生きている限り。自分が自分である限り。
——普通に無理だったので、少し歩きにきた。
「思ったより長居しちゃったかな」
ナイフを仕舞いこんで、反省する。
大量の獲物を目の前に、しばし時間の感覚を忘れてしまった。おかげで背嚢に槌を仕舞えないくらいパンパンになったのだ。ホクホクだ。
ま、これで明日の食事代と宿代くらいにはなっただろう。俺のその日暮らし人生の先行きは明るい。……明るすぎて泣きたい。
道に戻って、第二広場を目指す。ほどなくして、入り口が見えてきた。
「…………あれ?」
広場に入った俺が見たのは、ぽつんと置かれた素材用の背嚢。
それを枕にしていた少女——リズの姿がどこにもない。
「……リズ?」
辺りを見回す。闇に囲まれた空間に、人の気配はない。
「……リズ! いないのかー……?」
呼びかけながら、まさか、と思う。
……まさか、一人で奥に行ったんじゃないだろうか。
「くそ……! マジでか……!?」
地面に置かれた背嚢に手を当てる。が、熱が残っているかどうかは判別できない。
「リズー! 聞こえたら返事してくれ!」
第二広場の出口に走る。躊躇している余裕もなく、俺は闇の中に飛び出した。
やっぱり、目を離すべきじゃなかった……! 命すら鑑みないような行為に出ることは、球型船の中ですでに分かってたはずなのに……!
索敵している余裕がない。一心不乱に駆け抜ける。
「————っと!」
風を切るような音が不意に聞こえ、俺の足元に何かが突き刺さった。どうやらなんらかの“ 導き手”が近くにいるらしいが、そうであればむしろ構っている暇はない。身をかがめて、俺は走り続けた。
……そして。
「リズ…………!」
ローブを纏ったリズの背中が見えて、俺は思わず安堵に息を吐いた。
どうやら最悪の事態は逃れることができたようだ。そう思ったからだ。
「良かった、無事だったか!」
「…………」
「とにかく、話は後な。はやく——」
戻ろう、と言おうとした。
そこまで言いかけて、俺はようやくそれに気がついた。
「…………ぁぅう……っ」
「!? ————リズ!?」
リズが崩れ落ちて、俺は慌てて抱きとめる。
苦しげな表情。浅い呼吸。咳き込むと、ますます苦しそうに口元を歪め、血が流れ出す。
「えっ……」
俺は、絶句した。
リズの身体は、深々となにかが突き刺さっていたからだ。見れば、周りの地面にも同じようなものが確認できる。
——それは、硬い槍のようなものだった。
「まさか、“凶花”が……!」
気がついて、リズを抱えて走りだす。さっき俺に飛んできた“ 何か”は、リズを狙って逸れた“ 凶花”の攻撃だったのか!
理解が及んだ瞬間、どこかからギュンッと風切り音が聞こえてきた。
衝撃。
直後、背中の一部が炙られたように熱くなる。
「いっ…………ってぇぇぇええッ」
苛立ちに似た強烈な痛みに身体が支配される。
痛い、痛い痛い痛い痛い!!
涙で景色が滲んで、足が止まりかける。なんとか力を入れる。
早く、刺さった槍を抜かないと……ッ!
反射的に背中に手を回そうとして、リズを取り落としかけた。一瞬、彼女の存在は頭から抜けていた。
「リズ……!」
「ぅっ……はぁっ、はっ——」
少女は目をぎゅっと閉じ、息苦しそうにしている。
無限に近い体感時間。熱と痛みが交互に押し寄せる中、なんのために走っているのかすら分からなくなっている。腕と肩にかかる重みがとにかく鬱陶しくて、何度か捨てようとして、正気に戻るを繰り返した。
「ふぅッ、——うぅッ! が、はあッ、はあッ…………ッ!」
間一髪。
朦朧としだした意識を手放す前に、俺は第二広場に駆け込むことができていた。
もはや、息が切れているのが痛みのせいなのか走ったからなのかも分からない。熱さと痛さの他にとにかく不快なじくじくとした痛痒さが神経を刺激する。
投げるように地面に転がしたリズに這って近づく。動くたびに筋肉が突き刺さった槍に悲鳴を上げ、目の前が白くなる。
だが、一刻も早く彼女の治療をしなければいけない。
「がぁ…………ッ! リズ……!」
仰向けに目を閉じたリズの息があることを確認する。息がある。生きている。治療しなければならない。
だが。
ああ、そうだった。
治療するということは、額に汗でべったりと張り付いた髪が、ローブに染みを作る血が、そのすべての苦しみが——
これから、自分のものになる、ということだ。
「ぐ、ぅぅぅぅううう…………ッッ」
歯を喰いしばって、恐怖を押し殺す。そのまま、背中に手を回した。すでに傷口を塞ごうと寄せ集まった肉が、突き刺さった槍に癒着し始めているのが感触で分かる。
恐怖で腕が萎える前に、ぐ、と力を入れる。
「はッ……はあッ————」
突起を掴んで引きぬいた瞬間、火花が舞った。一瞬トンだ。すぐに戻った、たぶん、一瞬のはずだ。力を入れすぎた奥歯から血が流れて気持ち悪い。自分が叫んだかどうかも不明だ。舌を噛まないようになにか咥えるのを失念していたことを、呑気に思い出していた。
暴れ回りたい衝動を押さえつけたまま、右手で引っ掴んだ槍を見る。黒い茎のような槍には、赤と白が混じったものが付着していた。
「気絶…………しなかった……ぞ!」
どうにか強気に笑ってみせる。そうしないと、もうこの先のことは出来そうになかった。
ポタポタと、鼻先を伝って汗と涙が地面に落ちる。
「ふ、うぅぅ…………っ!」
襲ってきたのは、追加の感覚。
俺の背中はもう、再生を始めているはずだ。その痒みが這っている。背中の肉の中に蛆が這っているようだ。痒くて痒くて痒くていっそ殺して欲しい。それを感じる脳みそを潰して欲しい。それが叶わないならせめて背中という部位を切り落として欲しい。そしてそれを食ってこの飢餓感を抑えるのだ。
糖分が足りない。身体が小刻みに震え始めていた。俺の持つ、超再生の代償。ひたすら寒い。真冬に放り込まれたみたいだ。
「リズ…………」
救うべき名を呼ぶと狂い始めていた気が、正気に近づいた。
……やばい。これはまずい。過去最大にまずい。ユイを助けた時だってこんなことにはならなかった。あの時はすぐに気を失ったからだ。
痛みと寒さに耐えながらシャツを脱いで、ナイフで切り裂く。リズの小さな口に詰まらぬよう押しこむ。
これから、リズの身体から三本の極太槍を抜く——そのための猿ぐつわだった。
ぶるぶる手でどうにか槍を握りしめて、全力で持ち上げた。
「ぁっ…………ぅぅぅッ!」
目が開いたかと思えば眼球がぐるりと回る。
引きぬいた際の痛みがリズを強制覚醒させ、またすぐに気を失ったのだろう。見るだけで痛々しい。ひどく非人道的な行為をしている気分に襲われる。
傷口からせき止められていたかのように、いっそう血が流れ出す。リズの呼吸がだんだん弱くなっていく。
早くしないといけなかった。
それでも俺が出来無かったのは、痛いのは嫌だと叫ぶ本能のせいだ。
「嫌だ……いやだ…………ッ」
俺は泣き呻きながら、心底嫌だと叫びながら、死にかけの少女を見る。苦痛に犯され、生命を終えようとしている彼女を見る。
このまま死んでしまう。分かっている。
それでも、俺は、
「嫌だ…………!!」
その痛みを引き受けるのが嫌で嫌で、どうしようもなかったのだ。
いつもなら、俺はここまで嫌がることなく治療にとりかかっていただろう。
だけど、今は既にその耐え難い苦痛を感じているのだ。
だから怖い。
怖くて痛くて、こんな痛みを——彼女の苦痛を引き受けたくない。
俺は精一杯やった。ここまで運んだし、これだけ頑張ったし、そもそもどうしてこんな見ず知らずの、言葉数の少ない怪しい少女を助けなきゃいけなかったんだ。ここまで連れてきただけでも充分だろう、勝手に移動したのはこいつだ。そのせいで俺はこんな苦しくて痛くて死にたい思いをしてるんだ。助ける必要がないわけじゃない。俺にはその力があるし、でもその力の代償は大きくて、痛くて、もう俺は一歩だって動きたくないし、その言葉も唱えたくない。
なのに。
俺は、いつも、どうしていつも、こんなことをしてるんだっけ……。
「…………?」
顔を上げる。
——目の前に、誰かの足が立っていた。
「あ…………?」
もちろん、それは幻覚だ。
過剰な脳内物質が走馬灯の代わりに流した映像。現実と重なった幻覚。
その幻覚は、よく知った女性の形をしていた。
短い赤髪。柔らかい眼差し。
顔はよく見えないくせに、なぜだか微笑んでいる気がした。
その女性は、俺の目の前で横たわるリズの顔を撫でる。これから彼女自身に起きることを知りつつ、女性は笑う。
——大丈夫。
私がこれから助けてやるよ、と。
「——メイ」
自分の声で、朦朧としていた意識の霧が晴れた。幻影も消えた。
流れる涙になにか感傷のようなものが混じったような気がした。乱暴に目をこする。
「……そうだった。……なに忘れてんだ、バカ」
残ったのは、ただひとつの決意。
痛みと恐怖の前で俺が押しのけようとしていた、ただひとつの生きがい。
「…………」
リズの冷たい手を握る。朦朧とした意識があるのか、彼女は僅かな力で握り返してきた。
「————」
ようやく、俺は正気を取り戻せた。
「待たせたな、リズ。すまん。いま、助ける」
きちんと笑えたかどうかは、どうにも自信がない。
けれど、“治療”に必要な言葉は、はっきりと口に出すことができる。
だって、俺は、
『そうしなきゃ、いけないから』
記憶の中のリズの声が重なる。
息を吸う。
「——“楓咲き”」
瞬間。
俺の身体に三つの穴が空き、痛みが、耐えられない痛みが、不快が気持ち悪さが震えが寒気が嘔吐感が、痺れと怒りと窒息感が——ああ——
ぶつ、とノイズを残して、景色が消えた。