出発!
「それじゃ、またよろしくな」
「うーい、しゃっしゃっしゃーす」
「なんて?」
メリィはおざなりに運転席から手を振ると、球型船のエンジンを駆動させた。一瞬だけ轟音が聞こえたが、すぐに静かになる。
上昇した球型船は、ある程度の高度に達すると唐突にその姿を消す。迷宮の外——現実に出たのだ。
……迷宮は、切り離されたもう一つの現実とも言える。
ある日突如地上に現れ、街も、人も……なにもかもを消し去る黒い“ 歪み”。
その厄災ともいえる存在の内部に広がる空間を「迷宮」と人は呼んでいるが、別に迷路になっているわけじゃない。不可解で危険な空間、というニュアンスでそう呼ばれているだけだ。
ここ、オルド迷宮の内部は森から始まる。ゆえにそのまま、“森林地帯”とか“始まりの場所”とか呼ばれている。
黒い“ 歪み”の中に入ると、どの部分から突っ込もうがここに出るのだ。不思議といえば不思議だが、迷宮ってそんなもんだ。
地面があり、木々があり、空がある。この辺りはまだ迷宮然としてるわけじゃなく、本当にただ森林の中といった風情。
だが、ここは森林ではない。それを忘れてはいけない。
迷宮には、我らに徒なす敵……“導き手”がいる。
「……さて。あと五時間弱、ね」
広大な広場。傷だらけの懐中時計の針を、星明かりを頼りに見る。
メリィには、一時前に迎えに来るようにあらかじめ言っておいた。それ以降は深夜料金になって高くつくので避けたい。
「つーことであんま時間がないんだけど、えーっと……」
そういえば、名前を知らないことに気がついた。未だフードを被ったままの少女に一歩近づく。
少女は船を降りてから、無言だった。表情はフードに隠れているし、不安なのかどうかすらうかがい知ることができない。
とは言え、このままでいいわけもない。いくら危険が少ないからと言っても、迷宮は迷宮だ。ツーマンセルを組むならコミュニケーションはきちんとやっておく必要がある。
「とりあえず、名前教えてくれるか」
「——リズ。……リズ・ベラン」
訊くと、案外あっさりと少女は名乗った。怯えられているわけじゃないようで一安心。
「んじゃ、リズって呼ばせてもらうけど、いいか?」
「うん」
ためらないなくリズは頷いた。よしよし、いい感じにコミュニケートできてるな。
「あー、さっきはごめんな。怪我してない?」
「……いい。してない」
リズは少し考えて、
「——わたしが、悪かったから」
よく言えました、と褒めてやりたいくらいの絞り出し方だった。
「ま、そうだな。医療術士の前で自殺とか、反骨主義すぎるから控えてくれ」
「めでぃっく……?」
「あー。地上で言う医者だな。治療はできるけど、過度な期待はしない方がいいぞ」
分かったのか分かってないのか、リズは「メディック」と呟いて、
「覚えた」
「流石だな。なかなかできることじゃないぞ」
「それほどでもない」
適当な返しに大真面目に答えられてしまった。
「で、リズはなにを探してるんだ?」
「…………」
上目。質問の意味を図りかねてる感じ。
「探してるものがあるんじゃないのか?」
「…………取らない?」
「取らない取らない」脱力しかける。教えたら俺に取られる心配をしてるらしい。「俺って、そんな強欲な顔してるか?」
「…………」
「そこは無言じゃなくて否定して欲しかったかな!」
「ホルトリープ」
名詞をぶつけてくる。やっぱり不器用なしゃべり方だ。あと、結局否定はしてくれないらしい。
「って、なんだ。ホルトリープ草?」
「……知ってるの?」
「いやそんな警戒されても。つか、迷宮にそこら中に生えてるやつだろ? ほら、そこにも生えてんじゃん」
指したのは、地面に生えたほとんど雑草みたいな草だ。
緑色の花を咲かせ、これまた緑色の実をつける。まさに、現実に生えてるホルト草の迷宮版といったところか。
「……これじゃない」
「だよねえ」
こんなもの、薬草屋で一束五十エンで買える。魔術刻印のインク、低級燃料、照準補助剤……需要はあるが、それ以上に供給がある。定期的にホルト草刈りがクエストとして行われるからだ。
油を大量に含んでるから、あまり野放しにすると火の海を作り出す原因になるらしい。
「じゃあ、何かべつのものをホルトリープって言ってるのか?」
問い尋ねたが、なにやら言いにくそうにもじもじしている。
「ん? なに? トイレ?」
「……ちがう」
違うらしい。じゃあなによ?
フードの奥の顔を覗き込もうとしたが、褐色の少女はそれより深くうなだれてしまった。
というか、それはお辞儀だった。
「……あ……、ありが、とう」
「はい?」
急に礼を言われた。え、なにゆえ?
その上、リズは背を向けて歩き出し始めてしまった。
「ま、待て待て待て! わけわからん! どこ行くつもりだ!?」
「……?」
質問の意味が分からない、と首を傾げてみせて、
「ホルトリープを探しに行く」
「……もしかして、一人でか?」
「うん」
それ以外になにか、と言わんばかりの表情。
「いやいや、俺も行くって」
「…………」
リズは立ち止まって、半分振り返った。その目には戸惑いがある。
「どうして?」
「え?」
「どうして、そこまでしてくれるの?」
「どうしてって……」
「あなたは、私を見逃してくれた。それで充分。……なのに、どうして?」
「それは……」
たしかに、そうかもしれない。なにか裏があると勘ぐられてもしかたがないだろう。
再び警戒の色を浮かべた目を見返して、一呼吸。
「まあ、医療術士……だからかな」
「…………?」
「ついおせっかいを焼きたくなる職業なんだ」
「そう、なの?」
リズは首を傾げた。怪しさを倍増させてしまったかもしれない。
彼女は顔を上げて、かと思えば迷うように目を伏せて。
それから、フードの奥の目を向けた。
「…………あの」
「ん?」
「名前、教えて」
一世一代の告白みたいな調子で、リズはそう言った。
「あ、そっか」
そういえばまだ名乗ってなかった。相手には名乗らせておいて酷い奴だ。
「ジン・リース。まあ、だいたいの人は普通にジンって呼ぶかな」
「……ジン」
唇を慣らすように、リズは呼んだ。
「そうそう。じゃ、改めてよろしく、リズ」
「ジン」
「うん?」
リズは差し出された手をじっと見てから、
「ありがとう」
と、変わらず無表情だが……少し恥ずかしそうに言った。