大人と子供
玄関チャイムを押すと、「…心菜ちゃん?」という桜の声がし、少ししてからドアが開いた。
「どーしたの?…喧嘩でもしたの?」
私の気持ちを探るようにそっと、桜が私にそう問いかける。
「喧嘩っていうか…もうあの家にいたくないから、あんなお母さんのとこ」
桜は一瞬戸惑うような表情をしたが、すぐに優しい声で「ちょっと待ってね」と言って奥に戻っていった。
桜と桜の弟と一緒にしばらく遊んだ後、桜がそっと遠慮がちに私に声をかけてきた。
「…心菜ちゃん、いいの?」
何が、なんて聞かなくても分かる。
『家に帰らなくていいの?』
桜は優しい子だからきっと私のことを心配して言ってくれているのだろう。
家で私の帰りを待っている母の姿を想像して、すこし胸が痛んだ。
───寂しくなんかない。反省なんかしない。私は間違ったことなんか言ってない。
私の心が誤作動を起こしたりしないように、心の中で繰り返す。
「当たり前じゃん、あんな家帰りたくもないっ!あーあ、もうここに住みつこっかなぁー」
言葉にしたら本当にそう思えるような気がして、私は無理に明るい声を出した。
「そっか…私も心菜ちゃんいてくれると楽しい!」
この家でみんなと遊んで、おばさんの作ったご飯を食べて、優斗くんに「お姉ちゃん」と呼ばれて…そんな未来を想像してみて、
(何か、変)
無理やり好きでもない流行りのファッションを着させられたみたいな、違和感。
「心菜ちゃん、ちょっといいかな?」
そのときおばさんの声がした。
私は母に連絡をとってしまったんじゃないか、なんて緊張しながら「はい」とリビングに向かった。
「心菜ちゃんはさ、どうしてお母さんと喧嘩したの?」
あまりの突然さに戸惑い、言葉を探した。
「…習い事…ずっとピアノ習ってて、だけどこないだのテストが悪かったからやめさせられて…」
───そんな暇ないんじゃないの───母の言葉がよみがえる。
「そっか…心菜ちゃんはピアノが好きだったんだね?」
当たり前だ。幼い頃からずっと、ピアノは家族みたいに大切なもの。
それでも言葉につまってしまったのは、自分でも何でか分からない。
「…それはもちろんです!…突然やめさせられるなんて悲しいし理解できないし…」
「お母さんにそれを言ったの?」
「そうです。テストとピアノは関係ないでしょって、今回は苦手分野が多かったから悪かっただけで次はいい点取れるからって…でもお母さんは分かってくれなかった、分かろうともしてくれなかった。いつまでも私のこと子供だと思って、何でも言うこと聞くと思って、でも私はそんな理不尽なことは聞きたくない…」
おばさんが私の言葉ひとつひとつを噛み締めるように頷く。
───共感してもらえてるのかな。
そんな風に思って、しかし彼女の口から出た言葉に驚愕した。
「それは、心菜ちゃんが悪い」
「え、どうして?」
思わず声をあげる。だって、今の話で私のどこが悪いっていうの?
「心菜ちゃんはテストのせいでピアノやめさせられたことが理不尽だって怒ってるんだよね?それならどうして逃げてきたの?心菜ちゃんの家出も、ピアノのこととは関係ないでしょう?」
はっとした。確かに、その通りだ。
でも何だか頷きたくなくて、私はおばさんの顔をじっと見つめ返した。
「心菜ちゃんは自分のこと子どもじゃないって思いたいんだろうけど、残念ながらまだ子どもなの。自分を自分で支えることができて、初めて大人って言えるの」
「じゃあ…じゃあ私は、どうしたらよかったんですか」
「正しい大人なら、逃げたりしない。いくら嫌な相手でも、向き合わなきゃ解決しないからね。お互い歩み寄らなきゃ」
「…家に、帰った方がいいってこと、ですか」
その質問には答えずに、おばさんは苦い笑みを浮かべながら言った。
「世の中に100%正しいことなんかないんだよ。だからね、自分に1%でも非があると思ったら、謝った方がいい」