親愛なる我が半身様へ
穏やかな朝。吹き抜ける風が、光を乱反射する朝露を散らす。
その風は一直線に軌跡を残し、道程の草花は成す術もなくその葉を傷付けられる。長さ120cmほどの木剣の通り道だ。
「ッ…!」
木剣を振るうは、桃色の髪を逆立たせた少年。顔色から相当の疲労が窺える。朝露に混ざり、大粒の汗を地面に落とす。
「ホッホ」
対して受け止めるは、長い白髪を纏めもせずに振り回す老人だ。無造作にはためかせるのは羽織の袖も同様に。一切の息切れなく、一切の過不足なしに少年の木剣を迎え入れる。
カァーンという木剣同士の小気味良い音が、ついさっき夜明けを迎えた静かな森に響く。
地面に突き刺さる木剣が一つ。少年の持っていたそれが、彼の手から離れる。
剣を失った少年だが、一瞬苦い顔をするだけで攻勢を止めようとはしない。徒手空拳での戦闘にシフトしようとし――
「ォワッ!」
足元を掬われる。接地していた方の足を刈られたのだ。少年は地面に転がされる。
こうして少年の首筋に老人が木剣を当てて、ようやくこの模擬戦が終わる。
「ハアァ――……」
少年は空気を求め、大きく口を開けて息を吸う。仰向けの少年が胸を大きく上下させる様を、老人が涼しい顔で見ている。
「剣を手放すな。柄をしっかり握れ。剣を捨てるならきっちり捨て切れ。判断が遅れたな」
「……ハイ。じいちゃん」
両手で顔を覆って汗を拭う。少年は瞠目しながら、先ほどの模擬戦の反省点を洗い出す。
最後の木剣同士の打ち合い。接触の瞬間にこちらの剣が手から離れかけた。それを咄嗟に補完しようとして、しかし間に合わなくて、それならいっそ剣を捨てるという選択を採ったが、一瞬の迷いを隠しきったまま戦えるほど甘い相手ではない。
そもそも、この長時間の戦闘を通してあまりにも無駄が多すぎる。単純な足運びだけでも、よりコンパクトにできる箇所が20はあった。あと一歩――いや半歩にも満たない間合いにどれだけ辛酸をなめさせられたか。少年が師と仰ぐ老人は、それを理解した上で最小限の動きしかしない。それも理由の一つとして、息切れ一つない。その他反省点は諸々……
こちらの不得手を突いてくれる相手は、稽古の相手としては実に最適であると言えよう。
だがしかし――
「あああぁぁ―――!」
同時に、とてもやり切れない。
少年はため息と頭の中のモヤモヤを同時に吐き出す。いくらか明瞭になった脳ミソが下した次の命令は、体を起こすことだった。
朝日がまぶしい。いつの間にか顔を出した陽の光を、少年はこの時初めて認識する。手で影を作って朝日が昇る方向を眺めていると、背後から声をかけられた。
「いやぁ、おつかれさま~」
少年と、老人と、あとは森の草木が存在するこの空間に、大きな黒い毛むくじゃらの生き物が近づいてくる。毛むくじゃらではあるが十分に人型で、その手には水が入ったボトルとタオルを2セット持っている。
「ほいっ、ツナギ」
「さんきゅ」
毛むくじゃらが、少年にボトルを投げて渡す。
少年はそれを受け取った傍から口の中に流しこみ、残りを頭から被る。
「あー生き返るー」
服が濡れることも厭わずに、むしろそれが気持ちいいとさえ主張するように、ツナギ少年の緊張が溶けるように解かれていく。
「アーサーはどうする?」
「いや、ワシはいい」
「はいは~い」
アーサー老の返答を受け取った毛むくじゃらは、もう一つのボトルもツナギに投げて渡す。
それにしても妙に間延びした口調で、フワフワと掴みどころがない。
「随分なやられ様じゃない。それでそれで、何発当てたの?」
「……一発」
「すごいじゃ~ん!」
「かすっただけ……」
「あぁ~」
息つく暇もなかった先ほどの稽古中、ツナギの剣がアーサーの剣を搔い潜りその体に当たったのは、わずか一度。左の脇腹をかすめるだけにとどまった。
アーサーは突っ立ったまま、ツナギの剣がかすめた部分に手を当てている。未だに残る感触に、何やら思うところがあるのだろう。それは弟子の成長か、孫の成長か。
「それで、リュウゴや。お前もきちんと見ておったな」
アーサーが、虚空に話しかける。正確には、声も意識もツナギの方を向いているが、ツナギを見ているのではない。そこにいるだろうと当たりをつけた、ツナギと共にいるリュウゴへの問いかけだ。
『あぁ。相変わらず気色悪い強さしてんな、ジジイ』
ツナギが首にかけたペンダント。二つの輪っかが重なり合い、立体的な構造をしたもの――すなわち球を形どったそれから、声が聞こえる。非常に憎たらしそうな男の声だ。
顎に手を添え、吟味するような目をアーサーに向けている。だが、この男の存在を認識できても、何人たりとも姿を観測することはできない。
ツナギ以外には。
「言葉が汚いよ。寝坊バカ」
『朝早ぇんだよ!碌な娯楽がねぇんだ。睡眠くらい存分にやらせろ!』
「うっせえ。夜更かしバカ」
『俺ぁもともと夜行性なんですぅー』
顔の整った黒髪の少年の姿をしている。
僕だけ見える怪異の友達――ではなく、ツナギの網膜に直接焼き付いているため、余人にはリュウゴを視認できない。例え中指を立てていようと、アーサー達はそれを知る由もないのだ。何となく行動が読めていたとしても。
『だいたい律儀に地雷を踏み抜くマヌケに説教されたくないね』
「30分間じいちゃんの相手をしてから言え。言葉が軽いよ」
「『……』」
睨み合う二人。しかし端から見ればツナギの一人相撲だ。
「仲いいねぇ~」
「『|うっさい≪だまれ≫、モフ!』」
茶化す毛むくじゃらに、二人が否を返す。もしも今、モフが人間と同じ表情筋を持っていたならば、ニンマリとそれを動かすだろう。今の体でそういった感情を精一杯表現する。だがこれもこれでなかなかに愛嬌がある。
「あぁ、二人で一つの体を共有してるっていうのは本当に――」
嫌になる、と。
特にこいつと。
「ほどほどにしておきなさい」
この場はアーサーがなだめ、ひとまず落ち着く。ただし熱は冷めず。
「あぁそうだアーサー。今年も来てたよ~。招待状が」
そう言ってモフは、自身の毛皮の中から二通の手紙を取り出す。片方は何の変哲もない普通の手紙。しかしもう片方は、片割れと違って一目で高級なものだとわかる。
まず、白の発色から違う。純白が昇ったばかりの陽の光を虹色に反射する。さらにこちらが封を破らずとも、独りでにアーサーの眼前で展開を始めた。高価な素材と高度な魔法の産物だ。
「ボクが家を出るときにちょうど届いてねぇ~。差出人はどっちも『聖託』くん。宛名はレイさんと、アーサー・レイ・マノガスト様だ」
「ついにそっちでも送って来おったか。食えん小僧め」
当然、アーサー・レイ・マノガスト何某宛ての方が高級な手紙だ。自らの目の前に浮かぶそれを手に取る。一通り目を通した後、アーサーが頬を吊り上げニヤリと笑う。
「言っとくけど、俺は、行かないからな!」
『まぁまぁツナギちゃ~ん。別にいいじゃないか。お前の黒歴史だろ?』
「確かに過去お前に唆された俺の過ちだなあ!」
街中での蛮行。多くの視線。完全な敗北。
――今でも思い出そうとすると頭痛がする。何故リュウゴの口車に乗ったのか。あの頃のツナギはまだピュアであったと言う他にない。あまり人を疑うことをしないと言うか……。
「とにかく!絶対に行かん!」
「う~ん。ワシにも用事があるしなぁ。ちょいと遠出をば。今日にはここを発たねばならん」
「そもそも出席の必要性はないじゃん!毎ッ年なんか豪華な席に座らされるこっちの身にもなってみろ!生暖かいんだよ!視線が!話もつまんないし!」
『クソ長ぇ話はお昼寝の時間、ってお父さん教えたでしょ?』
「お前の感性は当てにならん。黙ってろ!」
聖誕祭。この国のお祭りの一つである。比較的最近の昔の偉人の誕生日が記念日となったのだ。国内外問わず多くの人で賑わう。
そんな中、当然偉い人も来るわけで、貴族王族の隣で舟を漕ぐほどの胆力を、齢15のツナギ少年は持ち合わせていない。アーサーの隣に座るとは言え小さな子供の体が故に、むしろ委縮してしまうほどだ。これまでの経験で分かっている。わざわざ恥をかきに行くことを、ツナギは望まない。
『断る理由なんざお前の感情だけだろ?だったらそんなものはもうポイッよ』
「すまんがなぁ、今年は特に出席するように、とのことじゃ。それもできるだけ早めにのぉ。詳しくは現地でエルムから聞くと良い」
『……』
リュウゴの人物像を端的に表すなら、クソ野郎である。究極の個人主義――他者全てを見下す天上天下唯我独尊野郎である。その口は侮辱と煽りしか紡がない。何故ならば、そうすると自分が気持ちいいから。
その口が、止まった。
『おい待て。今年はアイツもいるのか?』
「そうじゃな。そう書いておる」
『……』
「……」
「……」
沈黙が、場を支配する。葉が風によって擦れる音がよく聞こえる。
『剣を取れ!ツナギ!今年は引きこもる理由ができたァ!』
「ほんッと、こういう時だけ頼れるな!」
ツナギが、ペンダントから剣を取りだす。輪っかが重なって球状になっているそれから、ずっしりと重量感のある柄を引き抜く。木剣じゃない、真剣だ。
「む、かかって来い。そういう取り決めじゃったからなぁ」
これは、嫌がるツナギに残された唯一の道。意見を通したくば力で示せ。ワシを打倒してみせろ。
本気の力比べだ。これまでは全敗(一部リュウゴの妨害あり)。しかし今回は、2対1だ。
『ざっけんな!あんにゃろうの面は見たくもねぇ!』
「それって感情論?」
『俺の不快は排除しなければならない!』
隣の悪魔は敵だが、味方だ。
ツナギにとって、いざという時に一番頼れるのは紛れもなくリュウゴなのである。有事以外のリュウゴは実にアレだが。
両者が剣を構え、相手の出方を伺う。深く、深く、雑音が二人の世界から排斥されていき――
「やっぱり今年もこうなるかぁ~」
ポツンと残された観客一人は、剣戟の行く末を見届けた。
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さて、二人の顛末はと言うと。
国賓の代理という肩書の下、祭りの会場――聖都へと向かった。