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海辺の彼女

作者: 秋助

・縦書き ニ段組 A5サイズ

・27文字×21行

・文字サイズ9ポイント

・余白 上下11mm 16mm


に、設定していただくと本来の形でお読みになれます

     1‐A


 センチメンタル症候群。

 それが数十年前、世界に突如として発症した病気だった。

 喜怒哀楽の感情が顕著に発症したあと、少しずつ、けれど確実に感情明度を落としていく病気。そして、ある期間を堺目に発症者は感傷的な気持ちを深く求めるようになる。

 思考はゆるやかに停止して、切ない記憶にだけ思いを馳せる。見せかけの幻想に溺れ、現実の一切を見ようとしなくなる。ある意味幸せな世界に連れ去られてしまう病気である。

 発症原因、潜伏期間、感染の有無。そのなにもかもが不明なまま、発症から二年余りが過ぎようとしたときである。センチメンタル症候群の進行を遅らせる薬が発明された。それがセルリアンブルーの色をした薬、感傷剤だった。ある精神薬の成分を応用したものらしい。

 しかしそれは、正確に言えば症状の進行を遅らせるわけではなく、強制的に気持ちを感傷と似たような症状にし、自分自身の心を騙しているに過ぎなかった。

 感傷緩衝材。幸福から不幸へと急降下しないように、意識が現実へと叩きつけられないように、心と心の隙間に感傷を挟み込む。目には目を、感傷には、感傷を。

 その感傷剤に代わり、センチメンタル症候群の症状を治す新薬が研究されていた。強制的に気持ちを感傷と似たような症状にし、自分自身の心を騙す感傷剤ではなく、感傷的な気持ちそのものを消滅させる新薬を開発していた。

 しかし新薬は紆余曲折の末、完成することなく多くの被験者が犠牲となった。効果的なデータを得られることもなく、症状が良好へと向かうことなく、ある人は命を落とし、ある人は急速に症状が悪化し、感傷が精神や心を蝕んでいった。

 その病気も十数年前、なんの音沙汰もなく終息に向かう。


     ※            ※


 私の母はセンチメンタル症候群の発症者だった。

 新薬の被験者となった母は、最終的に感情の全てを失ったしまった。車椅子生活を余儀なくされ、新薬の影響なのか、髪の色は白く変色し、本来の色を失ってしまっていた。

 父が言うには、母は病葉になってしまったそうだ。わくらば。秋の落葉期を待たずに、変色した葉のことだと聞く。

 病葉については家にあった植物図鑑で知っていた。表紙はくすんでおり、紙の所々が擦り切れている。年月のせいでもあるけれど、両親が大切にしていたことが窺えた。

 母は私を生んでからすぐに亡くなったので、写真でしか見たことがない。けれど、父と一緒に写真に映る母の姿は、感情を失っているはずなのにとても幸せそうに見えた。

 そして、娘である私にもある変化が起きていた。


     ※            ※


 私の余命は千年だそうだ。

 そのときが来るまで、どう足掻いたって私は生き延びてしまうらしい。大切な人が息絶えても、大事な街が風化しても私がその終わりを看取らなければならない。見届けなければならない。この星の、最期の一つになるまで。

 余命のことがわかったのは私が十五歳のころである。

 私は、現在に至るまで病気といった病気というものを発症したことがなく、怪我をしても、常人の数倍の速度で治癒していった。さすがに事の異変に気付いた父はセンチメンタル症候群発症のときに設立された、専門の研究機関に私を引き連れて訪れた。

 被験者を親に持つ子どもは、特殊な能力を持って生まれてくるという根も葉もない噂が立っていた。

 余命がその特殊な能力によるものかはわからないけれど。

 運命の赤い糸が可視化できるだとか、ありとあらゆる病気を治すことができるだとか、花を自在に枯らしたり咲かしたりできるだとか。その噂は多種多様である。

 そのようなことがあってなのかは知らないけれど、研究機関では懇切丁寧に検査や診断を受けた。血液採取やDNA鑑定など、実際に私の皮膚を傷付けてその経過を観察もした。

 定期的に研究機関に通っている間は気にならなかったけれど、あるとき研究員の数名が家に訪問してきて、深刻な表情で父と話し込んでるのを見てしまったとき、この事態はただごとではないのだな。と、そのときにようやく理解できた。

 今まで以上に詳しい検査を。そのような理由で私は海辺に存在する研究室に移され、一ヶ月ほどの精密検査を受けることになる。父は私が研究材料になることに難色を示していたけれど、これは私自身が決めたことなのだ。

 母が新薬の被験者となり謝礼金が手に入ったとはいえ、症候群の治療費によって泡のように消えてしまう。だけど、私が実験体になれば莫大な謝礼金が入ってくるだろう。

 研究員からは、検査の結果次第では一ヶ月ではなく最低一年、もしかすると生涯の大半を研究室で過ごすことになるかもしれないと説明を受けた。でも、それでもいいんだ。

 大切な人達が幸せになるなら、私は幸せでなくてもいい。

     1ーB


 彼女とは高校二年生になってから知り合った。

 同じクラスになった彼女は体育のときに本領を発揮した。いくら走り回っても疲れることがなかったし、体力測定のときには女の子とは思えない記録をいくつも叩き出していた。

 僕は子どものころから体が弱く、軽度の運動でもすぐに体調を悪くするため、体育の授業はほとんど見学をしていた。体を動かすことは苦手だったけれど嫌いではなかったので、自由に動き回る彼女の姿が、羨ましくも疎ましくもあった。

 アドバンス・チルドレン。

 彼女のような人間を、世界はそう呼称している。

 新薬の被験者を親に持つ子どもは、特殊な能力を持って生まれてくるという噂が立っていたけれど、あながち間違いではなかった。人智を超えた力こそは持たない代わりに、極端に知能が高かったり、五感が人よりも優れていたり、なにかしら秀でた能力を有している。新薬の副作用。らしい。

 なにもない僕と比べてしまって、八つ当たりに彼女のことを嫌いになってしまう。前の席に座る彼女から用紙を受け取るとき乱暴に受け取ってしまったり、挨拶されたときもそっけなく返してしまう。そのたびに不甲斐ない気持ちになる。

 男勝りな彼女は、自然と目立つグループの男連中と関わっており、女の子達からは羨望や嫉妬の目を向けられることが何度かあった。彼女は気にする様子もなかったけれど。

『××は特別だからな』

 よく聞く言葉だった。彼女にバスケの試合で負けたとき、読書コンクールで表彰されたとき、クラスメイト達は口を揃えて呟く。尊敬の意というよりは、皮肉めいていた。

 しかし同情はしなかった。彼女も彼女で「私は普通じゃないからね」と得意げになって笑っていたからだ。それがまたクラスメイト達の火に油を注いでいるというのに。

 僕は彼女と深く関わることもないだろうし、仲良くしようとも思わなかった。これから先、出会うであろう大勢の人達の一人にしかならないと思っていた。それなのに、ある出来事が運命を大きく揺さぶったのである。

 各クラスから図書委員を男女二名ずつ選出するとき、立候補する人がいなく話は平行線を辿っていた。そんなときだ。彼女が立候補をすると名乗りをあげる。

 そこまでは良かった。しかし次の言葉が問題だった。

「男子からは××くんが良いと思います」

 あろうことか彼女は僕を推薦したのだ。関わりの薄い僕を。

 あまりにも唐突な話に言葉を失ってしまう。

 周囲も長引く話し合いにうんざりして、自分以外なら誰でもいいという感情が僕の推薦をあと押しさせる。次々と賛成の声が挙がった。不満はあったけれど、役割が決まっていないのは僕を含めた数人しかいないので文句は言えなかった。

「じゃあ男子からはお前でいいか?」

 先生の確認に、僕は黙って首を縦に振るしかなかった。


     ※            ※


「あのさ、なんで僕を推薦したの?」

 図書室で本の位置整理をしているとき彼女に聞いてみた。

「え、だって休み時間はいつも本を読んでるから」

「だからってさ」

 確かに本は好きだ。でもそれは人の輪に溶け込めない僕が作った逃げ道だ。本を読んでいる間、周囲の目が気になって物語の内容が頭に入ってこないときがほとんどである。

「あ、この本」

 驚いたような声を上げる彼女は一冊の本を手にしていた。表紙を確認すると。どうやら植物図鑑のようだった。

「その本がどうかしたの?」

「家にある本と一緒だなと思ってさ」

 あっそ。と、興味のない声が出る。実際、興味はない。

「ねぇ、病葉って知ってる?」

「わくらば?」

「ちょっと待ってね」

 彼女が植物図鑑を優しくめくる。迷いのない手運びは、どこになにが書いてあるのかを全て把握しているようだった。

「あった、ほら。病葉。病の葉」

 そのページには病葉の写真と共に解説が添えられていた。

 秋の落葉期を待たずに、変色してしまった葉のことだと書かれている。この病葉が一体どうしたというのだろう。

「私のお母さんはね、病葉になったんだ」

 どういう意味? と、声が喉元を越えて言葉になる瞬間、その意味に気付く。センチメンタル症候群の発症者だ。

「お母さんは普通の人じゃなかった。特別なの」

 気のせいか、彼女の声が震えているような気がした。

「特別ってさ、そんなに普通のことじゃないのかな?」

『××は特別だからな』

 その言葉が本当は、どれだけ彼女を傷付けたのだろうか。どれだけ彼女を苦しめていたのだろうか。ふと気付くと、彼女は堪えることもなく涙で頬を濡らしていた。

 誰かの泣き顔が綺麗だと思うのは、初めてのことだった。

     2ーA


 検査の結果、私の細胞は特殊らしい。

 一ヶ月の検査期間は半年に引き延ばされ、この海辺の施設から離れるころには三月近くになり、一ヶ月もしない内に進級してしまう。同級生達は私のことを覚えているだろうか。

 半年の結果を経て、さらに判明したことがある。

 人類の細胞には、分裂できる限界数があらかじめ設定されており、限界数を迎えて分裂ができなくなる。しかし私にはその限界数が割り出せないらしい。限界数がないのか、それとも無限に近い数があるのか。それはわからなかった。

 どちらにせよその結果から導かれた答えは、私の余命が千年だということだ。およそ百年の誤差はあれど、そのときが来るまで細胞は否応なく私の体を守り続けてしまうらしい。

 他にもアポトーシスやプログラム細胞死など、いくつか聞き慣れない言葉を交えながら説明をしていた。高校一年生の理科の授業ではもう習ったのであろうか。

 この症状は新薬の治験を受けた人間の中で唯一、私だけが発症したそうだ。世界中にとって私は最も尊重されるべき人間になった。人類をより良い方向へと導く貴重なサンプルとして、症候群の後遺症や二次弊害を取り除く特効薬として。

 死ぬことはないといっても、心臓を銃で撃ち抜かれたり、首を刈り取られてしまったらさすがに死んでしまう。ただ、軽い怪我やほとんどの病気なら耐性があるらしい。つまり普通に過ごしていれば寿命以外で死ぬことはないそうだ。

 それは普通のことではない。

 特別である。異常と言ってしまってもいい。

 研究員、各国の責任を担う人物達からは、世界の救世主として生涯に渡って私を保護し、研究に取り組みたいと要望があった。それに憤慨したのが父である。

「この子はあなた達の玩具じゃない。僕の大切な娘なんだ」

 その言葉に、声に、確かな意思を感じた。世界にとって、私は研究体になった方がいいのだろう。そんなの私にだってわかる。でも私は、父の娘としてずっと側にいたい。どちらも大事だ。どちらかを優先するのはできない。なら、

「私、被験者になります」

 父は今、どのような顔をしているのだろうか。

 ありありと想像できて、父の表情を覗けなかった。

「その代わり、高校を卒業してからでもいいですか」

「かまわないですが……」

 研究員が父の様子を窺う。

 本当に、心の底から、父の負担にはなりたくないのだ。

     2‐B


 図書委員に選出されてから数週間が経った。

 この高校の生徒は本を読むことに興味がないのか、昼休みになってもあまり図書室を利用しないので、自然と彼女と話すことが多くなっていった。

 高校を卒業したら彼女は、海辺の研究室で生涯を過ごすことになるそうだ。よほどのことがない限り、身内でも面会が許されないらしい。感情の機微が最悪の場合、感傷を呼び覚ましてしまう恐れがある。というのが理由らしい。

 馬鹿げてると思った。大切な人に会えない方がよほど、切ない気持ちになってしまうではないか。それとも大人は、会えないだけで感傷的になるほど、心が不安定ではないのか。

「そんな大事なこと、僕に言ってもいいの?」

「駄目だよ。誰にも教えちゃいけない」

「じゃあなんで」

「なんとなく。知ってる人がいてくれた方が、助かる」

 それが僕でいいのかという気持ちと、なんで僕なのかという気持ちが混じる。不思議と嫌な気分にはならなかった。

 今にして思えば、彼女の重過ぎる運命に気付けていない無責任さの方が強かった。

「私さ、研究室に入る前にやりたいことがあるの」

「なに?」

 彼女が植物図鑑の表紙を撫でる。

「高校生活の間に、普通のことを沢山してみたいんだ」

「君は結構できてると思うんだけどな」

「そうじゃなくて、デートみたいなことをさ」

 僕の体に熱が灯るのが分かる。

「……デート?」

「うん。クラスの人達はどうもね」

 そこで彼女が言い淀み「あまり普通に接してくれないから」と言葉を付け加える。僕は特別扱いしないと思っているのか。いつの間に彼女からの信頼を得たのだろう。

「私ね、ずっと君と話したいと思ってんだよ」

「……どうして?」

「お父さんと似てるから。なんだか親近感があるの」

 下心がなかったわけではない。しかしそれ以上に、特別である彼女のいる世界を覗いてみたかった。こんなことを言ったら普通でありたいと願う彼女に失礼だとは思うけれど。だから、彼女の願いを叶えてあげたいと感じた。

「うん、いいよ。わかった」

 普通のことを沢山しよう。君がいなくなる前に。

     3‐A


 決意が鈍りそうだから、誰にも別れの挨拶はしなかった。

 研究室に入ってから二年後に、政府から全世界同時中継で私の存在を公表するらしい。そのときに初めて知人達は私の抱え込んでいる秘密を知ることになる。

 迎えに来ると申し出があったけれど、少しでも長く一緒にいたかったので父の車で研究室へ向かうことになった。とはいっても、車中ではあまり会話がなかったのだけれど。

 両親が毎年訪れていた自然公園に立ち寄る。昔はここに発症者達が大勢集まったそうだ。末期になるとまるでなにかに導かれるように自然公園へ集うらしい。

「昔は公園の中心に、大きな秋桜の木があったんだ」

 一時期、その秋桜こそがセンチメンタル症候群の発症要因だと考えられていた。木から発生する匂いや成分が人の感情を揺り動かし、感傷を呼び覚ます。今となってはそんな馬鹿げた話を信じる人はいないけれど、昔はそれさえも鵜呑みにした人達がそこら中の木を伐採してしまった。

「まぁ、僕にとってはなくなった方が良かったのかもね」

「どうして?」

「いつまでも母さんに囚われてはいけない」

 そう呟く父の横顔は感傷そのものであった。そういえば考えたことがなかったけれど、父は発症者でありながらどうして普通に暮らせているのだろか。

 研究者達の一つの仮説では昔、地平線ラジオというアプリが存在していたけれど、その周波数が症候群に影響しているのではないかと議論がなされている。聴いたものが症候群を発症し、聴き続けたものが進行を助長させたというものだ。

 しかし私の余命を考えると、父も充分に不思議な性質があるのかもしれない。父と同じであるという事実が、今だけは特別なことに対する嫌悪感を薄くさせてくれた。

 自然公園を離れて、海辺にある研究所まで辿り着く。

「せめて綺麗な場所にあって良かったな」

「そうだね」

 夕陽が海に反射して、光の結晶を生み出した。波の音が私の感傷を呼び覚まそうとする。研究室に入ってしまったら、もう外の世界へは行けない。これで最後となる。

 気付くと私は、父の左手を力強く握り締めていた。


     ※            ※


 海辺の研究室は、私が想像していた以上に広かった。

 研究室の内部は明るく、圧迫感は感じられなかった。研究室というより、大学病院に近いのかも知れない。窓からは観覧車や大型の水族館が見えた。国内で唯一、ジュゴンが飼育されていたけれど、病気で亡くなってしまった。

 研究室には図書室や工作室、娯楽室に映写室。しまいにはプラネタリウムなども用意されていた。至れり尽くせりなのは喜ばしいことだけれど、それが私は普通ではなく特別なんだという事実を如実に浮かび上がらせてしまう。

 最初の数日こそ施設の豊富さに驚き、楽しみ、時間を潰せていた。しかし一週間もすれば飽きが訪れる。普通が続く中に変化があるからこそ、特別が特別になるのだ。特別が当たり前になってしまえば、それはもう普通になってしまう。

 そうして朝も昼も夜も代わり映えしなくなったころ、研究員から嬉しい話を聞かされた。二年が経ち私の存在が世界に公表されたあと、私は数日の間だけ面会を許されるそうだ。

 そしたら父にも、彼にも会える。光が見えた気がした。


     ※            ※


 海辺の研究室に移ってから二年が経ち、政府から私の存在が公表された。そして、彼との面会の日が訪れる。

 二年ぶりに会う彼はだいぶ印象が変わっていた。高校で初めて会ったときの頼りなさそうな面影はどこにもなく、精悍な表情からは大人びた雰囲気が感じられた。

「久しぶりだね」

 声が上擦るのが自分でも恥ずかしいくらいによくわかる。

「まだ二年しか経ってないじゃない」

「もう二年も経ってるんだよ」

 余命千年という事実が、私の時間価値を鈍らせる。

「大学はどんな感じ?」

「うん。遺伝子工学の勉強をしてるんだ」

「また難しそうなことを。興味あったの?」

「いや。まぁ。ちょっとだけ、ね」

 すぐにそれが私のためだということがわかった。でも、私のために彼の未来を巻き込んではいけない。私の余命は千年もあるけれど、彼の寿命はたかだか八十年かそこらである。彼には彼自身の将来を選んでほしい。だから、

「もうさ、私に会いに来なくていいよ」

 彼の表情に曇りが見える。

 息苦しさが部屋の中に充満していく。

「君は、僕のことが嫌いになったの?」

 沈黙がよぎる。久しぶりの再会は酷く重さを伴っていた。

     3‐B


 初の面会から二年が経った。

 彼女の言葉に背くように僕は恋人を作らず、遺伝子工学の勉強に邁進した。そのおかげで授業の成績は良かったし、知識も経験も身に付いてきたと実感が沸いてくる。

 優秀な功績を残せれば、彼女の研究を手伝えるかも知れない。どれほどの長い年月を要するかはわからないけれど、彼女は散らない命だ。時間は飽きもせずに待ってくれる。

 実験の内容は秘匿とされている。非人道的な実験や倫理観の欠落した研究ではなく、あくまで常識の範囲内での話だそうだ。度を超えた実験を施し、被験者が死んでしまっては元も子もない。そのような裏も孕んでいるような気がした。

 やがて大学の卒業式を迎え、それと同日に面会の機会が設けられた。私服に着替えてからでは面会に間に合いそうにもないので、スーツ姿のまま行くことにした。

 彼女のいる部屋まで辿り着き、何度も深呼吸をする。繊細さを吸って、淀みを吐いて、度か胸を叩く。ノックをすると「どうぞ」と返事が聞こえた。ゆっくりとドアを開ける。

 少しずつ中の様子が覗き、光が差し込む。

 彼女の顔が一瞬見えて、心臓が高鳴るのを鮮明に感じる。

 ベッドで横たわる彼女は、僕が思っていた以上に元気だった。声色も、表情も。むしろ以前よりも明るい気がした。

「二年ぶりだね」

「え、わざわざスーツ着てきたの?」

 僕の姿を見た彼女は、驚いたように目を大きく見開く。

「違うよ。大学の卒業式だったんだ」

「あ、そうなんだ。ここにいると感覚がなくなるんだよね」

 千年という寿命の前では、時間なんて大した意味を持たないのだろう。それが良いことなのかはわからないけれど。

 彼女とは二年ぶりに会うというのに、容姿や雰囲気が二年前、というより、高校で初めて会ったときとなんら変わっていなかった。これも彼女の持つ細胞の仕業なのだろうか。

「調子はどう?」

「体調的には平気なんだけどね、精神的にさ」

 部屋の中を見やると、文庫本やDVDが大量に積まれていた。これくらいの娯楽ならば禁止されていないようだ。

「若い体のまま歳を取るのも嫌だね。わがままかな?」

 そうだね。とも、そんなことないよ。とも言えなかった。

 代わりに「どうかな」と呟き、言葉と空気を濁す。

「私に比べて、あなたは随分と大人っぽくなった」

「今まで子どもっぽいと思ってたの?」

「違うよ。お父さんと似てきた」

 彼女の身内に似ていることを指摘されたのがなぜだか照れくさく感じて、思わず目を逸らしてしまう。すると、ベッドの上に無造作に置かれていたスケッチブックが目に入る。

「経過観察のときはヒマだからさ、絵を描いてみたの」

「絵なんて描けたんだ」

「独学で勉強したの。なんせ時間はいっぱいあるからね」

 冗談めかして笑う表情に、どこか翳りを感じた。彼女がスケッチブックのページを数枚めくって僕に渡してくる。

「窓から見える海の絵。ほとんど海だけどね」

 絵のことはわからないけれど、彼女らしいと思った。綺麗とか下手ではなく、彼女らしい。ふと、絵の右上辺りに小さくなにかが描かれていることに気付く。

「この奥に描いてあるのはなに?」

「観覧車だよ。ほら、遠くに見えるでしょ」

 彼女が窓の外を指す。言われてその方向に目を凝らしたけれど、そこには海が広がるだけで他になにも見えなかった。

「なにもないよ」

「え、そうかな。夜になれば光るからわかりやすいけど」

 今でも見えるのにな。と、窓の外を眺めながら呟く。彼女と同じ景色を共有できないことが、少し哀しく思えた。

「題名はあるの?」

「ううん。付けたいなとは思ってるんだけど」

 彼女が「こんな単調な絵じゃね」と苦笑する。

「そういえばさ、大学を卒業したらどうするの?」

「遺伝子工学系の職に就けることになったよ」

「へぇ。良かったじゃん」

 一度だけ、この海辺の研究室で働かせてもらえないか頼み込んだことがあった。しかし、僕と彼女の関係はあまりにも親密過ぎるとして否定されてしまった。彼女が感傷的な気持ちに飲み込まれないように。そういうことらしい。

『もうさ、私に会いに来なくていいよ』

 二年前の面会の日、彼女に言われたことを思い出す。

 感傷的な気持ちにならないように。なんて、ただの杞憂に過ぎない。彼女の思いの中に、もう自分はいないのだから。

「今度はさ、いつ会えるんだろう?」

 彼女が言葉を紡ぎ、自分の発言の意味に気付いては口をつぐむ。二年前に言ったことを思い出したのだろう。

「もしかしたら、これで最後になるのかもしれないね」

 次の面会までに僕が死んでしまうかもしれない。世界がまた症候群を発症してしまうかもしれない。

 深い意味があったわけではないのに、なぜか心が痛んだ。

     4‐A


 二回目の面会から三年後、彼に彼女ができたことを父から聞いた。父との面会の最中に静かに、自然に告げられた。

「あの子、何度も何度も僕に謝っていたよ」

 自分で勝手に別れを告げたくせに、彼に交際相手ができたことに心が揺らいだのか、それとも実験の影響なのか。なにが原因なのかは分からないけれど、私はその日、高熱を出した。激しい頭痛に襲われ、何度も何度も嘔吐を繰り返した。

 様子がおかしいことに気付いた研究員達は、私と彼の間になにがあったのか。父との会話の間になにが起きたのかを事細かく聞いてきた。ごまかすこともできた。けれど、二人との時間を、私の思いを、なかったことにはしたくなかった。

 事の顛末を説明すると、研究員達は苦虫を噛み潰したような顔をして、舌打ちをしたり、顔面蒼白になる者もいた。

 そして誰かが「やはりあの子を会わせるべきではなかった」と口にする。それを聞いた私は感情を一気に刺激させられた。違う。彼のせいじゃない。父のせいじゃない。

 失ってから気付く思いなんて大したことではないと考えていた。でも今ならわかる。私の幼稚な言葉で彼を傷付けて、失って、もう二度と取り戻せなくなってしまった、今なら。

 そして今後一切、父も彼も面会を許されなくなった。

 それから何年が経っただろうか。

 相変わらず研究結果には目新しい変化が見当たらず、世界も私の存在を忘れつつあった。世間の関心や興味がなくなるほどに、私がこの研究室で許される娯楽が増えてきた。

 新聞もその内の一つで、そこで数年ぶりに彼の名前を見つけた。なんでも、遺伝子工学の分野において革命的な発見をしたそうだ。その発見により遺伝子工学の研究は飛躍的な発展を遂げることができるらしい。

なんだ。成果を与えられずに研究室へ居座っている私なんかより、彼の方がよほど世界に貢献しているではないか。

 さすが、私が好きになった彼である。

 しかし、その功績を嘲笑うかのように変化が訪れる。

 第二次センチメンタル症候群が世界中で起きた。


     ※            ※


 世界に第二次センチメンタル症候群が起きてから、すでに十年余りが経とうとしていた。

 センチメンタル症候群を辛うじて免れた人々は、二回目の発症によって全人類が感傷に取り込まれてしまった。

 なぜ今ごろになって再発症したのかはわからないけれど、感傷は沈んだのではなく、私達が症候群に対する危機感や知識が薄くなったのを見計って、攻めてきたのかもしれない。

 研究員の話によると、発症から五年が経ったころには人口の半分は第二次センチメンタル症候群によって死に至ったらしい。感傷的な気持ちは心の隙間へ徐々に浸食して、やがて人々の生きようとする力や希望を色褪せさせてしまった。

 生命力を失った人類は次第に機能しなくなる。人類が機能しなくなるとどうなるのか。答えは至って簡単だ。世界がゆるやかに死へと向かっていくのだ。

 残酷なまでの発症力を前に、世界は私の存在を一瞬にして忘れてしまった。もしかすると人、類を正しい方向へ導けなかった負の遺産として、ないものにしたかったのかもしれない。どちらにせよ、私に対する世界の目は閉じてしまった。

 私を縛ることに意味を失くした研究室は、父の面会をなし崩し的に受け入れた。十数年ぶりの再会だ。話したいことはいくらでもある。千年あっても足りないくらいだ。

「変わらない君を見ていると、どこか安心するよ」

 窓の外を眺める父の横顔は、シワやシミが幾重にも刻まれていた。当たり前のことだけれど、十年前の父はもっと若々しく、生気が満ち溢れていた。こんなことで月日を感じた。

「私、××に酷いこと言っちゃった」

「なんて?」

「もう私に会いに来なくていいよ。って」

 あのときの彼の表情を、今でもたまに夢で見てしまう。

「それは、君が本当に心から思ったことなのかい?」

「違うよ。××の負担になりたくなかったの」

「あの子もきっと、君の気持ちを理解しているよ」

「そうかな?」

「そうだよ。君は、少し人のことを思い過ぎるんだ」

 そう言って、顔をくしゃっとさせる父の表情に彼の面影を見た。彼も年齢を重ねていけば、もっと父に似てくるのだろうか。父の目から見た私は、母と似ているのだろうか。

「お父さんは私がここに来たこと、怒ってる?」

 私の顔をじっと見つめたあと、また窓の外を眺め始める。

「怒ってるよ」

 夕陽に照らされて、父の表情がわからなくなった。

「……ごめんね」

「そう思ってるのなら、しっかりと生きるべきだ」

「え?」

「圧倒的な寿命を前に、君はどこか時間を軽く見ている」

「そんなこと……」

「彼と話しているとね、思うんだ。あの子の時間の密度は濃い。それこそ、千年以上はあるんじゃないかって感じるよ」

 でも。と、一呼吸を置いて間を空ける。

「実際の時間は君よりも圧倒的に短い。そうだろう?」

 再び、私の顔を見つめる。夕陽の反射だろうか。目元が涙の粒のように光って見えた。波の音が一際大きく聞こえる。

「君は、少し人を思い過ぎているんだ」

「それっていけないことなの?」

「感情が希薄になった世界で、その思いは最も大切だよ」

 目を細めて、小さく笑う。ここにも、彼の面影を見た。

「世界を救うのはきっと、君のような人間なんだろうね」

「そうなのかな」

「君はしっかり生きて、この世界の最期を確かめるんだ」

「うん」

「悲観することはないよ。なんせ時間は千年以上ある。千年もあったら、不思議なことに多く遭遇するかもしれない」

「……うん」

「空からヒヨコが降ったり、涙が宝石に変わったり。テレパシーが使えるようになったり、ジュゴンが庭を泳いだり、200Mの海亀がいたり、街が水槽に沈んだり。なにが起きたても不思議じゃないよ。その全てを楽しんだらいい」

「……そうだね」

 想像してみる。世界は幾重にも枝分かれしていると聞く。この世界でなくてもいい。もし、私達が生きている世界とは別の世界で、そんな不思議なことが起こるのなら、私はその世界に行ってみたいと思った。そこではセンチメンタル症候群なんて発症していないのだろうか。

「ねぇ、お父さん」

「うん?」

「お母さんの歳を取った姿、見せてあげられなくてごめん」

「君はやっぱり、人のことを思い過ぎてるな」

 父は笑った。

「なに。ずっと若いままの母さんも良いもんだよ」

 私も小さく笑った。

 理由はわからないけれど、自然と涙が頬を伝う。

「僕の分まで、君には生きてほしい」

 優しく、私の髪を撫でた。髪の間を父の手のひらが泳ぐ。こんなことされるのはいつぶりだろうか。残酷なまでの時間の流れを証明するように、父の髪には白髪が混じっていた。

 病葉みたいだな。と、感じた。

「うん。わかった」

 父が亡くなったのは、その数日後のことである。

     4‐B


 彼女の父が亡くなったと聞いたのは、先日のことだ。

 第二次センチメンタル症候群の影響を受けてらしい。彼女以外の近親者はいないので、症候群の被害者同士が集まっての合同の葬儀が行われた。身寄りが少なくなった世界では特に珍しいことではない。

 今日は彼女の父の訃報と、僕自身のある報告をするために海辺の研究室へ足を運んだ。ここを管理する研究員達はまだいるけれど、面会者を引き止めようとする者はいなかった。

 研究室を訪れるのは十数年ぶりだというのに、彼女がいる部屋へは一度も迷わずに辿り着けた。心が覚えているのだ。

 扉を小さく叩き、静かにドアを開ける。

 そこには、あのころと変わることのない彼女がいた。

「君と会うのに十年以上もかかったよ」

「本当にあの日が最後になるのかと思った」

 彼女は冗談のつもりなのだろうけど、僕はあのときの言葉を今でも後悔していた。彼女はまだ覚えているのだろうか。

 ベッド脇のイスに腰を下ろして一息吐く。

「お父さんが亡くなったこと、もう知ってるよね?」

 少し不躾だったかもしれない。

「うん」

「自然公園で眠っているように倒れてたらしい」

「自然公園……」

 センチメンタル症候群の末期にもなると、感傷に浸れる場所を求めて自然公園をさまようそうだ。世界の一部では感情の終着点と。そう例えられることもあった。

「お父さん。幸せそうな顔をしてたよ」

「そっか。なら、いいんだ」

 彼女の表情は納得したようにも、無理に言い聞かせたようにも見える。様々な表情を混ぜて帯びていた。

「私は病葉が好きだから。父が病葉になってしまっても」

「哀しいと思った?」

「ううん。お父さんと会えるのも最期な気がしたから」

「どうして?」

「なんとなくだよ。強いて言うなら、親子だから、かな?」

 親子。その言葉に、僕自身の報告のことを思い出す。

「今日は君に伝えなくちゃいけないことがあるんだ」

「伝えなくちゃいけないこと?」

 一瞬だけ言い淀む。小さく呼吸を刻み、視線が部屋の中をさまよう。やがて、意を決して口を開く。

「僕さ、結婚するんだ」

 結婚。という言葉に、彼女の目が大きくなった。

「同じ職場で知り合ったんだ。もう十年以上になるかな」

「そう。そうなんだ」

「もう僕も三十代後半になるからね。時期なのかも」

 ふと、何年も前に見せてもらった海と観覧車の絵が視界に入る。そこには一つの変化が加えられていて、海辺に小さく彼女が書き足されていた。本当に、小さく、小さく。

「この絵さ、僕がもらってもいいかな?」

「いいよ。それで良ければ、結婚祝いの代わりね」

 一体どんな思いがあって、どんな願いが込められて、この海辺に彼女自身を描いたのだろうか。

「題名も僕が付けていいかな?」

「うん。あなたに付けて欲しい。もう決まってるの?」

「決まってるよ。決まってるけど、君にだけ教えない」

「なにそれ」

 君にだけ教えない。と、自分で言って思う。確か昔に読んだ小説の中に、そんな章題があったような気がする。

 彼女がふと「あ、そういえばさ」と前置きをした。

「会いに来なくていいって言ったこと、覚えてる?」

「覚えてるよ」

「あれさ、本心じゃないよ。って、今さらだよね」

「知ってるよ。君は、少し人のことを思い過ぎてるから」

 なにげない一言だったけれど、彼女は驚いた顔で僕を見た。

「……どうしたの?」

「結婚するあなたにこんなこと言うのもなんだけど」

「うん?」

「人生が十回あるのなら、あなたを十回好きになると思う」

「そっか。ありがとう」

 僕だって。もしそれが百回でも。千回でも。何度だって。

「最後に一つだけ、わがまま言ってもいい?」

「なに?」

「私のこと、抱きしめてくれないかな?」

「僕なんかで良かったら。喜んで」

 二人で体を寄せ合って、小さく丸まった。

 あんなにも遠すぎて見えなかった彼女が、こんなにも近すぎて見えなかった僕が、やがて二人の距離感を生み出す。互いのためを思って、互いを傷付けて、僕達はここにいる。言葉が、心が、感傷が、熱量が、彼女と限りなく近い距離に触れ、やがて、0になる。

 彼女が父と会えるのも最期だと感じたと言う。予兆というものが確かにあるのなら、今この瞬間、僕も確かに感じた。

 季節はまた、振り返ると秋の中にいた。

     5


 やがて何年か経ち、この研究室にいる研究員の全員が亡くなった。後任者を配属する。という感情すら失ったらしい。

 私を見張る者や縛る者がいなくなった今、私は晴れて自由の身となった。元々、研究室にいることを不自由とは思っていなかったけれど、やはり現在の外の世界は気になる。

 ベッドから体を起こし、ゆっくりと足を降ろす。窓の外の観覧車を眺める。果たしてあの場所に、遊園地なんてあっただろうか。それとも、なにかのモニュメントなのか。

 気になった私は、そこを最後の目的地として、世界を回ってみることにした。二十年近く、動きのない生活をしていたせいなのか、体にはうまく力が入ってこなかった。

 それでも、さして重くもないドアに力を込めて開く。

 夕陽が隙間から射し込み、漏れ出し、溢れ返した。

 光の洪水。という言葉が頭を駆け巡る。

 

     ※            ※


 研究室から出て世界の空気に触れるのは久しぶりだった。

 過去と現在の間違い探しをするには、少し簡単過ぎた。

 線路や高架線、電車や自動車は不恰好に絡まった蔦や葉のせいで本体のほとんどが隠れていて、仮にエンジンが稼動しても一切の身動きなんて取れないだろう。

 となれば移動は徒歩に限られてくる。幸いにも時間はあるし、私はアドバンス・チルドレンだ。体力には自信がある。千年の寿命の前に、世界なんて地球儀のようなものだ。

 私以外の人は、もしかしたらいるのかもしれないし、いないのかもしれない。少なくともこの周辺にはいないようだ。

 いつか、私以外の人と会うために。

 退廃したこの街を、この世界を、歩く。

 商店街に差しかかると、街の至るところには人類の生きた証の残骸が散らばっていた。錆びた薬局の売り子人形。乗り捨てられた自転車。文字のかすれた看板。静かに耳を澄ましてみると、人々の活気づいた声が聞こえるような気がした。

 途中、本屋へ立ち寄る。床に何冊も本が散乱しているけれど、それ以外は特に目立って汚れていなかった。適当に週刊誌を手に取ってみると、少し古い情報ばかりが載っていた。

 この世界の時間は数年前に止まってしまったのだ。


     ※            ※


 十年が経っても、空からヒヨコが降ったり、涙が宝石に変わったり、テレパシーが使えるようになったり、ジュゴンが庭を泳いだり、200Mの海亀がいたり、街が水槽に沈んだり。そんな不思議なことは、まだなに一つ起こらなかった。


     ※            ※


 百年が過ぎたころには、夕陽が大きくなった気がした。太陽が地球に近付いてきたのか。世界が橙色に反射して、街全体が影に飲み込まれたような錯覚に陥る。夕陽を見ていると父との最期のやり取りを否が応でも思い出す。


     ※            ※


 五百年の間に、世界は崩壊に向かっていた。何十、何百回と繰り返された地震や台風の前に建物のほとんどが倒壊していた。始めこそは割れた窓ガラスや瓦礫の山が至るところに散乱していたけれど、圧倒的な年月を前に風化を始めた。


     ※            ※


 九百年余りを過ごしただろうか。様々な景色を見てきた。いくつもの季節を巡ってきた。沢山の花々が咲いては散っていった。何度も太陽と月が繰り返した。私が過ごした実家に戻った。彼も通っていた高校に寄った。残りの時間もたかが百年だ。いくつもの終わりが、背後まで忍び寄っていた。


     ※            ※


 そして、

 最後の年が訪れた。


     ※            ※


 いつからだろうか。時間の感覚がなくなっていた。

 まだ千年に満たないのか、それともとっくに過ぎ去ってしまったのか。どちらなのかはわからないけれど、おそらく千年の付近にはいるのだろう。体の調子が芳しくなかった。

 私は最後の目的地を、海辺の研究室から見えていた観覧車に定め、足を向かわせる。筋力も落ちてきたかもしれない。

 長い年月を経て太陽との距離が縮まってきたのか、日中を歩くには気温が辛い。行動の起点を夜に移して歩く。

 視界はずっと観覧車を捉えている。

 けれど、海を越える手段が見つからなかった。工場から漏れ出た科学液体や、浄水機能が働かなくなったせいもあり、海は錆でも溶け込んだように赤茶色に変色していたし、酷い臭いも放っていた。これでは泳いで渡ることもできない。

 数日ほど歩いていると、観覧車のある街とこの街を結ぶ唯一の水上高速道路が見えてきた。普段は車しか通行できない場所だけれど、今はもうそんなことは関係なくなっていた。

 歩くことを許されない場所を歩けるなんて、開放感や優越感に浸れるところだけれど、濁ってしまったこの海では眺めるのも面白味がなかった。一歩、また一歩と足を進める。

 近くまで行くと公園の入り口が見えた。樹皮がところどころ剥がれ落ちている木製の案内板を確かめると、感傷の庭という公園の名前と共に、説明文が書かれていた。

『この感傷の庭では、××年に起きたセンチメンタル症候群の影響により亡くなった人々の魂を共有して、沈める霊園の地となります。墓地を取り囲むようにたたずむ観覧車は、慰霊碑の代わりとして改築されたものです。観覧車の間近まで立ち寄ったときには眺めるだけではなく、どうか、その手を合わせて、供養の意を込めてみてください』と。

 声に出さず読み終わったあと、木製の案内板を撫でる。

 ささくれが指に刺さり、静かな痛みをもたらす。

 慰霊碑。そんなものがあるなんて習わなかったし、一度も話を聞いたことがなかった。私の存在と同じく、あの観覧車も忘れ去りたい過去の残骸だったのだろうか。

 徐々に力が入らなくなりながらも観覧車を目指す。目の前にあるというのに、辿り着くまでに長い時間を有した。

「…………あ」

 観覧車の間近まで行って気付く。

 海辺にあるせいか、観覧車はほとんど錆付いていた。

 地面に仰向けになり、夜空を眺める。ひんやりとした感覚が背中を伝う。絶え間なく輝く星の瞬きが、今や消滅してしまった観覧車の光の代わりにも思えた。

 観覧車を慰霊碑に模したのは、車輪の回転を輪廻転生に見立てたのか。一段と強い風が吹きつけ、観覧車が音を立てて揺れる。その光景が、被害者達の叫びのようにも聞こえた。

 そのとき、風の音に紛れてノイズのような音が混じる。

 ジッ、ジッ、ジッ。と、定期的な音がやがて乱れていく。

 目を閉じる。意識を集中する。頭の中になにかが流れ込む。

 ジッ、ジッ、ジッ、ジジジ、ジジ、ジッ、ジッ、

 ジ、ジジ、ザ、ザ、ジ、ザザ、

 ………………………………………………。ザ、

『あいつ、桜祭り最終日なのに仕事なんです』

『本当ですよ。私の価値も知らないんだから。にゃーんて』

『ちょっと牡丹! 駄目でしょ人に迷惑かけちゃ!』

『彼とはね、結婚する前に別れたの』

『君達は私達のようになっちゃ駄目だよ』

『勤務先への挨拶だったんだ。んで、水族館に寄ってみた』

『今度さ、一緒に桜祭りに行こう』

『さよなら。私の、大切になれなかった人』

『200Mの海亀かぁ』

『そう。名誉ある水槽都市の住人になれるんだ』

『みんなが水槽都市に移住できたら、結婚しよう』

『約束、忘れちゃ駄目だよ?』

『水槽都市計画を中止する』

『生きて、どうか僕達のことを覚えていて欲しい』

『病葉って知ってる?』

『病の葉と書くんだ。落葉期前に変色した葉のこと』

『秋が一番切なくなる季節だと思うな』

『私じゃないと駄目なんだ。あなたの未来を繋げられない』

『もうすぐ自然公園に秋桜が咲くから、一緒に見に行こう』

『来年もまた、秋桜、見に来ようね』

『大事なことはさ、声に出して伝えたいから』

『僕達はもう、終わりなのかもしれないね』

『世界は昔のような人間関係を求めている』

『好きって手話だよ。いつか好きな男の子に使ってみな』

『なかったことにはできないんだよ、言葉は』

『あぁ。君はこんなにも、綺麗な声だった』

『あんたさ、男に媚びてる癖に誰とも付き合わないの?』

『普通の目だよ。視力なんてないようなもんだけどね』

『お前らが私の大切なあいつを馬鹿にすんな!』

『ごめん。あなたのこと考えてた』

『この結晶の半分さ、あげるよ』

『ほら、髪留めあげるから』

『昔から裁縫だけは得意だからね』

『告白したい人がいるので、一緒に花屋へ行こう』

『こーら。君に牡丹の価値なんてわからないんだから』

『色んな猫の写真を撮って、君に選んで欲しかったんだ』

『見て、このふてぶてしさ。王者の風格たっぷりじゃない』

『やっぱりおかしいんだ。いない方が良いのかな?』

『言葉以外でなにか伝えるとき、どうすればいいと思う?』

『こんな綺麗な景色も、私はあいつに伝えられないんだ』

『さっきの答え。やっぱり、言葉しかないんだと思います』

『手遅れじゃないよ。大切な人はまだ、生きてるじゃない』

 なんだ。なんだ。なんだ。大勢の声が、言葉が、心が、縦横無尽に頭の中を駆け巡る。実際の会話のようにも、小説の一文のようにも聞こえた。これは、一体なんなのだろうか。

 私が生きた世界とは別の世界の物語なのか。いくつかの平行した世界のどれか一つに、普通の私はいるのだろうか。

 センチメンタル症候群なんて存在しない世界で私は、精一杯笑って、目一杯泣いて、色々なことを忘れて、様々なことを思い出して。そこまで考えて気付く。なんだ、意外と私はこの世界でも、普通に生きていたんだな、と。

 全然、特別ではなかったのだな、と。

 自然と頬がゆるむ。

 しばらく、先ほどの言葉を思い返してみる。声に出してなぞってみると、映像が流れ込んでくるような気がした。

 桜祭り。水槽都市。世界統一精神感応。一つ、一つ、その光景を思い浮かべる。千年も生きておいて言う言葉ではないけれど、この世界を楽しむには、もっと時間が必要だった。

 もっと彼と一緒に生きたかった。父に私の成長した姿を見せたかった。母と話をしてみたかった。友人達と気兼ねなく接したかった。後悔だらけだった。未練ばかりだった。

 体に力が入らなくなる。

 このまま地面に沈んでいきそうな感覚に溺れた。

 視界も少しずつ霞んでくる。

 感情の伴わない涙が頬を伝う。

 星が涙に乱反射して、幾重もの煌きを生み出す。

 ザザン、ザザン。と、波の音がかすかに聞こえた。

 もしも私の声が、言葉が、心が、私がいなくなってしまったあとも、世界が終わってしまったあとにも届くのならば、どうか、どうか、私の、世界の、最期を伝えてほしい。

 今の私とは違う私が生きる、違う世界があるのなら。

 後悔や未練が残る生き方だった。

 それでも、

 平坦な道を歩みよりは、楽しい生き方だったと。

 この世界で生きるのは、確かに幸せだったと。

 だから、

 これでいいんだと思う。

 その気持ちが、

 まだ見ぬ違う世界の私に、

 届くように。

 願った。

 小さく、願った。

最後までお読みいただきありがとうございます

感想やご指摘などがありましたら宜しくお願い致します

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[良い点] 難なく読める文章力があります。 最後の盛り上がりは好きです。 [気になる点] 少し、簡単に片づけてしまい過ぎる言葉がちらほらとあります。 力はある方なので、適当に流さずにもっと凝って欲…
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