midday2
芹沢澪が所属する前山プロダクションは、駅前オフィスビル群のちょうどど真ん中にあった。しかもいざ来てみれば、周りより一際目立つ高層ビルが、丸ごと本社になっているご様子。まったく、財力を示す棒グラフが実体化したみたいだな。
いつも通りの下調べと言って出掛けてきたものの、これだけ眩しい場所に赴いた経験などほとんどなかった。それはプライベートでも同じことで、元々広い人間関係を持つのは苦手だったし、唯一表社会と繋がれる『Yellow Iris』も、最近は何かと類に任せっきりだ。
だがまあ過敏になることはねぇさ。気を引き締めることは重要だが、行き過ぎれば心身を硬直させ、結局自分の首を締めることになる。俺に武術を教えてくれた父の言葉だ。傍らにはあいつが居て、瞳を輝かせながら同じ言葉を聞いていた。だから、絶対に忘れちゃいけない。
風が立つ。望月はふと追憶から覚めて、デジタルの腕時計を見下ろした。そろそろこの通りも、駅に向かう多くの会社員で混み合ってくる頃だろう。となれば、こちらも動き出さねばならない。
一般人の芹沢ファンという設定上、彼女を探すにも特別な策は講じず、地道にあちこち探し回っている方が自然に見える。人混みに紛れていれば、ある程度ちょこまか動いても――
「やめてくださいっ」
突如として、緊迫した女の声が聞こえた。くぐもった男の声に混じり、切れ切れに苦しそうな悲鳴が上がる。
望月は迷うことなく駆け出した。声の主を探して、周囲をくまなく見て回る。途中、幾度となく芹沢のことが脳裏をよぎった。しかし無視した。そして見つけた。男が表通りに背を向け、女を路地裏に押し込んでいるところだった。
「ちょっと、あなた何をしているんですか」
望月が背広の肩に手をかける。
「何って、道端で友人と世間話をしていただけですよ。何か問題でも?」
呼びかけには素直に応じ、柔和なビジネススマイルを浮かべる中年の男。ようやく女の姿が見て取れた。唖然とした。その女とは、長谷桃子であった。乱れた髪や上着を整えながら、背広の男からじりじりと距離を置く。するとその時、彼女が着ている白いシャツの第三ボタンまでもが、外され、はだけていることに気付いた。
「てめぇ……!」
止めどない悪態と一緒に、滾る感情を必死に飲み込む。優先すべきは己の憤慨ではない。望月は素早くコートを脱いで、桃子をそっと包み込んだ。それから、できる限り優しく笑いかける。桃子の震えが少し収まった気がした。
背後から、なおもヘドロを垂れ流す下水管。
「いやだなあ、誤解ですよ。僕たちはただ、仕事のことでちょっと話し込んでいただけで」
「この方、あなたの上司ですか?」
一応、桃子の反応もうかがってみる。彼女は深くうなずいて、しかし取り乱すこともなく、ひたすらに唇を噛み締めていた。上司には逆らえないということか。それとも、こんな腐れた世界に埋もれて、鈍感にならざるを得なかったのか。
「いずれにしろ、さっきとは言い分が違いますね。これでは誤解されても仕方がないのではありませんか。今一度、誰もが納得できるようちゃんと説明してください」
深呼吸をして、男を鋭く見据える望月。今は変装中だからと自身に言い聞かせることで、かろうじて紳士的な態度を保っていた。
「もう何でもいいだろう。あんたみたいな部外者には、関係のない事です」
男が言葉を発するたび、その安っぽい仮面がどんどん剥がれ落ちていく。それと同時に、望月は強い猜疑心に苛まれていた。こんなやつが本当に、都心のオフィス街で働く一流のビジネスマンなのか、と。
「まあまあ、細かいことは気にしないでくださいよ。俺、急いでるんで」
「いや待ってください。まだ何も弁明してないじゃないですか。あなたが彼女にしでかそうとしていたこと、ちゃんと認めて謝るべきだと思います」
「あ~も~鬱陶しいんだよてめぇ!」
男が感情に任せて、とうとう腕を振りかぶる。馬鹿な上に情緒不安定かよ。望月はほんの瞬きする間に、左手で男の腕を払い、捻りを加えた突きをみぞおちに決めると、男の両肩をがっしりと掴んだ。むろん、肩甲骨に指先を食い込ませて、腕の動きを固めてある。
「そんなに大声出しちゃダメですよ、お兄さん」
望月はそう微笑んでから、静かに男の耳に唇を寄せる。
「望月の死神って、聞いたことある?」
男の肩がピクっと震えた。望月がため息をつき、力なく身を引く。
この反応、この横暴、この幼稚さ。やはりこいつは、このプロダクションは――どこかの大きな犯罪組織と、裏で繋がっている。
「お、お前、あの時はよくも総帥を……」
「あなたたち、どこをほっつき歩いているの!」
押し殺した叱責の声が、どこからともなく横槍を入れた。声の方を振り返ると、サングラス姿のスレンダーな女が、赤いエナメルのヒールを鳴らして歩み寄ってきていた。望月がまたも目を丸くする。彼女こそが、現役モデルかつ女優にして、前山プロダクション代表取締役社長、芹沢澪であった。
はっと気を引き締め、一度気配を消して退く望月。
「葛谷課長、あなたには千鳥出版への営業をお願いしていたはずでしょ。こっちでは道が違うわ。それから長谷さんに至っては、勝手な行動を許した覚えはないのだけれど。ああそれで、あなたに頼みができたの。今から三十分以内に、セレクトショップ・ブランカからモスグリーンのフリルカットソーとラベンダー色のプリーツスカートを受け取ってきて。それを明日の撮影スタジオに置いてきたら、今日は上がっていいわよ」
「ほ、本当ですか。まだこんな時間なのに」
「ええもちろん。あんみつ亭の抹茶プリンを買ってきてほしいからね」
あんみつ亭というと確か、隣の県の山奥にある有名な和菓子屋の名前だ。ここからだと車で片道一時間強。テレビや雑誌で何度も見たことがある商品だし、今から行っても、もう完売してるなんてことは……。
「二人とも、よろしくね」
澪はウインク一つで、二人を完全に沈黙させた。そうして各々が散っていく。後ろを気にしながら逃げるような男に対し、桃子はひたすらに忍ぶ人間だった。
上司のセクハラに、芹沢からの無理難題。彼女は何人もの身近な人間に、辛く当たられているというのか。それに今思えば、あんな遅くに依頼しに来たのも、残業でその時間にしか来れなかったからなのかもしれない。
早くもトレンチコートを脱ぎ、きょろきょろと持ち主を探す桃子。純白のシャツに包まれたその背中は、痛々しいほどに健気だった。
「あのっ」
当初の目的に気持ちを切り替え、望月が芹沢澪との接触を試みる。
「もしかして芹沢さんですか。実は僕、あなたの大ファンなんです。サインと写真をお願いできますか」
「ええ、大丈夫ですよ」
澪は快く承諾してくれた。本人確認をするためには、まずはその大きなサングラスを外してもらわなければならない。あとは身長や歩き方の癖なんかのデータも、可能な限り集めたい。
「あらその服、私がコーディネートしたものにそっくりじゃない」
手帳にすらすらとサインしながら、一オクターブ高い声で澪が話しかけてくる。
「あっ分かります? 以前雑誌を見たときから、芹沢さんに会いに行くならぜひ真似しようと思ってて」
「ほんとに!? 相当前のものなのに覚えててくれたのね。すごく嬉しい!」
手帳とペンを返されると同時に、望月がスマホを取り出す。澪は期待通りにサングラスを外した。そして気付く。彼女の美貌は画面越しのそれとほとんど変わらず、整形の跡もアイプチやカラコンで顔を作っている様子も一切ない。まさに、天に与えられた美というわけか。
「本当にありがとうございました。これからも応援してます!」
「こちらこそ、いつもありがとう」
澪は軽く手を振って、優雅にその場を後にした。
望月も彼女に背を向け、人気のない道を選んで帰路に着く。その途中、彼は幾度となく長い息を吐くと、清楚に見えるようセットしていた黒髪をくしゃくしゃにかき回す。
まったく、今日の発見は目に余るものが多すぎる。前山プロダクションにきな臭い裏があること。さらに俺自身にも、事務所から恨みを買った過去があること。そのせいで、頭領たる芹沢の身辺や、彼女が口止めしたようにも見える「よくも総帥を……」という意味深な台詞についても、一度調べ直す必要が出てきた。
見たところ芹沢に怪しい点はなかったが、彼女は事務所内部抗争の首謀者であり、結果的に社長の座を奪ってしまった女傑でもある。また事務所との因縁に関しては、おそらく俺が逃がし屋として、総帥とやらを幽閉してしまったのだろう。あの男が怒り心頭だったのも、自分たちの親分が殺されたと思い込んでいるからなら、納得がいく。また詳しくデータベースを……ん、待てよ。そうすると、総帥の不在を見計らって、芹沢がその空席にも滑り込んだ可能性があるのか? もしや彼女は、そのために会社を……?
望月がさらに髪をかきむしる。そもそも俺は頭脳派じゃないんだし、こういう小難しいことは、うちに巣食っている珍獣にでも食わせておけばいいんだ。
望月はニット一枚になった腕をさすって、明るいオフィス街を後にした。