09.冒険者ギルドへ 2
「な、なんで私まで――」
アリスが肩で息をしながら、悪態をつく。ようやく一呼吸つけるところまで逃げ切ることができたところだ。
「まあまま、いいじゃんか。いいことをしたんだから」
「その割には走って逃げて、まるで悪事をはたらいたみたいになってるけどね」
「ま、まあな。そ、それより、冒険者ギルドってまだなのか?」
「あっ、誤魔化すな!」
見た目の割に体力があるのか、かなりの距離を走ったのに平然としているシルフィは、先の道に視線をやる。
「まだ先ですね。歩いてあと三十分ぐらいはかかります」
「げっ、けっこうあるな……」
「散歩しているとでも思えばいいんじゃないの?」
「散歩、ねぇ……」
「歩くのが辛いのなら、あれに乗りますか?」
「うわっ、なんだあれ?」
「運び鳥です。鳥の正式名称はフェザーフライといいます。荷物や人間を運べるほどの馬力を持っていて、バルゼでは一般的な乗り物といえます」
「……なんか、ボクシングの階級みたいな名前の鳥だな……」
馬ぐらいの大きさの鳥が何匹もいる。足の筋肉が盛り上がっていて、ニワトリの軍鶏にどことなく似ている。
「やっぱりお金かかるんだろ?」
「ええ。冒険者ギルドまでなら、銀貨五枚ほどかかります」
「うーん。タクシー並みに高いな……。やっぱり、いいや。今の俺は職がないけど経営者みたいな立場だし。ちょっとでも節約しておこうかな……。料理の方も節約してくれているみたいだし、ここで贅沢なことはしてられないよな」
「――とかいって、かっこつけてグスローとかいう人にお金あげてたくせに――」
「昨日もいっただろ? 俺の命の恩人なの! あれでも安いぐらいなんだ。――というか、そもそもアリスは普通に異世界転移できたんだろ? 俺は異世界転移したばっかりでまた死にそうだったのに……。なんだよ空かダイブとか、それヒロインの役目だろ……。男のせいで誰も俺のこと受け取ってくれなかったじゃん……」
「さあ? 普通に異世界転移できたのってたまたまじゃないの?」
アリスは普通に石畳へ着地するように、異世界転移した。そして、目の前に酒場があったので立ち寄ったのだ。楠男とは異世界転移した場所が地味にズレていた。
「あの――」
「どうしたの? シルフィさん」
「楠男様がおっしゃったさきほどの『料理の方も節約』――という言葉が気になるんですが……」
「ん? 妙なところ気にするな。だってあのお米、安くて古いやつわざわざ買ったんだろ?」
「何故、そんなことが?」
「実際に調理場に行って見たからだよ。古米に水分を取り戻すために必要な、とんがり帽子みたいな形――もしくは、くしゃみしたら大魔王的な何かが出てきそうな形をした蒸し器? 名前なんだったかな?」
「タジン、ですか?」
「そう、それ! そんな感じの名前の鍋があったし、それに、作り置きのチャーハンがあったからな……」
「チャーハン?」
アリスはそんなものがあったのかと、疑問の声を上げる。
「そう。古米をつかうなら、やっぱりチャーハンじゃないか?」
「なんで、チャーハンなの?」
「俺この前さ、米を保温のままずっと置いてたらカピカピになっちゃってて、これ、どうにかして食べれないかなーって思ってさ。お粥じゃ味気ないから、チャーハンにしてみたら食えるんじゃないかって思ってやってみたら、美味しかったんだよ。なんなら炊きてより、ちょっと古い米の方が上手いんじゃないかってぐらいにさ」
「おにいちゃんって料理できたっけ?」
「いやー、全然。いや、少しだけ作れる。数少ないレパートリーの中でも自信あるのが、シーチキンチャーハンだっ!!」
「…………大体想像つくけど、それって?」
「溶き卵の上に、茶碗一杯のご飯、ツナ缶のシーチキン、刻んだネギを入れます。それから醤油、マヨネーズ、塩コショウで味を調える! これが俺の男の料理だ!!」
「うわー、予想通りすぎるんだけど……。そもそも、マヨネーズ入れちゃったら、米がべちゃべちゃするんじゃないの? それって、料理って言えるの?」
「それはマヨネーズ入れ過ぎた場合だよ。マヨネーズの中の卵黄と乳化された植物油が、米粒をコーティングして、逆にパラパラとしたうまいチャーハンができる――みたいなことを、ミスター○っ子Ⅱで書いていたような気がする……」
「漫画知識!?」
「そ、それに、簡単だしな! これが! 一人分ならどんだけ時間かかっても、十五分以内で作れるし! しかも捨てないといけない米も使える! 経済的にも時間的にも男の一人暮らしには十分すぎるほどの料理!」
「おにいちゃん、一人暮らししたことないでしょう……」
「気分だよ! 気分! なんか一人暮らしって憧れるじゃん! 自由で!」
「……ハーレム生活満喫している癖に、なんて贅沢を」
「うっ……! いや、そういうことじゃなくて――」
脱線しまくっていた話に、ようやく質問者のシルフィが本筋に戻してくれる。
「節約、という意味もありますが、ニホンに比べて私達の住んでいるここはあまり水が綺麗じゃないんですよ。だから、チャーハンのように油を使ったり、水を使わなくても作れるカレーライスや、水そのものを失くしてしまう蒸し料理などが盛んなんです。刺身みたいに生の魚をそのまま食べるなんていう文化は、私達の世界じゃ考えられません」
「え? カレーライスってめちゃくちゃ水使うよね?」
「やっぱり、何も知らないなーおにいちゃんは。水を使わないカレーライスって有名だよ? 作ったことも、生で見たことは一度もないけど……」
「へぇー。でもさ、刺身って美味いのに喰わないなんてもったいないよな。毎日食ってもいいぐらいには好きだけど……。この世界でも、普通に井戸水あるし、別に水は汚くないよな? 意外に食おうと思えば食えそうだよな。生魚を食べないっていう文化が根付いているだけで……」
「匂いが悪いかもしれないかも。慣れていない人には、魚の生の生臭さって実はけっこう
きついかもしれないし。私達日本人は慣れているから、なんとも思わないけどね。――目を瞑って、鼻をつまんでご飯食べても何か分からないように、人間って結構視覚とか嗅覚に頼って食事をする生き物だから、臭みを払拭するために醤油とわさびを使えばいいんじゃない? それに、魚は鮮度が命。わさびは抗菌機能あるし、さばいてすぐに口にすればこの世界の人でも食べれそう」
「おお、さすがに料理作れる人間の発言は鋭いな」
「お母さんの家事手伝いをしているだけだって。自分ひとりで本格的な料理はできないから」
そっぽ向きながら、アリスは頬を赤らめながら照れていた。
「昨日の料理って誰が作ったんだ?」
「交代で料理は作っていますが、カレーライスは私が作りました」
「へぇ。そうなんだ。あれは日本人の俺でもおいしかったよ!」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、あのチャーハンは?」
「あれはヨルズ様が作りました」
「ヨルズ? あれ…………それって、誰だったけ?」
「楠男様はお会いになったことはないいですね。あなた様の奴隷ハーレムの一人です」
「あ、うん。奴隷ハーレム、ね」
ハーレム、奴隷ハーレムみたいな単語がでてくると身構えてしまう。あまりにも現実感がないが、楠男は奴隷ハーレムの主。慣れないといけないのだが、やはりまだしっくりこないのが本音だった。せめて自覚を持つ努力するために、もっと情報を集めたかった。
「それってどんな人なの?」
「ドワーフです」
「ド、ドワーフ? っていうと、あれ? 丸太のような腕は筋肉モリモリで、鍛冶が得意。ガハハハと笑いながら大酒のみで気難しい性格の、あのドワーフ? うわぁ、あんまり話が合わなそうだな……」
「――会ってから判断した方がいいですね。ですが、ヨルズ様はあまりスティエラにはいませんね。もしかしたら、ダンジョンでばったり会う確率の方が多いかもしれません。彼女は戦闘向けのスキルを持っているので、ダンジョンで食糧調達や鉱物採取などをやってもらっていますから」
「へぇ……」
「ヨルズ様は、創立メンバー三人の内の一人なので信頼の厚い方です。彼女ならば、単独でダンジョンを踏破できる力を持っています。その他の方々もみんな優秀ですよ。ですので、それぞれ役割分担をして外出していることが多いです。……昨日あれだけ揃っていたは珍しい方です」
「私は料理を作ったり、掃除をしたりが主な仕事ね。買い出しとかは、まだこの土地に慣れていないからやらせてもらってないわ」
「――すげぇな。高校生なのに、完全に仕事しているよ。自立している感じ」
「今は、自立はできていないかな? むしろガチガチで拘束されてるし、おにいちゃんと主従関係だし……」
「あー、なんかごめん……」
しゅん、と落ち込んでしまう。
(なんか、さっきからチクチク責められている気がするんだが……。そんな機嫌損ねるようなことしたか……? やっぱり、自分の兄が奴隷ハーレムのご主人様なんて嫌だよな……)
楠男がうなだれていると、
「そ、そこまで本格的に落ち込まなくていいから! 私達の世界に戻れたら、契約なんて無効になるからいいよ」
「でもさ、やっぱり辛いだろ? 奴隷のままでいるなんて」
「辛いよ。だけどいつかきっと、私達は元いた場所に帰るの。絶対に! だから奴隷だろうがなんだろうが関係ないよ」
「……ああ、そうだな」
「でも、だからって、この異世界で適当に生活なんてしない。仕事手抜きなんてしない。お客さん達が満足できるようにしている。今、目の前の――私ができることに、全力を尽くす。いくら世界が変わっても、私自身は変わっていないんだもん。だったら肩書きがなんであろうと、私は私らしく頑張るよ」
「俺も、同じようなこと考えてたよ……」
「さすが、おにいちゃん。義理だけど、血は繋がっていないけど、さすが兄妹だね」
シルフィやアリスの歩く速度が遅いが、一列になって話しているおかげで楠男はそこまで気にならない。
幅をとって、一列になれるのは道が広いから。島国の日本とはまるで違う。道がかなり広いのは、土地が余分にあるからだ。北海道とかは除外して、ここまで広い道は、日本ではありえない。
「やっぱり、違うところは色々あるよな……」
「どうしたんですか?」
「えっ、いや、道の広さが違ったりとか、奴隷制度があったりとか、改めて細かい部分で俺達の知っている世界とは違うなって思っただけだよ。言い出したらきりがないけどな……」
「そうですね。あなた方のニホンとは治安も違います。ですから、キャサリン様に出会わなかったら、もっと酷いことになっていたかもしれませんね」
「キャサリン、様、ねぇ……」
棘がある言葉が気に障ったのか、シルフィはムッとする。
「他の奴隷主の奴隷に比べれば、優遇され過ぎているぐらいですよ」
「優遇? 奴隷なのに?」
「奴隷だからです。キャサリン様も元奴隷ですから。そこまで酷いことはしませんよ」
「そこまで、ね。多少は酷いことするんだな……」
シルフィと違って楠男は、キャサリンとの関係が浅い。それどころか不意打ちで全財産を奪われそうになったのだ。シルフィがどれだけキャサリンのことを褒めようとも、簡単には鵜呑みにはできない。それが、シルフィ的には、どうやら気に喰わないようだった。
(意外だな)
ここまで感情を顕わにしたのは、初めてかもしれなかった。
「言っておきますが、あの人がわざわざあなた達は奴隷にしようとしたのは、あなた達を守ろうとしたからです」
「奴隷にするのが守ることになる? どういうことだ?」
「異世界人は狙われやすいんですよ。よそ者はそれだけで嫌われる。ですが、異世界人は特に忌み嫌われています」
「なんで?」
「私達の文化を簡単に破壊してしまう危険因子だからですよ。この世界に存在しないチート知識で、内政に関わろうとする人もいるそうですね。異世界人は優秀な方が多いそうですが、そんな人が周りにいたらどうなります? 危険因子を潰そうとするか、利用しようとするか。そんなことを考える人は決して少なくありません」
「キャサリンの奴隷になることで、俺達異世界人に力がないことを周りにアピールできるのと同時に、保護下に置こうとしたのか? まさか、ほんとうに?」
「キャサリン様は弱い者の味方です。もちろん、お金目的でもあったことは否定しませんが、そういう側面が全くなかったとは言い切れません」
「信じがたいな。それに、内政チートね……。確かに、発達しすぎた文化は魔法と変わらない。そんな未知の魔法を何の考えもなしに振るう異世界人は、この世界の人達からしたら、もしかしたら兵器と同じぐらい危険かもしれないな……」
「…………」
「どうしたんだ?」
「言おうかどうか迷っていましたが、あなた達になら言ってもいいかもしれませんね」
「え? 何の話」
シルフィは神妙な顔つきをする。
「あなた達はずっと、監視されていますよ。しかも一人二人じゃない。もっと大勢の人間から」
「なっ――」
「振り返らないでください。気取られます」
「……今も?」
なんとか振り向かずにすんだが、無理な動きをしたせいで、首の筋を痛めたのかズキズキと痛む。
「ええ。視線を感じます。まあ、これだけ堂々と観ているんです。ばれるのも織り込み積みなのでしょう。わざと分かりやすく視線を送っています。きっと、私たちの出方を待っているのでしょうね。あなた達も感じませんか?」
「いや、そんな武術の達人みたいに『気』を感じるとかはできませんね。残念ながら」
「うーん。私は結構他人に見られることが多いから、そういうのには無頓着かも……」
アリスの見た目は、日本じゃ派手な方だ。
容姿端麗で、しかも異国の地が混じっている髪の毛や瞳の色をしている。通行人も、自然と好奇の目を向ける。そのせいで、視線をかなりもらう。この異世界では逆に自然な見た目をしている。
黒髪である楠男はかなり珍しい方のような気もするが、そこまで周りが気にした様子がない。人間じゃない獣人の方々が行き来しているので、髪の色なんてそこまで注目するほどのことじゃないようだった。
「監視ねえ……。まさかいきなり攫われたりとかはないよな……」
「ありえますね」
「あの、ちょっと冗談で言ってみたんだけど……。そっか、そんなに治安悪いのか……」
銃社会じゃないし、日本じゃテロなんて起きない。先進国で社会的弱者にも生活保護なんかがあるから、治安はかなりいいはずだ。
「そうなってくると、あの、バスに乗っていた人や運転手の人が心配になってくるね」
「うーん。あの人達の情報も欲しいよなー。容疑者でもあるんだけど、被害者でもあるかもしれないんだよな。できれば、異世界人同士で交流したいな」
「酒場なら情報は入ってきますよ。冒険者ギルドも情報収集にはピッタリです」
確かに、そこまで狙ってはいないが、どうやら今の状況は楠男達は今のところ順風満帆だ。
「ちょっと失礼な質問があるんだけど、できれば怒らないで訊いてくれる?」
「どうぞ」
「俺って一応酒場の経営者になったんだよな?」
「まあ、形式上はそうですね。どうやって酒場を切り盛りするかは、楠男様には失礼ながら、正直任せられません」
「まっ、そうだよな。改めて言われるとぶっちゃけ傷つくし、異世界の高校生っていう肩書を言い訳にしたくはないんだけど、やっぱり現時点では無理っ!! だけど、俺って、奴隷主で、奴隷商人でもあるわけなんだよな? それってつまり、奴隷の売り買いもしないといけないってこと?」
ごくり、と緊張のあまり唾を呑み込む。
「――結論から先に言うと、その必要はありません。キャサリン様が奴隷商人になったのは、あくまで行き場を失った者達の保護をしたかったからです」
「奴隷商人になって? あんまり奴隷商人と、その親切心が結びつかないけど」
「キャサリン様は、奴隷になってしまった者達を積極的に引き取るんです。家なき子どもを拾ってくることだってあります。誰にも頼れない者達に救いの手をさし伸ばす方なんです。だから、私達は強制されて忠誠を誓っていたわけじゃないってことは分かって欲しいですね。私達は彼女に、恩義を感じているんです」
「そっか。――でもさ、そもそもどうしてこの異世界には奴隷なんているんだよ! そんなの酷過ぎる!」
「あなた達の世界にだって『しゃちく』という名の奴隷がいます。奴隷や差別はどんな世界にだって存在するんじゃないですか?」
「…………いや、社畜は奴隷じゃないから……。休みなく働かされて、家に帰れないだけだから。会社の奴隷なんかじゃないから」
「私達の待遇より、酷いんですが、しゃちくの方々には本当に人権ないんですね……」
「そ、そんなことないよ?」
むしろそうであって欲しいとばかりに、楠男はプルプル震える。
「奴隷というものは、ただそれだけ差別される。存在意義を否定されてしまう。一度奴隷になれば、その子どもも奴隷になることが多い。生まれながらにして、運命は決められているんです。――だから、あなたに負けて、キャサリン様は……実はちょっとだけ嬉しかったと思います。――決して勝てないはずだったあなたが勝利し、奴隷になることを回避した。その、運命を覆したことに――」
ふっ、と表情を弛緩させる。
声に抑揚がなく、感情に起伏がない。
業務連絡をするように話すシルフィが、初めて見せる笑顔にへぇ、と内心感嘆する。そういう顔をした方がきっと、もっといろんな人がシルフィに近寄るはずだ。いつも無表情で近寄り難いシルフィに対してそう思っていると―――楠男の頬を、アリスが唐突につねり始めた。
「ひゃんだよ、ふぃきなり?」
「……別に、特に意味はないよ。ただなんとなくおにいちゃんの頬をつねりたくなっただけだから……」
「なんか、怖いんだけど。声色に迫力ありすぎるんだけど」
パシン、と振り払うが、特にアリスは怒らなかった。いったい何がしたかったのか楠男には分からないが満足したようだった。
「――なるほど。随分変わり者らしいな、キャサリンは。グスローさんもそのことを知っているみたいだったし」
「ええ。だからこそキャサリン様は疎まれることが多いですね。奴隷達にこれだけ自由を与える人間はどこかおかしいと思われがちです。奴隷の中でも、奴隷の獣人が一番差別されるのですが、それを積極的に受け入れる彼女のことを、周りがよく思うはずがありません」
「もしかしたら、バルゼの連中って俺達と同じで敵多いのか?」
「そうですね。でも、キャサリン様がいるから、なんとかなっています。あの人は表の世界でも裏の世界でも有名ですからね」
もしかしたらシルフィの言うとおり、キャサリンはいい奴なのかもしれない。だが、しかし。だからといってシルフィが追従する理由にはならない。何故なら、シルフィはここにいなくてもいいのだから。
「…………なあ、どうしてシルフィはまだ奴隷をやっているんだ?」
「どういう意味ですか?」
「シルフィには、キャサリンとのゲーム勝負の時に前金で相当額をやったよな。あれさえあれば、もうあんたは俺の奴隷にならなくてもいいはずだ。奴隷契約は解消できるはずだ。それなのに、まだ奴隷メイドとしてスティエラで労働している。それでいいのか? そんなに、キャサリンへの恩義を感じているのか?」
「それもあります。ですが、それだけじゃありません」
「…………?」
「私には帰るべき場所なんてありません。いいえ、私だけじゃなく、あの酒場にいる者全てがそうです」
「帰るべき場所が――ない?」
「親に捨てられたり、親が既にいなかったり――そんな者達ばかりなんですよ。そんな私達に家があると思いますか? 私達には帰るべき場所なんて、帰れる場所なんてどこにもないんです……」
「それは――ごめん」
「……いいんですよ。帰る場所はなくても、私には居場所ができました。こんな私でもここにいてもいいって、キャサリン様が言ってくれてほんとうに嬉しかったです。だから、私は一生スティエラにいるつもりです。キャサリン様に死ぬまで恩を返していきたいと思っています」
「…………」
「…………」
悲しいほどに強い決意。
決して折れない精神。
それらを前にして、平和ボケしたただの異世界人が何かを言えるはずがなかった。
「あなた達には帰れる場所がある。だから、必ずあなた達は異世界へ帰ってくださいね。――――――たとえそのせいで、何かを犠牲にすることになったとしても」