ゲームオーバー
どうしよう。流れ星がおかしくなってしまった。
「キミの髪はシルクの手触りで、甘い良い香りがする。地上に流れるミルキーウェイ。このまま朝まで包まれていたいな」
とか、
「美しい真紅の瞳だ……熟れたりんごも、上等なワインも、ピジョンブラッドだって足下に及ばない。ずっと見つめていたい。いや、もっとオレを見つめてくれ」
だの、口説き文句? がやたらと増えた。
叩けば直るかと思ってハンマーを振りかざしてみたけど、あっさり取り上げられて手首と手の甲と指先にキスをされる始末。
「たおやかな白百合の手が、オレなんかを殴って怪我でもしたら大変だ!」
だって。一体なんなの?
なんだか恥ずかしくて彼を直視できなくなってしまった……。
もともと接触過多だったのに、最近は抱きしめながら両手の指を絡めたり、足を巻きつけてきたり、くっつき方も蛇みたいにねちっこい。
一番の変化は匂いだわ。
香水の移り香が一切しなくなって、流れ星本来の大人っぽい男と潮風の匂いを感じるようになった。
嫌な匂いではない、むしろ好きな匂いよ。
でも、違和感が拭えないというか、調子が狂う。
……女こましって罪な生き物ね。愛されてると勘違いしてしまいそう。
準備はまだ終わってないけど、前倒ししようかな。
(┴)(┴)(┴)
《別れ》
流れ星の髪や瞳と同じ色、冴えた銀の月が懸かる夜。
かすかに空を染める、人里の遠い明かりが郷愁を誘う。
一隻の船もない静かな海を、私たちはバルコニーから寄り添って見ていた。
「流れ星。夢のような一時をありがとう。あなたと過ごした日々は楽しくて、あっという間だったわ」
正直、予想外よ。短い付き合いで終わるつもりだったのに、気がついたら一年の半分以上も一緒にいたなんて。
「そうだね。オレもキミといると楽しいよ。穏やかなのにたまに刺激的で、ちっとも飽きないんだ」
私が流れ星から距離を取ろうとすると、離さないとでも言うように腰を抱く手に力がこめられた。
その手をやんわり引き剥がし、私たちは向かい合う。
最後はちゃんと目を見て話さないとね。
「────私の本名は、サフィリア=ミリ=ベルナッツというの」
いつもは飄々とした流れ星が、目を見開いて動揺している。
「私はあなたを“愛してる”。ゲームは私の負けね。名残惜しいけど、この関係を終わらせまし……」
「え、やだ」
………………今、食い気味で否定されなかった?
まさか、気のせいよね。気を取り直して続けましょうか。
「……私も、あなたを本気で愛した愚かな女の一人になってしまったの。だから終わ」
「い・や・だ」
想定外の事態に思考が止まる。
流れ星の瞳はぐらぐらと燃えたぎり、一向に冷める様子がない。
……こんなはずじゃなかったのに。
「サフィリア」
「んんっ!?」
あまりのことに固まった私は、そのまま流れ星に抱擁され、舌を噛み切らんばかりの激しく熱烈なキスで口を塞がれる。
頭が真っ白で、しばらくされるがままになってしまった……。
ハッとして突き飛ばすように離れると、彼を睨みつける。
「どうして……?」
「オレの本当の名はカイルー。双子島の海域を守る守護神獣、双頭の大蛇だ。オレの方こそ、キミをあい……」
「やめて!」
私はとっさに彼の言葉を遮ったものの、注がれる情熱的な視線に押し負けそうになる。
ここに来て新たな一面を知るなんて思わなかった。
「オレの方が先に好きになったもん! 負けたのはオレが先だから、サフィリアの宣言は無効だ!!」
「えぇぇぇ……」
勢いで誤魔化そうとしてるけど、そんなルールはないから。
「どっちが先かなんて関係ないわ。本気になったら終了、後腐れなしって約束だったわよね?」
「やだ。別れたくない。……っていうか、お互い好きなのになんで終わりっ!? 両想いなら関係存続していいじゃん!!」
「うっわ、開き直った」
「オレとのことは遊びだったのか!?」
「あなたがそれ言っちゃう!? お互いが同意して始めた遊びでしょう?」
何を言っても無駄だと悟ったのか、彼は徐にひざまずいた。
ゲームを開始した時と同じ態勢だけど、表情が全然違う。
こんな真剣な彼を初めて見るかもしれない。心臓に悪いわ……。
「恋愛ゲームで始まった関係だけど、オレは一生懸命に生きるキミを愛してしまった。生まれて初めて、本気の恋に落ちたんだ……。サフィリア、どうかオレと正式に付き合ってくれ」
「え、無理」
私が即答すると、彼は両膝をつけて腰を落とす、最も畏まった姿勢に移行する。
そのまま額を地面にこすりつけ……って、自然に土下座したっ!?
「すまない、オレは最低な男だった。数え切れないほど遊んで、次々に女を切り捨ててきた。キミと出会って愛を知って、本当に愚かなことをしたと突きつけられたよ……。
今までの所業を反省してる。何ならこれから、捨ててきた彼女たちに謝罪して回ってもいい!」
「彼女たちも同意の上でゲームを始めたんだし、そこまでしなくていいと思うわ。それに、今さら謝られても治りかけの傷口に塩を塗りこむだけでしょ。ほら、頭を上げて?」
私が促すと、彼は捨てられた子猫のような目で見上げてくる。
よかった。勢いよくぶつけた割に、額は腫れもせずに綺麗なままだ。
「……じゃあオレと付き合っ」
「それとこれとは話が別」
「いやだいやだいやだ! 自分で言い出した恋愛ゲームだけど、そのせいでキミは本気になってくれないって、ずっと後悔してたんだ! 頼むからオレとやり直してくれぇっ!!」
彼は今や半泣きになって、私の腰を抱きしめ、縋りついてくる。プライドを投げ捨ててるわね……。
この状態の彼を可愛いく思う私も、大概どうかしてるわ。
「ごめんなさい。初めて出会った時に本気の告白をされてたら断ってた。たくさんいる彼女の一人だから、割り切った関係だから受け入れたの」
私はことさらにっこり笑ってみせた。
「私の母はね、遠い異国から駆け落ち同然でこの地に嫁いできたわ。父も、守護神獣の鱗を捧げるほどに母を溺愛したそうよ。……だけど、母がすぐ下の妹を妊娠してる時に、愛人の存在が発覚した」
次女のエスメルと三女のサンドラは、同じ年に生まれたのよ?
子をなした愛人はそのまま第二夫人に召し上げられた。
……故郷を捨てた母にとって、父の愛が全てだったのにね。
幸い、母は違っても姉妹は仲良く育ったけど、親世代は母が病で亡くなるまでドロドロしていたの。
「世紀の大恋愛と言われたって、愛なんかすぐに冷める。
私は側室に父の寵愛を奪われ、失意の内に息を引き取った母のように、恋愛に振り回されたくないのよ……」
彼はものすごく苦くて辛そうな顔で話を聞いていた。
自らの行いを反省しているからこそ、堪えているのね。
チャラいけど根は真面目で、そこが好きだったな。
「愛してるのに……」
「愛だけではどうにもならないことは一杯あるわ」
「諦められない。即興でりんごを飾り切りしたり、オレといても一心に絵にのめりこむ女なんて、いない」
「芸術家と付き合えば?」
情けなさそうに眉を寄せる彼に、冗談よ、と呟く。
「初めて愛を知ったというのなら、今までとは違った見方ができる。これまで遊んできた女の人たちは、ただ良いところに気づかなかっただけ。あなたはすごく優しくて魅力的な男性だから、きっと素敵な女性と出会えるわ」
守護神獣の生涯は長い。すこしくらい間違ったって、いくらでもやり直せる。
慰めるように乱れた銀髪を指で梳き、どさくさに紛れて頭を撫でた。
いつも撫でられるばかりだから、私もやってみたかったの。
「それでもオレはサフィリアがいいんだ。因果応報だって、わかっている。オレの生き方は間違ってた。
信用できないのは仕方ない。これからどんなに時間がかかっても、オレの全てを捧げてでも、必ずキミの信頼を勝ち取ってみせる。だから、最後のチャンスを与えてくれっ」
「無理よ。私は愛を信じないわ……」
これだけ想われて、私は幸せものね。
でも、私にはもう時間が──これからがないの。
ギュッと目をつぶってあふれ出しそうな涙をこらえる。
「私は、ずっと一人ぼっちだった。この寂しさを埋めてくれるなら相手は誰でもよかったのよ? ……こんな薄情な女のことは忘れてちょうだい」
目を開いた途端、視線がぶつかる。
彼は私に縋りついたまま、ぼろぼろ泣いていた。
引き留めようとしてくれたこと、悲しんでくれること、ひどいと思われるかもしれないけど……嬉しかった。
どうでもいい相手に体を許したりしないわ。
あなたが好きなの。心から愛してた。──だから別れるしかない。
湧き上がる衝動に、涙でぐちゃぐちゃになった彼の顔を両手で挟みこむと、私は身をかがめて額に唇を押し当てる。
あらあら、そんなに目を丸くして。せっかくの色男が台無しよ?
「カイルー、思い出をありがとう。……さようなら」
最後の最後に名前を呼んで、私は有無を言わさぬ笑顔で別れを告げた。