温度差格差
途中で視点が変わります。
薔薇の花びらのオイルが入った瓶が、手から滑り落ちた。
カシャン、とガラスの割れる音が響いた瞬間、ぼやけていた意識が覚醒する。
やってしまった……。定着する前に拭き取らないと。
ストロベリームーンの下で一つになった夜から、流れ星が離宮に訪れる頻度は目立って増していた。
三日続けば良い方だったのに、今ではほぼ毎日、日が沈む前から朝日が昇ったあとも、使用人が来るギリギリまで滞在していく。
キスするだけの逢瀬なんて、流れ星にとっては子どもの遊びだったのね。
眠気に意識を持って行かれそうだわ……。
彼に内緒で取りかかってる絵も、遅々として進んでいない。
ガラスの破片で指を切らないよう慎重に拾いながら、重い頭で今後を考える。
「……そろそろ潮時か」
そうと決めたら、準備を始めないとね。
「どうしてもほしいものがあるの」
その日の夜、私は流れ星の腕の中で甘くおねだりする。
「オレはキミの流れ星、どんな望みも叶えてみせるさ。なにがほしいのかな?」
「録音機能のついたマジックアイテムのオルゴールなんだけど、どうにか手に入らない?」
両手を使って、一般的な宝石箱より少し大きめのサイズを示した。こだわりはないから、デザインは彼に一任する。
「仰せのとおりに。オレの真珠姫」
私の手に口づけて了承する、優しい仕草が好きだったなぁ。
流れ星は本当の恋人でもないのに、嫌な顔一つせず私のわがままを聞いてくれたね。
……これ以上甘やかされたら、きっと彼に依存してしまう。
流れ星の愛を欲して、切り捨てられてきた女の人たちの気持ちが痛いほどわかった。
だから私の流れ星、このプレゼントを最後のわがままにするわ。
“愛してる”と告げたら、この鋳溶かした銀のように熱い瞳は冷たく凍えるに違いない。
想像するとちょっと切ないけど……引き返せる内にゲームを終わらせましょうか。
☆彡 ☆彡 ☆彡
どうしよう。真珠姫がマジで可愛くて仕方ない。
久しぶりのお願いが嬉しくて、オレは張り切ってオルゴールを特注する。
真珠姫は華美な装飾よりも、シンプルで上品なものを好むんだ。
手触りのいい、暖かみのある木の箱がいいな。
蓋に真珠姫の瞳のように赤い魔石を嵌めて、アクセントには小粒の真珠をすこしだけ散らそう。
箱の枠には銀を使って、オレの色もこっそり取り入れる。
工芸品系のマジックアイテムは輸入制限がかかって久しい。
ミリナッツでも腕のいい職人が育っていて助かったよ。
きっと、彼女の期待に添うものができたはずだ。
「わあ、魔石がりんごの形になってるのね。すっごく可愛い! ……ありがとう流れ星。絶対に大切にする」
完成したオルゴールを、真珠姫は愛しげに抱きしめる。
よかった、気に入ってもらえた。
初めて入った寝室で、オレの贈った香水が画材やガラスの菓子器、彼女の宝物と並べられているのを見つけた時みたいに胸が熱くなる。
なんて愛おしい生き物なんだろう!
オレと結ばれ女になって、真珠姫は日増しに美しくなっていく。
絵を描く姿が尊い。オレの胸ではにかむ笑顔が可愛い。
一晩と言わず、一日中ずっと傍にいて抱きしめていたい。
顔も体も声も内面も行動も全てが好きでたまらない。
恋愛ゲームはオレの負け、完敗だよ……。
初めて本気の恋を知った。
────そしてそれがオレの一方通行だということにも、気づいてしまった。
「喜んでもらえて嬉しいよ。このオルゴールにはなにを吹きこむのかな? オレならキミの澄んだ声を歌にして閉じこめておくなぁ」
「んー、秘密。それに私、歌ヘタなのよね。なにか聞きたいなら、バルコニーで波の音に耳をすませた方がいいわよ」
熱を帯びていくのはオレだけで、彼女は屈託のない笑顔で一線を引いている。
どんなに傍に居ても、いくら体を重ねても、決定的に遠い。
所詮オレは願いを叶えるだけの、都合のいい男なんだ。
……踏みこもうとすれば、キミは波のようにすり抜けていく。
真珠姫への想いを自覚した段階で他の女とは全員別れた。
果たして、それを告げて彼女は喜ぶだろうか。……そもそも信じてもらえる気がしねー。
『全員別れた? 何の冗談? それとも、私とも別れたいって意思表示かしら。ならそう言えばいいのに』
と、あっさり切られるような気さえする。
それほど、オレを見上げる彼女の瞳には熱がない。
出だしから間違えていたんだ。
なんで初めて自分から興味を持って近づいた相手に恋愛ゲームを持ちかけたし。
これで本当の恋人になりたいなんて言っても無理ゲーじゃね?
予感がする。愛の告白をしようものなら、彼女は確実にこのゲームを終わらせるだろう。
過去には戻れないから、なんとか関係を改善しなくては。
偽りを本当にするために、まずは二人で過ごす時間を増やした。
けれど、焦れば焦るほど、彼女の目はますます醒めていくような……。
「明日のデートなんだけどさ。よかったら……」
「あぁ、ごめんなさい。急に連絡があって、明日は妹の一人が滞在することになったの!」
ぱぁっと真珠姫の表情が華やぐ。……まさか彼女の妹に妬く日が来るとは。
なんだ、その無条件の笑顔は! オレと妹、どっちが大事なんだよ!?
喉まで出かけた言葉を、かろうじて飲みこむ。
真珠姫に、面倒くさい男だと思われたくない。
「悪いけど流れ星、明日はこないでね? 必ず埋め合わせはするから」
「……わかった」
☆彡 ☆彡 ☆彡
翌日の正午過ぎ。
妹が訪れた頃合を見計らって、オレは大鏡から一匹の蛇を放つ。
オレと感覚を共有した小さな白蛇は、悠々と扉の隙間を抜けて真珠姫たちの元へ向かう。
この体なら隠密行動に向いているし、こないでという彼女の言いつけも守れて一石二鳥だ。
情けない真似をしている自覚はあるさ。
でも、オレは真珠姫のことを何も知らない……。
妹にはあんなに心を開いているのに!
この時点で、オレはかなり追い詰められていたのだと思う。
真珠姫は体調が悪いのか、天蓋つきのベッドに横になったまま談笑していた。
対面に座った妹は、艶めかしい褐色の肌に荒波のようにうねる黄金の巻き毛、大胆に背中の開いたドレスを着こなして、後ろ姿でもゴージャスな美女だとわかる。
「こんな寝たままのはしたない格好でごめんなさいね。ずっと調子がよかったのに、熱を出すなんて……」
「お気になさらず、お姉様。ぜひ楽になさって。でも辛くなったらすぐに言うのよ?」
妹は派手な見た目と違って気遣うタイプらしい。
冷たい水を渡したり、甲斐甲斐しく真珠姫を介抱していた。
「これでも食べて元気を出して。蜂蜜とりんごの砂糖菓子、ルビーナからお姉様に。好きだったでしょ?」
「こんなにたくさん……いつもありがとう。あとでお礼の手紙を書くから、見つからないようルビーナに渡してくれる?」
「もちろん。まったく、品物も手紙も検閲されるから面倒よね。レディのプライバシーをなんだと思ってるの!? って一喝してやったけど。あ、わたしにも一つちょうだい?」
「どうぞ。はい、あーん」
砂糖菓子を食べさせ合う姉妹の姿は仲睦まじく微笑ましいが、不穏な単語が会話に混ざっていた。
身内の手紙になぜ検閲が入る?
薄々気づいていたが……真珠姫の扱いは異常だ。
「そうそう、これは追加の薬。……お姉様、月経を抑制する薬なんてもうやめたら? 自然にくるものを無理矢理抑えつけるのは、弱った体の負担にしかならないわ」
「体に悪いのはわかってるのよ。でも、年々月のものが重くなってるの。動けなくなっちゃうから、つい薬に頼ってしまって……」
「だからって、前より無くなるのが早いわ。毎月飲んでいるんじゃないの? 休む月もないとダメよ!」
見覚えのある小瓶が乱暴に枕元に置かれた。
……必要な薬だと、出会って間もない内から定期的に飲んでいたよね?
一瞬、真珠姫が目を閉じたのも見逃さない。
それは彼女がとっさに嘘をつく時の癖だから。
薬の用途も予想がついた。万が一にもオレの子を孕まないようにだろ?
嫁入り前の娘、未婚の王族としては当たり前の防衛なのに、頭をハンマーでブン殴られたような衝撃が走る。
「そうね、これで最後にする。──もう必要なくなるから」
とても小さな呟きなのに、やけにはっきり聞こえた。
なぜだろう、真珠姫と無慈悲な死神の姿が重なって見える。
もしかして、終わりの秒読みとっくに始まってたの?
そんなの、イヤだ。オレは絶対認めねーぞ!!!!
そうとわかれば、なり振りなんて構ってられない。
石に齧りついても別れるもんか。
縋りついて、泣き落として、禁じ手を使ってでも彼女を引き留めてやる!
この期に及んでも、オレは自分のことしか考えていなかった。
別れたくないと、泣きつく女たちを冷たく切り捨ててきたくせに、自分が同じ立場になったらみっともなく足掻いて。
『本気で好きになったら負け、関係は終了。後腐れはなし。──ねぇ、オレと遊ぼうよ』
楽しければそれでいいと、人の心を弄ぶゲームを繰り返したツケが回ってきたんだ。
────オレは、因果応報という言葉を思い知ることになる。
手遅れでした。