1通目 「名も顔も知らない貴女へ」
氷の王太子が名前も顔も知らない令嬢に出した『手紙』が原因で起きた、とある国の歴史に残る大騒ぎ。
「王太后様、こちらでしたか。」
振り返るとそこには目尻を赤く染めた国王がいた。
私を気遣う表情に、やはりあの人の息子だと実感してしまうと視界がぼやける。
王族に嫁いできた者として、感情に囚われることは許れないのに。
長い年月、一度も揺るがなかった感情の防波堤が崩れそうになったことに少しだけ慌てたとき――。
「今夜くらい、お義父様を亡くした哀しみに浸っても良いのではありませんか?」
そう言ったのはこの国の王妃。
私の次にこの国の王の伴侶になった者。
我が息子ながらよい嫁を貰ったと思う。
「そうかしら」
「そうですよ、お婆様」
義娘の王妃の隣で、無理やり笑顔を浮かべるのは孫娘のトリシャ。
『お爺様』と、あの人を慕っていた孫娘。
その愛情は一方的なものではなく、「トリシャの花婿を見極めるまで死ねない」と病床でも笑っていたあの人を思い出す。
そのトリシャが手に持っている、シンプルだけど精巧に作られた木箱が記憶の琴線にふれる。
どこかで見た覚えがあると思ったとき――。
「トリシャ、その箱は何だ?」
私の息子で、トリシャの父親である国王が問いかける。
「お爺様に頼まれたの。自分が死んだ後に、お婆様に渡して欲しいって」
そう言って渡された木箱。
トリシャを見ると、『開けてみて』と圧を寄越す少女らしい好奇心に苦笑する。
あの人が最後に残した贈り物。
笑っていいのか。
悲しんでいいのか。
複雑な感情のまま木箱を開けた。
「これは……」
中から出てきたのは、青白い石の付いた金色のブレスレットと飾り気のない白い封筒。
そして古ぼけた麻の袋。
あの人、これをまだ持っていたのね。
私は立ち上がると寝室に向かう。
ベッドの脇にあるサイドテーブルの引き出しの魔石に手を当てる。
私の魔力が鍵になっている引き出し。
中に入っているのは全体的に黄ばんだ古い手紙。
「それは?」
私が手に取った手紙にトリシャが疑問を投げかける。
家族そろってなんとなく寝室までついてきたらしい。
「お爺様からの恋文……と言いたいですけど実際は“挑戦状”ね」
脆くなった紙が破けないよう注意しながら封筒を開ける。
虫よけの香のにおい。
こんな手間をかけて保存していた手紙。
私もあの人のことを笑えないなと、口の端がふるりと震えた。
「いまとなっては、かなり昔の話なのだけど――」
***
それは半世紀ほど前の話。
この国の社交界に王太子が出した手紙「名も顔も知らない貴女へ」が旋風を巻き起こした。
話の前に、王太子について説明しておこう。
彼は濡れ羽色の髪に王家独特の金色の瞳をした美丈夫だが、怜悧な表情を崩さないことから『氷の王太子』と言われていた。
頭脳明晰で、王宮騎士団の魔法師団長も翳るほど才能豊かな魔法使い。
次期騎士団長と名高い幼馴染と互角の剣の腕も立った男。
そんな彼はいわゆるチートで、フランシーヌは「反則みたいな人」と思っていた。
フランシーヌのような女性は極々少数。
多くの令嬢は王太子が話題として出るだけで「素敵よね♡」「素敵ですわよね♡」と“素敵”以外の語彙を失う、彼は御令嬢たちにとって理想的な王子様だった。
そんな王太子からの手紙。
「名も顔も知らない貴女へ」と恋文めいた手紙。
それは社交界に落ちた爆弾だった。
そもそも爆弾投下の原因は、25歳になっても婚約者すら決めない王太子にしびれを切らした父王が「貴族女性なら文句言わないから誰かと結婚してくれ。」と言ったことだった。
背に腹は代えられぬ風の父王に対し、王太子は全くもって申し訳なさそうな態度も見せず、「本当に本当ですね。」と3回ほど念を押し、御前会議で承認をとって書面にまで残してようやく重過ぎる腰を上げて宣言した。
― 私の“願い”を叶えた者を妻にする。 ―
王太子の宣言に年齢の合う貴族の御令嬢とその家族たちは奮い立った。
しかし、王太子と言えば社交もそつなくこなすが好みや執着といったものを一切周囲に見せない男で、令嬢たちは伝手を辿って王太子の乳母や実母である王妃に『王太子の好きな物』を訊ねたが、彼女たちの答えは「さあ…何かしら?」と全くあてにならなかった。
結局、多くの者が『王太子は〇〇が好きなようだ。』という噂に盛大に踊ることとなる。
ある伯爵家は「王太子がこの画家の絵を買ったらしい。」という噂をもとに、その新人画家の絵を買い占めた。
ある侯爵家は「王太子は東方の村の特産物の絹織物を気に入っているらしい。」と聞き、王太子妃にと教育してきた自慢の娘に、絹織物は結構値が張ったが、費用を惜しまずドレスを数着仕立てさせた。
“らしい”という実に不確かな情報に貴族たちが奔走してしばらく経ったあと、王太子が全ての貴族令嬢にあてて手紙を出した。
飾り気のない白い無地の封筒の宛名には、王太子の直筆で書かれた「名も顔も知らない貴女へ」。
ロマンスの始まりを予感させる封筒に胸を高鳴らせ、頬を赤く染めたご令嬢たちがそれぞれの家で封筒を開いて中から紙を取り出せば、
「何これ?」
そこに書かれていた“もの”に多くの者が首を傾げたが、これが解ければ王太子妃になれるとあって彼らは諦めなかった。
アカデミーにいる学者を訊ねて回ったり、外国の知識が豊富な外務官たちを問い詰めたり、あれやこれやの手段を用いたが―――結局は解らないままだった。
***
「私も母から聞いたことがあります…こんな手紙だったのですね。確かに見たことのない…文字?それとも模様なのかしら…あなた、分かりますか?」
「私も分からないな…王太子教育の一環でいろいろな言葉を学んだが、これに似た字も思い浮かばない。」
息子夫婦が古ぼけた手紙を覗き込んで首を傾げる姿に当時を思い出してふふふと笑いがこみあげる。
するとトリシャの隣に座っていた孫息子、今日新たに王太子となったフォルテが私ににこりと笑いかける。
あの人の若い頃によく似ていると評判のフォルテだけれど、あの人のように捻くれていなくて、フォルテはとても素直で素敵な子だ。
─ フラン。おい、フランシーヌ。 ─
からかう様に、それでも優しいあの人の声がもうすでに懐かしい。
***
王太子の誕生日を祝う夜会が開かれる前の日の夜、フランシーヌはとても疲れていた。
屋敷に帰る馬車の中で何度も寝落ちしかけて、窓枠に頭を打ったり、車輪が石を踏んだことで揺れた車内で椅子から落ちたり、屋敷に着いたときにはボロボロの状態だった。
フランシーヌは貴族令嬢の変わり種だった。
この国の筆頭貴族であるレーベン公爵家の三女で末っ子という大層可愛がられる立場にありながら、この国でも有数な『過酷な労働環境』に身を置いていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。5日ぶりでございますね。」
「ふふふ、魔法薬の注文がこれでもかってくらい来てしまって。初級の回復薬くらいなら半分寝てても作れるようになったの、先輩に『一人前の魔法薬師になったな。』って疲労回復薬でお祝いしてもらっちゃったわ。」
フランシーヌが淑やかな見た目とおっとりした話し方に見合わない、実に逞しい内容にフランシーヌを出迎えた執事が溜め息を吐く。
公爵家はすでに十分権力があり、公爵本人の性格からこれ以上の権力は望まなかったため、『他人の迷惑にならなければ自由に生きる道を決めなさい。』の教育方針で四男三女、七人の子どもを育て上げた。
彼らはみな自由に、魔法使いになったり学者になったり外務官になったり…自由にした結果とても立派に成長し国に貢献。
その結果、公爵家は更に発展するという謎展開…やはりこの家は面白いと執事などは常々思っていた。
そしてレーベン公爵家の末っ子、フランシーヌは魔法薬師になった。
これには両親や兄姉も驚いた。
家訓となっている教育方針に抵触するのでフランシーヌの選択に反対はしなかったが、全員が全員『なぜ(よりにもよって)魔法薬師なんだ?』とフランシーヌに尋ねた。
魔法薬師とは、薬効のある植物と魔法を組み合わせた『魔法薬』を作る職人である。
魔法薬とは治療に用いられるのはもちろん、そのほか美容や健康面など様々な目的によってポンポン服用されるこの国の全ての民の必需品だった。
しかし魔法薬は需要がめちゃくちゃ高いのに対して、それを作る魔法薬師の数はとても少ない。
理由は簡単、魔力があるなら魔法使いになって華々しく活躍したいという者が多いからだ。
塔の中に閉じ籠り、日々薬草を煮出す鍋に向かって魔力を注ぐなど、未来ある若者の目には地味な仕事としか映らなかった。
そのため魔法薬製造事業は常に人手不足、王族の親類ゆえに魔力量の多いフランシーヌは魔法薬師として重宝…と表現できるかどうか微妙な具合で酷使されていた。
疲れ切って幽鬼のような足取りで浴室に行き、寝て溺れることないように侍女が傍に控えた状態で湯浴みをしたフランシーヌは寝台に飛び込み、ふかふかな布団の陽の香りに包まれながら寝ようとしたとき、
「お嬢様、明日の王太子様への贈り物は用意なさったのですよね?」
「…あ。」
『忘れてた。』と言う顔をするフランシーヌ。
質問した侍女は真っ青になり、控えていた他の侍女を執事の元に走らせた。
夜中ではあったが夜会は明日。
多くの家がその権勢を誇るかのように立派なもの、つまり入手が難しい希少性の高いものを用意したと噂されている。
ここで公爵家の令嬢(唯一未婚)にお粗末な物しか持っていけなかったら公爵家の名誉が…と表面上冷静を保ちつつ執事がパニック状態に陥っていると、
「王太子殿下に失礼のないものなら何でも良いんじゃないか?フランお手製の疲労回復薬にリボンつけたやつとか、意外とそっちの方が喜ばれそうだし。」
主人である公爵の言葉に『どこの子どもの誕生日会ですか!?』と執事は声を荒げたくなったが、王太子と言えば優秀がゆえに四六時中ろくに休みを取らず働かされている御方―――『それもありか。』と納得してしまった執事も十分にレーベン公爵家の関係者である。
「疲労回復薬なら直ぐに作れますが…そういえば、王宮に何人もの御令嬢が『王太子様の願い。』を訊ねに来られていたけれど、願いが書かれた手紙を未だ見てなかったわ。」
「フラン…王太子殿下の嫁になれとは思っていないけれど、巷では王太子殿下のプロポーズとまで言われている手紙くらいは読んどいた方が良いんじゃないかな…明日のためにも。」
王族や高位貴族の血が良い感じに現れたフランシーヌは美しく、月夜に映える銀色の髪と白い肌から『月下の佳人』という二つ名持ちだ。
その白い肌が常に塔に籠って研究三昧にあけくれる魔法薬バカ、男性に一切目もくれず「魔法薬ほど素晴らしいものはない。」と言ってライラック色の瞳を蕩かせる末っ子に父公爵は溜息を漏らす。
王宮内では25歳になる王太子が未婚なことを問題視しているが、フランシーヌは20歳…この国の貴族令嬢とすれば十分に『いき遅れ』に相当する。
しかし「自由に生きる道を探せ」教育論から見れば“結婚”も自由とするべきというフランシーヌの主張は納得のいくものだし、上の嫡男を除く五人はすでに婿だの嫁だの養子だのといって勝手気ままに家を去った―――ここで末っ子にも嫁に行かれたら父親は寂しかった。
「あら、『名も顔も知らない貴女へ』なんて歌劇の題名のようじゃなくって?」
ふふふと鈴の鳴る様なフランシーヌの笑い声に、その細く長い指が封筒を開ける音が重なる。
公爵自身も王太子の手紙を見たが、文字と言われれば文字かな?と言えるくらいの文様に首を傾げた一人である。
おっとりしつつも愚かではなく、それどころか周囲が思い浮かばない魔法薬を考え、それを完成させるために数多の文献を読んで知識豊富な娘の反応を楽しみにしていた公爵は、フランシーヌを見た瞬間、驚きに固まった。
「フラン―――なぜ、泣いているのだ?」
おっとりしていて滅多に泣かないことで定評があるフランシーヌは、開いた手紙の上にボタボタと大粒の涙を落としながら泣いていた。
***
まさかあの人も『日本』の記憶があったなんてね。
黄ばんだ古い紙を傷つけないように気をつけながら、今では曇ったガラスの向こうにあるような記憶の中で使っていた文字、『アイスコーヒーを一緒に飲もう。』と書かれたあの人の文字をなぞる。
「お婆様は何て書いてあるか分かったのですよね?」
王太子妃になり、王妃になり、今は王太后となった私を見れば孫たちがそう言ってはしゃぐのは解るのだが、日本語のことは私とあの人との大事な秘密。
「実はね、私にも分からなかったの。」
「じゃあ、お婆様はお爺様に何を贈ったのですか?」
「コーヒー豆をプレゼントしたの。当時王都でようやく流通する程度の、取り扱う店舗がたった一つしかない南の国との交易品。コーヒーには眠気を抑える効果があるでしょ?だから“お互いに仕事を頑張りましょうね”って意味を込めてお爺様に贈ったのよ。」
あの日、久しぶりに見る日本の文字に触れ、同じ世界を知る者に出会えた感動もあり泣いてしまったのだが、泣いてスッキリした私は直ぐに行動した。
執事に朝一番で馬車の手配を頼み、興奮しながら護衛たちを気遣うことなく入店。
当時は『お試し』だったのか可愛い包装紙に少量ずつ個装された豆に目もくれず、可愛らしさの欠片もない実用性重視の麻袋を購入し、そこに大量の豆を入れてもらった。
異世界であるからか私の中の日本の記憶は随分ぼやけていたけれど、コーヒーが大好きだったことは何故か覚えていて、丁度暑かったあの季節、氷魔法が希少なこの世界では飲めると全く期待していなかったアイスコーヒーという文字に心が狂喜乱舞していた。
「お爺様はコーヒーがお好きでしたものね。」
「父上は、王族じゃなければカフェの店主にでもなっていたんじゃないかな。」
「じゃあ、この麻袋はコーヒー豆が入っていた思い出の品なんだね。」
あの人によく似たフォルテの言葉に私は貴族らしい微笑みを向けつつも、実はそんな期待できる『ロマンス』では無かったけれどと内心苦笑してしまったわ。
***
王太子の誕生日の夜、彼を祝うために集まった人々はいつも以上に華やかだった。
何しろ多くの令嬢が“王太子が好きらしい”で集めた宝飾品やドレスを身につけているのだ。
彩りに輝きは最高潮、目が忙しすぎて頭痛がしてきたフランシーヌだったが、
「今夜は王太子殿下の妃選びも兼ねているから仕方がなかろう。」
父の言葉にフランシーヌはハッと思い出した。
久しぶりの日本語と、何より愛飲していた『アイスコーヒー』を飲めるかもしれないことに浮かれていて、いまから妃が選ばれることをすっかり忘れていた。
アイスコーヒーだけもらって妃が辞退できれば理想的だが、大々的に公言した『妃の条件』を王太子自ら無かったことにするわけがないとフランシーヌは焦る。
ただ当時のフランシーヌは忘れていたが、王太子の文字は「読めるものがいない」状態のため、例えその者がまぐれで正解を持ってきても王太子が違うと言えば『間違い』、結局は王太子の心得次第の妃選びだったのである。
(―――そうよ、逃げてしまいましょう。)
逃げるが勝ち、とフランシーヌは父公爵に体調不良を訴えて退場しようとしたが、一歩遅かった。
「レーベン公爵令嬢。これより王太子様がいらっしゃいますので、贈り物を持ってお並び下さい。」
この国の貴族たちにとって爵位は重要なもので、その娘たちも爵位の高い方から順に上座から並ぶ。
フランシーヌは公爵家で貴族階級では一番上、その中で最も権勢が強い家なのでフランシーヌが最も上座に近い場所に立つことになるのだが、フランシーヌはいたたまれなかった。
まずは年齢、行き遅れているフランシーヌに対し、集まった御令嬢たちは学院等での縁もない一つ下の代なので、「何あの“おばさん”」的な目線にフランシーヌは小さくなった。
実際は学院で生ける伝説となって語り継がれている才媛、『月下の佳人』の異名をとるフランシーヌの美しさに見惚れて目を離せなかっただけだが。
次は持ってきた贈り物で、集まった御令嬢たちが持つ箱には、貴族御用達の高級宝飾店や貴族令息の流行発信地と言われる紳士服店の紋などがついていて錚々たるもの。
一方でフランシーヌが持つのは、庶民にとっては少し高級な店と言われる程度のカフェの紋で、貴族御令嬢は知らないのか「この人何を持ってますの」的な目線を浴びる手が痛かった。
(パッと渡して、礼をして、次の令嬢に場所を譲りましょう。)
よし、と気合を入れたところで王太子が入ってきた。
濡れ羽色の髪と、王家独特の金色の瞳に夜会会場の灯りがうつり、その神々しいまでの美しさに並んだ御令嬢たちからため息が漏れる…ただし、フランシーヌを除き。
「お誕生日おめでとうございます。」
やや強めの勢いでずいっと箱を差し出して、反射的に出てきた王太子の手にさっと乗せて、『御役御免』とばかりに一歩下がったフランシーヌに王太子は驚いた顔をフランシーヌに向ける。
一方でフランシーヌは『何でしょう?』的な素知らぬ笑顔で応えた。
怜悧な美丈夫とお儚げな美女が見つめ合う。
その絵面は幻想的で、フランシーヌと並んでいた令嬢たちも、王太子の側近と護衛たちも時が流れるのを忘れて見惚れていた。
先に動いたのは王太子だった。
王太子は無意識のうちに乗せられた箱に視線を落とし、箱に押された紋に目を見開くとマジマジと見つめ、次にフランシーヌに目を移すとまたマジマジと見つめる。
そしてにこりと美しく微笑み、
「“名も顔も知らない貴女”は貴女だったようですね、レーベン公爵家フランシーヌ嬢。」
滅多にどころか全然笑顔を見せない男の突然の笑顔に会場は騒然とし、間近で見てしまったフランシーヌの隣の令嬢はへなへなと頽れて気を失う。
それに慌てた側近たちが護衛の兵士たちに担架を持ってくるように命じたり、「いったん御令嬢方はお下がり下さい。」という声を聴きながらフランシーヌは目の前の王太子から目を離せなかった。
その美しさに魂が抜けかけた…わけではなく、その美しい笑顔を浮かべた男の後ろからニョキッと先がとがった尻尾が見えた気がしたからだった。
もちろん実際に見えたのではなく、王太子の笑顔から何かを感じたフランシーヌの錯覚ではあるが。
「フランシーヌ嬢、このあと御時間はありますか?」
「…ええ、まあ。」
『時間はない。』と言って逃げ出したい気持ちをグッと抑えて頷けば、王太子は片手を差し出してフランシーヌにエスコートの許しを請い、フランシーヌの手が乗せられれば王太子は側近に耳打ちしてレーベン公爵を呼びに行かせた。
「なぜ父を呼んだのでしょうか?」
「婚約には令嬢の御父上の許しが必要と言うのが一般常識かと思っていましたが、違うのですか?」
『礼儀としては間違っていませんよ。』的な微笑みを返したフランシーヌの視界に、父公爵が慌ててやってくるのが見えて、
(詰んだわ。)
***
「願いを叶えた者と結婚なんて…まるで竹の中のお姫様の話のようね。」
何という名前だったかしら、と私は窓から見えるきれいな月を見ながら悩む。
もともと朧気だった日本の記憶は歳を重ねるごとに薄れて行って、同じ想い出を語れるあの人がいなくなった今はもうすごい早さで昔は消えていくのだと予感していた。
それでも『あの人と過ごした日々は忘れないのだから良いでしょう。』と思える自分を、あの夜会で王太子殿下に渋々手を預けていた私に教えてあげたいと思う。
「王太后様、こちらの箱は全て離宮にお運び致します。」
振り返ると王太子妃の頃から傍にいてくれた侍女がいて、指し示す箱の量に些か驚く。
当分結婚する予定もなかったから碌な花嫁道具もなく鞄ひとつでやってきた王城、それでも数十年の生活で『私のもの』が随分増えたようだ。
「この部屋で過ごす、最後の夜ね。」
「…コーヒーをおいれしましょうか?彼の方ほど美味しくはいれられませんが、彼の方に鍛えられたので私の腕前もなかなかですよ。」
「それじゃあお願い、…サーバーに入れたまま、グラスと一緒に持ってきてくれるかしら。」
ソファに座って、私はあの人が遺した金色のブレスレットを取り出し身につける。
肌に触れた青白い石が冷たく感じたのはあの人の魔力が籠っているからか。
― 俺がいなくなった所為だって文句言われたら嫌だからな。 ―
「そんなこと言いませんよ。だって貴方がいなければ今世では一生飲めないものでしたから。」
***
王太子がかざした手のひらから氷の粒が湧き出て、グラスの中を埋めていく。
まるで手品のようだと感心するフランシーヌの目の前で、氷で満ちたグラスの中に焦げ茶色の馨しい香りのコーヒーが注がれる。
溶けた氷がグラスの中でカランッと音を立てる。
「幸せですね。」
「そうだな。」
「コーヒー友だちになりますから、王妃になるのは勘弁していただけませんか?」
「普通なら『お友達じゃ満足できない、妻にして!』って言うんじゃないのか?」
「三文オペラの見過ぎです。」と言うフランシーヌに王太子はクックッと笑う。
こうして婚約者となってしまうまで知らなかったが、『氷の王太子』の異名を持つこの男はなかなか笑いの沸点が低い御仁のようだ。
まあ、多くの者がそれを聞けば「フランシーヌ様が特別なのです。」と反論されるのだが。
「そんなに私と結婚したくないか?」
「そうですね―――殿下は私が好きですか?」
「さあ、ただお前となら結婚しても良いかなって思ってた。」
「…私、殿下と面識がありましたか?」
「2回、声を聞いた。最初は母上の茶会で、『アイスコーヒーが飲みたい』っていう子どもの呟きが聴こえたんだ。まあ、子どもの時の話だし、気のせいかなとも思ったんだが…2年くらい前かな、『タウリン1000㎎配合、ファイト一発!』っていう女の声が聴こえた。それで確信した、貴族の女に俺と同じ日本の記憶を持つものがいるってな。」
「それは……恐らく疲労回復薬を異常なほど作り続けていた時の叫びですね。」
「タウリン…俺も欲しいときがある。」
『ですよね』と深く同意するフランシーヌに王太子はクックッと笑っていた。
なんてことはない、あの『名も顔も知らない貴女へ』という随分ロマンチックな宛名の手紙は
声しか知らないフランシーヌを探し出すためのものだったのだ。
「別に俺は回顧主義者ではないし、前世なんて他人に話せば眉唾物、運が悪ければ精神病棟行きの夢物語だ。あの頃の記憶に固執するつもりはないし、この世界を日本のようにしたいなどと全く思っていない…ただ、想い出話を楽しめる友人のような妻がいたらいいなって思ったのさ。」
「私、魔法薬にしか興味はありませんが?」
「それでもいいさ。優秀な俺に感謝しろよ、大体の政務は俺でもこなせるし、この国は大陸で一番の強国だから外遊せずとも向こうを呼び出せばいい。まあ薬草栽培が盛んな国に関してはお前の方から行きたいと騒ぎそうだし、お前の興味を知れば多くの国で薬草の栽培が盛んになるだろう。」
「良いこと尽くしですね。」
「だから結婚しようか。苦労は“そこそこ”に抑えることを約束する。」
そう言って差し出された手に、「そこそこなら良いかな」と思いながら手を置いたとき、本当に嬉しそうに笑った王太子の顔はフランシーヌの一生の宝物になった。
***
「ありがとう。」
今世で初めて飲んだ時と同じように、氷のたくさん入ったグラスに注がれたコーヒーを机に置いた侍女に礼を言い、しばらく人払いを命じた。
一口飲んで喉を潤し、あの人と似た美味しいアイスコーヒーに満足する。
そして私は飾り気のない真っ白な封筒を開ける。
一応遺書になるようなものだからある程度の厚みを予想していたのに、中にはカードが一枚あるだけ。
「―――まったく、あの人は。」
そこには今は未だ覚えている日本の文字で、
― ありがとう、俺は幸せだった。 ―
「普通、私を幸せにできたか気にするんじゃありませんか?…最後まで自分勝手なんだから。」
泣きたくなる気持ちを誤魔化すためにアイスコーヒーを手に取って一口飲んだが、今度は全く美味しいとは感じなくって
「貴方が『一緒に』と誘った理由が分かりましたわ。」
今世初めて一人で飲んだアイスコーヒーは全く美味しくなかった。