midday3
類がキーボードに指を踊らせ、望月が並ぶファイルの背をなぞる。二人は店舗スペースの奥にある類の部屋に、この数日間こもりきりになっていた。芹沢の一件に関する情報を整理するためである。
「っとまあこんなもんかな」
軽快なタイピング音が途切れ、ようやくキャスター椅子が回転する。
「何か分かったか」
「ああ、かなりの収穫があったよ。報告は大きくわけて三つ」
類が、親指から中指までをピンと立てた。
「まず前提として、プロダクションはキメラという犯罪組織を介して、麻薬の密輸や売買、詐欺、闇金、銃火器製造など、ありとあらゆる違法な商売を行っていた。事務所が設立してから一度も経営赤字に陥ったことがないのも、そこからくる収益のおかげだろう。加えて、お前が見た葛谷とかいうガラの悪い輩、そいつもやはりキメラの構成員だった。事務所が彼らに表の身分を与えることで、組織はその実態を隠し通すことができていたんだと思う。組織が事務所を隠れ蓑にし、事務所は裏稼業で甘い汁を吸う。そういう密接な関係が、事務所創立当初から続けられてきたみたいだね」
「じゃあ、やっぱり芹沢は」
「プロダクション取締役社長を務めながら、キメラ総帥という裏の顔も持つ――と言いたいところだが、事務所の方がキメラの傘下に入っている場合もある。もしそうなら、芹沢は支部局長としてキメラに利用されているにすぎないかもしれない。彼女の正体や両者の上下関係を断定するには、今の段階ではまだ無理がある」
「いや、ちょっと待って」
望月は類に、棚から引っ張り出してきた分厚い紙の束を手渡した。逃がし屋の顧客帳簿であった。
「ここに、土方崇とかいうおっさんがいるだろ。そいつがどうやら、今は事務所の取締役員をしてるらしいんだ。この記録では、暴力団から依頼を受けてターゲットになり、逃がし屋として一時的に匿ったことになってる。確か、俺が狙撃に失敗して実は生きてたっていうていで、例外的に同じ名前のまま帰したやつだよ。もうこの時点で、裏社会絡みの危ない人間だってことはよく分かるし、こいつに接触すれば、芹沢の裏の顔やキメラのことも詳しく聞き出せるんじゃないか」
「それでもいいけど、この土方崇って何か見覚えが……」
脳内の備蓄品を絞り出すように、眉間にしわを寄せて沈黙する類。しばらくして、不意に快活な表情になって指を鳴らす。
「思い出した。キメラの前身にあたる組織の一つ、ウロボロスの頭がその名前だった。君に幽閉されていた数年間は行方をくらましていたが、再びウロボロスに戻り、他の組織と同盟を組んでキメラを作った男でもある。だから自動的に、キメラ初代総帥ということにもなるな。加えて芹沢は、その土方の不在時に社長となり、彼が出戻った今も出世を阻んでいる点がいくつも見られる。キメラ総帥の空席を奪い、土方を上から押さえつけている彼女は、事務所社長でありキメラ総帥でもあると言えるだろう。珍しく君が役に立ったよ」
「珍しくってなんだよ、珍しくって。一言余計だっつーの」
とは文句を垂れつつ、望月が軽く唇を舐める。
「二つ目は、社内の不穏な動きについて。芹沢が社長になってからというもの、年々リストラされる社員数が増え続けているのが少々気になる。むろん景気変動なんかの影響はあるだろうけど、それにしても、あまりに不自然な上がり幅をしていてね。しかもリストラされた社員のうち、そのほとんどが目立った問題行動を起こした構成員だった。この意味が分かるか」
「そりゃあ芹沢がキメラ総帥であると分かった以上、隠蔽しきれない問題を起こした組織の迷惑者を、排除しているとしか考えられないだろ」
「僕もその可能性が高いと思ってる。事実、リストラされた構成員は一様に、その後の消息を絶っているんだ。それは表社会だけでなく、裏社会からも、忽然と……芹沢澪は、僕たちの想像を超える本物の女帝なのかもしれない」
類は厳しい表情で虚空を見つめ、もの憂げに椅子にもたれかかった。次いで白衣のポケットから、一枚の紙切れを投げてよこす。芹沢とのツーショット写真だった。
「僕の用は済んだ。必要なら、君が保管しておくといいよ」
「あ、ああ……」
望月は深刻な表情で、手のひらに笑顔を咲かせる人物を見つめていた。
よいしょ、と不意に腰を浮かせ、デスクに向かって座り直す類。軽くマウスを振ると、すぐに最小化していたファイルが飛び出してきた。
「最後に目に止まったのは――これは個人的な疑問でしかないんだけど、聞いてくれるかい?」
「嫌だ、って言ったところで、お前なら構わず語り出すよな。ちゃんと資料まで準備してるし」
「ご名答」
類が苦笑する。
「まあちゃちゃっと終わらせちゃうから聞いてくれよ。これは芹沢というよりキメラの話になるけど、実は過去にたった一人だけ、偽名を使って組織を嗅ぎ回っていたであろう人物を見つけたんだ。それがこの女、北条沙羅゠エレオノーレ」
その瞬間、望月の目の色が変わった。
「お前、彼女のことをどこまで知ってる」
「なんだい急に怖い顔しちゃって。僕が知ってるのは、事務所の隠しファイルにしまいこんであった情報だけだよ」
極めて楽観的な声で言うと、望月は少し視線を緩めた。
「んでその調べによると、彼女はドイツ人の母を持つ日独ハーフで、このダブルハイフンで結ばれた二つの名前を持っているらしい。年齢も高卒すぐの十八歳だと偽っていたが、実際はまだ入学したばかりの一年生。それでも腕っぷしが強く、頭もよく切れたみたいで、新人ながら組織内ではかなり重宝されてたらしいよ。ま、それも正体がバレるまでの話だけどね」
「ちょっと待って……正体って、何?」
「え、組織を嗅ぎ回るスパイだったってことだけど」
「あっそゆこと」
望月が身を翻し、棚に置かれたペットボトルの水をあおる。もしかして、焦っているのか。
密かに彼を観察する類。目が泳いだ。あ、止まった。軽く深呼吸。冷静さを装おうとしているな。だがまだ若干、瞬きの数が多い。乾いた唇を舐める。水をもう一口。
ああ、なんて面白いんだろう。こんなに切羽詰まった望月なんてはじめて見た。こっちが舌なめずりしてしまいそうだ。
にやけかけた頬を引き締め、言葉を継ぐ。
「そういえば、何枚か写真も見たよ。隠し撮りされた変装前のものをね。十五歳でスパイとか、どんな怖いやつだろうと思ったけど、栗色の髪に青い目の、まだ本当に乙女って感じでさ。望月は、彼女のこと何か知らない?」
「なんで俺に聞くんだよ。情報収集はお前の仕事だろ」
「だから聞いてるんじゃん。裏社会の話は、望月の方が詳しいでしょ」
「そりゃまあ、お前よりは長くこっちにいるけど、そんな昔の話なんか覚えちゃいねぇよ」
「あっこれ、昔の話なの?」
「は?」
はい、引っかかった。
「知ってるんだな。本当はちゃんと覚えてるんだろ。だったら教えてくれよ。北条沙羅がどこ所属の人間で、何のためにキメラに潜入し、なぜ突如行方をくらま――」
類は不意に胸ぐらを掴まれた。そのまま床に投げ倒され、両腕を拘束される。腰から足先にかけピリッと刺激が突き抜けると、それで身体は動かなくなった。
「さすがは類、隙のない語り口と、隙だらけの身のこなしだ。ここまで勘付かれちゃしらを切る気も起きねぇが、お互い触れちゃいけない部分ってあるだろ。そろそろ手ぇ引っ込めないと、さすがの俺もブチ切れるぜ」
望月がさらに四肢を締め上げる。
「いいか、類。俺の前では、二度とあいつの名前を口にするな。それともし、今後この件を詮索するようなことがあったら――」
望月が耳元に顔を寄せる。漆黒の髪が、白い首筋を引っかいた。
「一秒とかけずこの世から消してやる」
「詮索したことがバレたらね」
ニタリと笑う類。望月はとっさに彼から飛び退いた。すると目の前を、何か硬いものが通り過ぎていく。思えばここは、類のテリトリーだった。音もなく着地すると、今度は床タイルが一つだけ、妙に沈み込む感触を覚えた。一気に部屋の外まで転がり出る。網目の細かいネットが視界を掠めた。
「さすがは望月、勘と反射神経だけは獣並みだな……ってお前は死神か」
「その通り。死神は怒らせると怖いんだぞぉ」
おどける望月を、類が鼻で笑いながら立ち上がる。
しかし。
「あれっ?」
下半身に痺れが走り、彼はその場にへたりこんでしまった。拘束された時と同じ痛みだった。
「しばらく神経がイカれてるだろうけど、たぶん今日中には治るから、たぶん」
彼はあからさまな笑顔を作り、去り際にバイバイと手を振った。
類が長い息を吐く。リモコンで捕縛装置をオフにしてから、痛む身体を大の字に広げた。
今回は反撃の反撃に反撃されたわけだから、一応僕の負けか。ひょっとして、やつに決着をつけられたのは、今日がはじめてじゃないか?
彼は無意識的に、あるエピソードを思い返していた。
当時巨大勢力を誇っていた暴力団が、一夜にして壊滅した怪奇現象の話。組織の規模だけに腕の立つ者も相当数いたはずだが、末端の末端から組長まで、恐ろしいほど均等に半殺しにされていたという。
これをしでかした犯人は、生も死も手の内で転がせる怪物なのだ。人々はそう言って、恐怖の権化と化した裏社会の新参者に名を与えた。望月の夜に降臨した死の管理人、望月の死神の誕生であった。
部屋の隅で安静を図りながら、ふと気付かされる。
僕はまだ、望月の本気を見たことがない。