終わっているとのことだが、少しでも手伝えることがあるのなら、と。あと、御者と顔合わせくらいはしておきたかった。
「こんちはー」
「だーからいらねぇって!護衛なんざ!」
「そう言ってもこっちも規則があるわけですから。魔の森を抜け切るまではいなきゃダメなんすよ!そこで俺が降りればいいだけなんすから」
「そんな面倒くさいこと……歩いて帰るのもしんどいだろ」
「そんくらいは全然余裕っす」
「あのー」
馬車の傍で、男二人が言い争っている現場に遭遇した。馬車の中を覗くと、木箱に詰められたたくさんの果実が見える。これが、もうすぐ出発する馬車で間違いなさそうだ。言い争っているのは御者と、もう一人は帯剣していることから騎士だろう。
「ん、子供?」
「何か問題でもありました?」
「おうツー坊。レイさんは一緒じゃねえのか」
「うん。俺一人」
ツナギと親しげに言葉を交わすのは、筋骨隆々の御者、ゾロウだ。品物の運搬のため、主に魔の森と聖都間を行き来している。この時期は聖誕祭の影響で特に忙しい。ツナギとも何度か面識がある。
「あのですね、ゾロウさん。許可証を持たずに、魔の森を通って、公的な物品を運搬するのはいろいろまずいんですよ。万が一が起こると。俺が言った抜け道で手を打ちましょ!ね?」
「そうは言っても家に忘れちまったし。本来許されてるんだからいいじゃねえか。そもそもその万が一が起こるとあんたは足手まといになる」
「それを言っちゃあおしまいでしょう」
魔の森は、危険地帯である。当然誰でも簡単に、何の制限も無しに出入りすることはできない。この場合揉めているのが物資の運搬についてだが、その場合の制限というのが、『交易許可証』の所持を絶対とし、及び本人が『単独通行許可証』を所持していること。もしくは『複数通行許可証』の所持かつ条件人数を満たす、正規の手続きを経て上記資格所持者と同等の権限を持つことを一時的に認められる、などする必要がある。
ゾロウはうっかりで『単独通行許可証』を家に忘れてしまったため、このとても面倒な規則に引っかかってしまったのだ。この制限は魔の森内で適用されるので、一歩でも外に出れば途端に規則は緩くなる。騎士の彼が言った抜け道とは、このことについて言及したものである。
『あーなるほど免許不携帯ね。バカらしい』
「それなら問題ないですね。ほら、積み荷が人間一人分増えるので」
そう言って、ツナギは自分を指差す。ペンダントから取り出すのは『特別王認騎士』の称号を示すブローチだ。住所がベンマトル森林地帯であるツナギが外の世界へ赴くのには、本来ならば数々の障害が伴う。そもそも魔の森に住むこと自体、無許可ではあり得ない。
そこで、王がその権限を使って許可を出したのだ。選定は(かつての)王に一任された。かくしてツナギは(かつての)王に認められ、肩書だけの騎士となった。不正はなかった。
「これは失礼したっす。魔の森に住まわれる王認騎士の噂はかねがね」
「いえいえ。俺は何かしてるわけじゃないんで。ここの皆さんの方が立派ですよ」
ブローチに刻まれた現王アスターの名の下に、ツナギの身分は証明される。彼を認めた王の名は、裏側に小さく刻まれている。
「噂はデカイっすよ。なんでも、過去に聖都を襲撃したとか」
「……」
「10歳くらいの子供が二人――」
「人違いです」
「でも桃色の髪の毛って――」
「きっと誰かと間違えてるんですね」
「あ、はい」
『騎士様こいつでーす!』
悲しいかな、ツナギも一応騎士である。
リュウゴが見える辺りへ懸命に手を伸ばし霧散させようとするも、何にも触れることはかなわない。それでも虚空に苛立ちを発散させずにはいられなかった。
「とにかく!俺が一緒に聖都まで行くので。これなら問題ないですよね」
「はい。よろしくおねがいするっす」
「おっちゃんも。荷運びでも護衛でも何でもするからさ。今年もよろしく頼むよ」
「おう、任せろ。あんたもごねてすまなかったなぁ」
「無事解決したんでもういいっすよ」
『特権は使ってなんぼだからなぁ。気分が良いぜ』
リュウゴの声は、現在ツナギにしか聞こえていない。他の誰かとコミュニケーションを取るには、ペンダントをマイク代わりにして発声する必要がある。その手順を踏んでいないため、この場の他の者には聞こえない。故にツナギも聞こえていないことにする。いちいち気にしていては、精神を著しく害されるからだ。
「それじゃあ、何でも言ってよ」
/
わずかに残っていた積み荷を全て馬車の荷台に乗せ、出発の準備が整う。早めの昼食を食べ、ツナギは眠い目をこすりながら別れの挨拶を済ませる。
「荷台で寝かせてもらおう。徹夜の谷越えは堪えた。お前のせいだぞ?」
『すまん寝てたー』
ゾロウの御者の腕はピカイチだ。本人の強さもさることながら、単独で魔の森を通ることを許されているだけある。揺れはきっと小さいだろう。
「おーいもう出すぞー!」
「あーい!」
馬は轡によって馬車に繋がれ、ゾロウは御者台に乗り込んでいる。強靭な馬たちだ。三日三晩馬車を引いても疲れもしないだろう。まったく、うらやましい限りだ。
防壁の扉が音を立てて開き、この拠点の中に新しい風が流れ込む。あまり気持ちのいい風ではない。生ぬるくてじっとりとした風だ。今日の陽は昇ってからずっと、大地を照り付けているからだろうか。
「やっぱ向こうに着いてから寝よう」
『んー……』
「ちょっと嫌な予感がした。何かが起こってから後悔するよりも、何も起こらなくて取り越し苦労だったことを悔いればいい」
『ご立派な精神だことで』
リュウゴの声音が珍しくも少し優しい。
「いってらっしゃーい!」
ツナギは荷台の後ろから顔を覗かせ、イルルに手を振り返した。最初に見かけた全身鎧の騎士が扉を閉める前に頭を下げてきたので、こちらも頭を下げ返した。
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「つまらん。暇つぶしにもならんじゃないか」
体に這うような黒いアザのある巨躯の男がつぶやく。引き締まった体が纏う羽織と、長く伸び切った白い髪が土埃で汚れていく。
何かを握りつぶしたように、両の手を重ね合わせている。ぱらぱらと崩れ行く洞窟の中で、一人失意の底に佇む。とても不機嫌そうな顔だ。
「やはり元気に生きてる奴が一番楽しめる」
男が両の手を解くと、すでに彼は地上に出ていた。迷宮は内部の空洞を埋めるよう崩落を始め、地上に出た男ごと沈下する。男は再び地下へ落ちるが、その周囲に挑戦者を惑わす迷宮は存在しない。何もない空間が広がるだけだ。
いくつもの瓦礫を足に敷き、陽光に目を細める。
「さて、アーサーはどこかな?」
災害に巻き込まれて潰れた竜の巣も、猿の群れも、この森の何もかも、男の知ったことではない。
/
――……
「『騎士王』アスター」
『アーサー・レイ・マノガスト』
「と……『透在』のサイム」
『『無限の』……じゃない、『夢郷』ムザイア』
「あ……アーツ・マール」
『ルミリアルーク・リグキスネス・グラインハートバット』
「……そんな人いるの?」
『どっかでこんな名前を聞いた気がする。こっちで』
「まあいいや。またとか……時知らずのレグノ」
『おい絵本はさすがに無法が過ぎるぞ!』
「実在するかもしれないじゃん!」
あまりにも何も起きないため、二人は人物名縛りしりとりに興じていた。さすがに全く続かなかったので、二つ名は解禁したところだ。現在は絵本の登場人物はセーフかどうかの審議が始まった。
『しっかし驚くほどに何も起きねえな』
「起きないに越したことはないけどね」
彼らが第三拠点を発ってからおよそ3時間。魔の森をもう抜けつつある。明確な境界線はないので、抜けたと主張すれば十分にその言い分は通るだろう。ということで、彼らは魔の森ことベンマトル森林地帯を抜けた。
ツナギの嫌な予感、もとい胸騒ぎはまだ消えない。荷台の後ろで、今来た道を眺めている。
『さて、のかぁ。誰かいたかな――』
嫌な風が、執拗に首筋を撫でる。濃密な殺気が、風に混じってここまで届く。
「おっちゃん。馬車止めて」
「お?なんかあったか?」
ツナギはすぐさま荷台から飛び降り、静かな森の中で地面に手を付ける。兄弟子ほどではないが、ツナギにも広範囲を索敵する術がある。
『どうだ?』
「……魔物だ。最悪迷宮が一つぶっ壊れてる」
ツナギ以外には聞こえない声に対し、小声で答える。無理やり使った魔法の影響で、ツナギは少なからずの倦怠感を覚える。
「こりゃあ……なんか良くないな」
「騎士団が何とかするだろうけど……」
ここでゾロウも異変に気付く。馬をなだめつつ、今来た道を睨んでいる。
自分が行かなくても、きっと何とかなる。この国の騎士は強い。彼らを見くびっているわけじゃない。
それでも、何かが起こってからでは遅いのだ。自分が動くことで、状況が改善される余地が少しでもあるのなら。走れ、と体中の全細胞が告げる。
『あーあ』
「……おっちゃん。俺はここで降りるよ」
「それはいいが」
「何でもするって言っちゃったもんね。あの拠点の護衛だ。それにいつまでも名ばかりの騎士じゃ、俺も恥ずかしい」
「馬はいるかい?」
「いや、走った方が速い」
「そうか。それじゃまたいつか会いに来てくれや」
「ハハ、わかった」
一瞬で姿が見えなくなった。
あの子の痛々しい姿に、声が出なかった。
それがもう嫌だから、俺は、一歩を強く踏む。
ツナギに踏まれた花は、潰れて花弁が散っていった。