悪意は無情
「あぁの、小娘がぁっ……!」
椅子が蹴りあげられ、内壁に弱々しく当たった。
固い部分を蹴ってしまい、思いの外痛みがあったのか、行動した直後にその場にうずくまる。
「うっ……?! うぅ……」
ゼェハァと、対した動きもしていないわりに息を切らし、それでも憤っているのは、フトイ伯爵だった。
場所は先程まで王女と少年がいた応接室。
本人は全く気づいていないが、自らの言動が原因でルレイには話を断られ、エリスからは呆れるを通り越し、見切られたフトイ。
彼女が部屋から出ていった後、しばし呆然とその場に立ち尽くし、やがて我に返ると。
物に当たりながら、エリスに対し逆ギレを起こしているという状況だった。
タコのように丸い頭の額に、青筋を浮かべながら汗だくに赤くなっている様は、正に茹でダコのようだ。
「たかが市井の片親を持つ癖に、調子に乗りおってぇ……」
フトイは表面上、エリスにへりくだりながら接していたが、内面では見下していた。
せっかく自分が話を聞き、条件に合う人物を宛てがってやろうと働きかけてやったのに。
礼を言うどころか、生意気な言葉を吐き捨て、部屋から去っていった。
その体型に見合って、意地と自尊心だけは人一倍大きい伯爵は、プライドが高く、エリスの一連の行動が許せない。
そして、それ以上に。
「これも全て、あの小僧のせいだ……」
ルレイの自分に対する対する態度が、何より気に入らない。
「せっかくこのわしが目をかけてやったというのに、生意気なことを言いおってぇ……」
文句を噴出しながら思い出し、さらに腹を立てたフトイは、テーブルの上にある湯飲みをぶちまけた。
客を迎え入れるための、ふかふかな椅子に染みが出来るが、全く気にする余地はない。
「このわしにっ……! このギルドに世話になっている恩をっ……!! 忘れるどころか仇で返しおってぇ……」
一つ断っておくならば、世話になっているなどと、ルレイは間違っても思っていない。
紋なしと罵られ、集めた素材は安く買い叩かれていれば当然のことである。
だが、そんな当然のことにすら、フトイは気づかない。
全て自分が中心に世界が回っていると勘違いしているフトイの中では、そういうことになっていた。
荒れに荒れたフトイの怒声は、部屋の外にまで聞こえている。
故に、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに、ギルドの職員は応接室に近づかず、そちらに目を向けることもなかった。
それは冒険者たちも同じだ。
男にとって、部屋の中へ進入するのは、造作もないことであった。
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男は静かに立っている。
近くにいるはずのフトイも、気づかないほどの静けさだ。
「……おい」
「っ何だ……!?」
話し掛けられたフトイは、声の聞こえた方向を向く。
そこで初めて、男の存在を認識した。
「いつの間に入ってきた!?」
唾を飛ばしながら問いただすフトイ。
男は至って普通の見た目だ。
いわゆる一般的な冒険者の装備に身を包んでいる。
容姿にこれと言った特徴もない。
言い表すならば、どこにでもいそうな男。
側にいて気づかないのも頷ける話だ。
(何だ、この男はっ……?!)
故に、異質。
言い知れぬ不気味さと、容易に日常の中へ溶け込む、否、気づいた時には既に、いつの間にか自分の領域を侵食されているような焦燥を。
そして、それを不思議と、知らずのうちに受け入れてしまう。
そんな相反する印象が、自然に混在している。
ある日突然、この男にナイフで刺されても、それが当然だと思ってしまうのではないか。
「……そんなことはどうでもいい」
男はフトイの動揺と内心を一言で切り捨てた。
「……ふっ?!」
ふざけるな、と続けようとした言葉は、いつの間にか首筋に当てられていたナイフの鞘に止められた。
「王女がここに来たはずだ」
「……そ、それがどうした?!」
背後から耳朶を打つ男の声に、喉を裏返らせながら答えることしかできないフトイ。
「殺せ」
「!?」
王女を殺す。
男が下した命令は、フトイの脳を揺らした。
見下しているとは言え、仮にも王女。
国の階級のトップを殺すことなど、さすがのフトイといえども思考の埒外。
「貴様を侯爵に据えてやる」
「……っ!?」
男が提示した報酬は、フトイの神経を刺激した。
甘言だ。
どこの馬とも知れない男が、わしを騙そうとしている。
何とかわずかに残している、脳ミソの冷静な部分は、かの主に忠告した。
「……ほ、本当か!?」
その忠誠は、あっさりと無視される。
フトイは声に喜色を滲ませながら、男に確認した。
「……ああ。これは、さる相応の人物の望みだ」
「な、なるほどっ……! 承知したっ」
男はフトイの喉元から得物を放す。
伯爵はホッと息を漏らし、身体の緊張を解いた。
それから恐る恐る男へ伺った。
「こ、これは……。お、王族の御方からのご依頼か……?」
「……余計な詮索は命を縮める」
「っ?! し、失礼したっ!」
フトイは慌てて、頭を下げる。
頬から伝う大量の汗が、道理に逆らうことなく絨毯に落ちた。
その液体が作った染みを目にし、フトイはようやく、自分の身体に発生した尋常ならないほどの汗を自覚した。
「顔を上げろ」
「す、済まないっ……」
面を戻したフトイの目に映るのは、この状況でも全く顔色を変えない、男の表情。
こんな状況でも、その普通さは不変だった。
自分とは格が違う。
ここに来てフトイは、男と自らの差を、決して覆ることがない存在の違いを認めた。
「し、しかし、王女を……。その、殺す、とは言うが……。わしには厳しく……」
フトイは気まずそうに、自身の不足さを表した。
懐から出した布で、額の汗を拭う。
男は考える素振りも見せずに告げた。
「……安心しろ。力は貸してやる」
「あ、ありがたいっ……!」
そうしてフトイは男から、王女を殺す算段をいくつか授かった。
「お前が成功したことを確認でき次第、俺は再び、お前の前に姿を表す。その時……」
全てを話し終えた男は、フトイに背を向ける。
「お前は侯爵になる」
「か、感謝するっ……!」
フトイは入り口に向かう男へ、礼の念を伝えた。
そして最後、思い出したかのようにダメもとで、男へ素性を問うた。
「き、貴殿は……。貴殿の名前は!?」
果たしてフトイの予想に反し、質問の内容とは、少し違った答えが返ってくる。
「……とある男の敵、とでも言っておこう」
男は少々、視線を頭上に上げ、それだけを呟いた。
やがて部屋の入り口の扉を開けると、やはり静かに、人に気づかれることなく去る。
その開いた隙間から、一片の風が吹いていった。




