アリナが生きた二年
「死んだ、アリナが?」
その訃報に、思わずカップを持ったまま席を立ってしまい、たっぷりと中身が入ったままのそれを落としてしまった。
――だが、まだ間に合う。
『浮遊せよ』
その意味を持つ力ある言葉を紡ぎ、魔術によって重力に逆らったカップとコーヒーを、ソーサーに戻した。
「すまない。だが、冗談だとしたらタチが悪すぎるぞ。いちおうお前の姉だろう、アルセス?」
「冗談で、国境二つ分越えてまで知らせに来るものか。本当だ。うちで葬儀を出した上で、ここに来たんだ」
こいつ――魔術学院からの腐れ縁であるアルセスは、とある魔術の大家の長男だ。
といっても、学院時代のアルセスの成績は中の中にすぎず、三つ上のアリナとは次期当主の座を争うまでもないほどの実力差があった。
人並み外れた魔力を持ち、見目麗しく、老若男女から好かれる人柄で、俺のほのかな恋心を差し引いても、完璧な人と言えた。
ただ一つ、魔力を使う代償に両足の機能が著しく低下し、車椅子生活を強いられる以外は。
「話を聞く前に確認させてくれ。アリナは魔術師を辞めたんだよな?」
「ああ。おかげで俺が家を継ぐことになったんだが、分家連中が揃いも揃って反乱を起こしそうでな。お前に会いに来たのも、叔父のご機嫌伺いに来たついでのついでさ」
「じゃあ、その怒れる叔父さんに感謝しないとな」
魔術を極められるなら、自分の両足を犠牲にする奴なんてごまんといる。
それでもアリナは、たとえ魔術師としての全てを失ってでも、地に足をつけたただの人間の人生を選んだ。
弟に家督を譲り、これまで親しかった全員からの罵声を受けながら、たった一人で非魔術士の世界へと足を踏み入れたのだ。
「デュークが最後に姉さんに会ったのはいつだったんだ?」
「お前と同じだよ。伝手で手に入れた偽造パスポートを渡して、それきりだ」
魔術学院卒業後、アルセスとはちょこちょこと連絡を取り合っていたところに、かつての憧れの女性が俺の表向きの職場に飛び込んできたのは、二年前のことだ。
彼女曰く、予定していた逃走ルートが使えなくなったから協力してほしい、とのことだった。
迷いが全くなかったと言えば嘘になるが、ほとんど関わりのない中級魔術師家どもに恨まれるかもしれないリスクよりも、昔の思い出を美しいままにしておくことの方が優っただけの話だ。
別れ際、なにかあった時のために互いの連絡先は交換していたが、とうとう一度も使うことはなかった。
その方が、魔術士でなくなった代わりに自分の足で歩いていけるアリナにとって良いことだと思ったからだ。
「それで、アリナはどうして亡くなったんだ?まさか、魔術師の仕業じゃないよな?」
本家の力が落ちれば、分家にも影響が及ぶ。
アリナが家を出たことで不利益を被ったものは数知れない。
アリナが死んだとなれば、まずは分家か雇われ魔術師の仕業と考えるのが筋だろう。
だが、アルセスは大きく首を振って否定した。
「分家の中に、姉さんを恨んでいる奴は一人もいないはずだ。姉さんへの支持は絶大なものがあったし、家を出た時も分家が追手を出した痕跡は全くなかった。姉さんを狙ったのは、これまで敵対してきた魔術師家の仕業だ」
「じゃあ、なんで……」
「事故死だよ。トラックに轢かれて、頭を強く打ったらしい」
「……ありふれた死に方だ。魔術師だったら簡単に防げたくらいのな」
たった二年。
それが、万能に近い力を行使できる魔術師を辞めてまで手に入れた、アリナの第二の人生の時間だ。
魔術を失い、家族と別れ、故郷すら捨ててまで、得られたものは自分の足だけ。
魔術師である以上、神の悪戯なんか信じちゃいないが、今回ばかりは恨み言の一つでも言ってやりたい気になった。
なんだったら、邪教の一つでも立ち上げてやろうか?
だが、
「デューク、この二年、姉さんがどんな仕事をしていたか、知ってるか?」
「知るわけないだろ。二年前に別れてきりって言っただろうが」
「保育士をやってたそうだ。ご丁寧に、家を出る前にこっそり資格を取ってたそうだ」
「アリナが、保育士?」
「保護者からも人気だったらしい。最近じゃ、一クラス任せられるくらいになったんだって、姉さんの同僚から聞いた」
「意外だな。学院時代は氷の女王とか呼ばれて、特に初等部からは恐れられてたっていうのに」
「好きだからこそ厳しくなる、ってことはよくあるだろう。特に、何かと死にやすい魔術師の卵相手ならな」
「……そうだな」
「その日も、保育園の子供たちを連れて散歩に出てたそうだ。いつもと違ったのは、ブレーキが故障したトラックが散歩コースに突っ込んできたのと、最後尾を歩いてた姉さんの目の前で子供が一人転んでしまったことだ」
「まさか……」
「その子を抱きかかえて、一番近くにいた同僚に投げてよこしたところで、トラックに轢かれた。不幸中の幸いは、ほぼ即死で苦しまずに逝けたことくらいかな」
「……アリナは、生きたんだな」
片思いしておいてこんなことを言うのもなんだが、魔術師時代のアリナは表向きは完璧超人を装ってはいたが、そう演じてるだけじゃないかと思うことが時々あった。
それが、アリナの彼氏の座を狙う有象無象と比べて、弟の友人というアドバンテージを持っていた俺の密かな自慢でもあったんだが、だからこそ必要以上に踏み込めない理由にもなっていた。
そんな彼女が、自分の命を犠牲にしてまで他人を助けた。
それはきっと、強大な魔術師だった頃には決してなしえなかった、勇気ある行動なんだろう。
魔術を失ったからこそ、アリナはこの二年を全力で生きて、自分の生き方を変えられたんだ。
「じゃあ、もう行くよ」
「なんだ、もう帰るのか?」
「言っただろう、分家が反乱を起こしそうだって。次は家に戻って、三日後に来る大叔母の接待の準備だ」
「大変だな、魔術師の大家ってのも」
「姉さんから託されたからな、せいぜい、必死で守って見せるさ」
そう言い残して、アルセスは通りの雑踏に消えていった。
その間、振り返りもしなかった。
「……あの野郎、コーヒー代置いていかなかったな」
まあいい、あの様子じゃ懐具合もかつかつそうだから、このくらいはおごってやるか。
そう自分に言い聞かせて、すっかり冷めてしまったコーヒーをいつもの習慣で温め直そうと、詠唱しようとした口を閉じた。
今日くらいは、アリナの流儀に従って、冷めたコーヒーを味わうことにした。