どこにいても、何度でも。
――目が覚める。
ふらふらとベッドから起き上がり、鏡を求めて洗面台へと向かう。
私は。私? 俺は……俺?
誰だ?
そこに映った、髭の伸びた男の顔を見て、さきほどまでマイアという少女だった自分が消えて、ジン・リースが戻ってくる。
あれは……なんだったんだ?
人の記憶が、人格が流れ込んでくる……というか、同期するというか。
なんにせよ、初めての体験だった。
……あれから、何日が過ぎた?
下宿の中に人の気配はない。
アレクセイも、ジルじいさんも、トリーネちゃんも、それにユイも……。聞こえるのは、いつものような外の喧噪だけだ。
二階に上がる。
あの人だけは、ここにいるはずだ。
「……どうぞ」
思った通り、リズの部屋をノックすると声が返ってきた。
立ったままノートを読んでいるその人は、もうどこにも異常はないようだった。
「……どうやら、助けられたようだね」
「あれから、どれくらい経ったんです?」
訊くと、彼女は頭をゆるゆると振った。
「私も、さきほど目覚めたばかりでね」
「……あなたが、リズの記憶を消したんですね。マイアさん」
その名を呼ぶと、彼女の目が大きく開かれた。
「私の名前を……それに、なぜそのことを……。……“読んだ”、のか?」
さあ、と肩を竦める。実際、自分でもそんなことができるなんて知らなかった。
「……不思議な能力だな。やっぱりそれは、錬金術に近いよ。今度から錬金術師を名乗るといい」
そう言いながら、マイアはなにかを考えこんでいる。
俺は何度か大きくゆっくり息を吸って、平常心を保ちながら訊く。
「錬金術師……。リズや、あなたや……あなたのお姉さんと同じように、ですか」
「姉……?」
思いのほか子どもっぽい表情で、首を傾げる。
……カマをかけてみたが、やはりそうか。
落胆は、予想していたよりは小さかった。
「……知らないんですね。あり得るとしたら生き別れの姉とかかと思ったんですけど」
「……私の出自は少し複雑でね。どうやら、そこは読まなかったらしいな。いや、読めなかった、のか。……しかし、どうやらキミと私は奇妙な縁があるようだ」
「……よく分かりません」
「だろうな。ともかく、私はその女性のことを知らないよ。直接はね」
ノートを片手でぱたんと閉じると、マイアは俺をじっと見た。
俺もその目を見返す。
「……私は、後悔していない」
怒るべき場面だったかもしれない。
でも俺は、さっきまでマイアだったのだ。
……あの恐怖、絶望は筆舌に尽くしがたい。だから、心に湧き上がるのは、純粋な同情心だ。
俺が……この人が、リズの才覚を知ったときに抱いた希望は、考えは……。
人道に反するからといって捨てるには――あまりにも、あまりにも。
それでも。
「それでも」
マイアは、俺の心と同じ言葉を紡ぐ。
だから、続きは俺が引き継いだ。
「それでも、リズを救いたい」
「…………」
マイアは肯定するように目をそらし、ノートの表紙を撫でた。
……それは、本当に愛おしそうな手つきだった。
それから、ふと少し笑んで、俺に差し出てくる。
「読むといい」
「え……」
はじめてそれを目にしてしまったときの恐怖が蘇る。
でも同時に、大丈夫だ、という感覚もある。
さっきまで俺はマイアで、錬金術師だったのだから。
「…………」
マイアが部屋から出て行ってから、意を決して中を開く。
***
奔流するそれは――、
それは、リズの言葉で。
感情で、記憶だった。
初めて街に来たときのこと。
人混みが怖かったこと。
夜更けをうろうろしていたら、ジルさんの下宿を借りることができたこと。
夜が怖いということ。
どこにいても、居場所がない気がすること。
……ひとりがさみしいということ。
誰に話しかけることもできなくて、こっそり球形船に潜り込んだこと。
ジンに、出会ったこと。
ユイに会えたこと。
みんなと出会えたこと。
大好きだということ。
ありがとうと、ずっと思っていること。
***
「……理論はできてるの。だけど、なにが起きてもおかしくない」
「もしかしたら……また、記憶をなくすのかもしれない」
「……もう、戻ってこれないかもしれない」
「でも、わたしは」
「それでも、わたしは――」
「わたしはまた、ここに帰ってきたい」
「ユイに会いたい」
「ジンに……会いたいの」
――“フードと煙草と錬金術”がわたしの居場所だって、
三人で過ごす時間が、大切なものだって。
思い出したいの。
何度でも。
どこにいても。




