04.バインドジャッジメント 3
楠男と、キャサリンの奴隷の一人であるシルフィが別室に引きこもってから数分の時間が流れた。
やはり、自分で呼びに行った方がよかっただろうか、と後悔をし始めるキャサリン。
キャサリンは壁ごしに酒瓶が割れた音を耳にしていたので、もしかしたら楠男とシルフィで揉めているかもしれないとあたりをつけていた。
(もしも八つ当たりだけじゃないのだとしたら、あの異世界人はそろそろイカサマに気がついたのかしら? だとしたら、気を引き締めなきゃいけないわね……)
キャサリンはイカサマをしていた。いや、イカサマを実際には行ってはいないが、イカサマを利用していると言った方がより適切だろうか。
実際にイカサマをしているのは、シルフィだった。
楠男やシルフィがシリンダーを何回回そうが、シルフィはその中身を一度確認して、そして回す。シルフィは何千何万回とシリンダーを回させた。だから、どのタイミングで弾が出るのかを、自在にシルフィは操れるのだ。
一流のシェフが、指でつかんだ塩が何グラムかを的中させることができるような精密さなのだ。絶対に間違えるわけがない。そして『通し』――つまりは教えてもらっているのだ。どこに銃弾が入っているのかを。
シリンダーを回し終った時に、銃創に何本指を置いているか。仮に一本置いているのならば、一発目で出るという風に。たった、それだけの簡単な合図を送っている。
【ルールその4 シルフィは、江藤楠男とキャサリン・ルールブックに公平なことしかできない】
このルールに抵触していいない以上、成立しているのだ。何故なら、楠男にも実際に何発目で弾が出るのか、教えている。見せているのだから。気づかない方が馬鹿なのだ。
「ようやく、戻ってきたわね……」
奥の部屋の扉が開くと、楠男とシルフィが出てきた。
シルフィは特に傷を負ってはいなかった。
だが、それとは逆に、楠男は折れた腕から、ポタポタと血をしたたらせていた。どうやら、怪我をしたらしい。包帯を巻いている。遅れてきた理由は分かったが、怪我の原因が分からない。まさか、本当にイライラを発散させるために拳を握って酒瓶を割ったのだろうか。
「……さあ、拳銃を渡しなさい。次は私が弾を込める番なんだから……」
「…………」
無言で拳銃を渡される。
そして、楠男に見られないように、テーブルの下に隠しながらシリンダーを回して凝視する。
すると、
(やっぱり、あったわね。イカサマの跡が……)
シリンダーにはめていた金具を外すと、血の跡があった。
拳銃のシリンダーは、金具をはめているためどこに銃弾が入っているのか分からない。だが、見ることはできなくとも、触ることはできるのだ。
金具と、シリンダーの間に、僅かながら隙間がある。
全てのシリンダーには血が入っていて、銃弾を込めるとその隙間から少しだけ溢れるようになっていた。弾を込めた場所にだけ血が溢れるので、そこを触れば弾がどこに入っているのか分かる仕組みだ。
(錯乱してみせたのは、あくまで演技……。当たり散らしたように見せて、この異世界人は恐らくシルフィには何も手を出していない。ただ酒瓶を割って、血を流しただけね……。恐らく、このイカサマを仕掛けるために……)
キャサリンは、罠を仕掛けていた。
楠男がイカサマできるように、だ。
後ろの棚にはわざと鏡を置いていた。それを動かせばこちらの手元が見えるように設置していた。楠男も気がついてはいたが、使わなかったようだ。
イカサマを使うか、使わないかが問題ではない。どうせ、シルフィの手に拳銃が収まれば、楠男が目撃したキャサリンの装弾箇所もシャッフルされるのだから。
だから、イカサマを誘うように鏡を置いた意味は別にある。それは、楠男に精神的余裕を与えるためだ。
油断すれば、誰だって心に隙を作る。最初にあえて勝たせたのもそのためだ。
その隙をついて今、キャサリンは大幅にリードしている。十回勝負のゲームもそろそろ終わりを告げる。このままリードをつけたまま逃げ切ることなんて、どこに弾が装弾されているのか知っているキャサリンにとっては造作もない。
(馬鹿なりに少しは考えてみたようだけど、浅いのよ……。この程度のイカサマ、気がつかないとでも思った?)
拳銃の血を全て拭き取る。
中途半端に残しておいて、動揺を誘うという手段も考えてみたがキャサリンはやめた。遊びはなし。ここで慢心したら、全てが水泡に帰すからだ。
適当にシリンダーを回した後、拳銃をシルフィに手渡す。
「受け取ります」
シリンダーの中身を一瞥すると、回転させる。
その時乗せられていた指の数は二本。
つまり、二回目に銃弾が出るというサインだ。
「私はそうね。弾が出ない方に賭けるわ。あなたは?」
「…………」
「――どうしたの? 早くかけなさい。それともまさか、もう、賭けませんとでもいうつもり?」
拳銃は既に楠男の手にある。
だが、一向にかけ金を宣言しないせいで、ゲームを始めることができない。キャサリンには、血の跡を確かめたけれど、それがなくて焦っているように見えた。
しかし、
「そういうわけじゃない。ただ、提案が一つあるんだ」
「提案?」
「俺はこのままじゃ、負ける。ここで逆転するのは難しいだろ。そして、全財産を失った俺は、ここから先どうやってこの異世界で生きていけばいいか分からない」
「……だからって、今更勝負を無効だなんて言わないでね。いっておくけど、一度ルールを決めたら、私にも制御ができないの。誰にも――私でさえも――横紙破りをすることは絶対にできない」
「ああ、別にそれはいい。俺だってこのゲームは続行するつもりだ。――だけどな、このまま続けても、地獄しか待っていない。だったら、俺の今の所持金だけじゃなく――未来の俺が得るであろう金を賭けたいんだ」
「……まさか、今の所持金以上のものも賭けるってこと? そんなこと――」
「できるんだろ? ちゃんと俺が宣言し、そしてあんたが認めれば有効になるって、そこのメイドに話は聴いたぞ」
「…………」
所持金全てを喪失後に、前借りしたいなんて提案されても絶対に呑めない。何故なら、金が無くなった瞬間、ゲームが終わっているからだ。だが、ゲームの最中である今なら、まだ権利は残っている。しかし、そんなものは負けがこんだ敗北者の希望的観測に過ぎないはず――だが――。
(自信を持ってここまで断言しているとなると、やはり、あの異世界人……。あのルールを利用したみたいね……)
いざという時の、イカサマを見破るためのルール。
【ルールその5 シルフィは訊かれたことに関して嘘をつけない】
何か不審な点があれば、シルフィに質問すればいいと思ったキャサリンがつけたルール。
シルフィは、正直に質問に答えなければならない。だから、もしもキャサリンが、ねえ、そこの異世界人、何かイカサマを仕掛けた? と質問した時に、シルフィは答えざるを得ない。だが、
【ルールその4 シルフィは、江藤楠男とキャサリン・ルールブックに公平なことしかできない】
というルールがある限り、どちらかに有利になることに加担はできない。
しかし、これには穴がある。質問が肯定だった時、シルフィは沈黙になるしかない。つまり、沈黙の合図こそが、正解であることを暗に示している。それで、物事の成否を確認できるというわけだ。
だからこそ設定しても大丈夫だと踏んだルールだった。
だが、今回はキャサリンにとっての敵に、それを逆に利用されたというわけだ。だというのに、キャサリンは他の人間に気づかれないように、少しだけ嬉しそうに唇の端を歪める。
(単調なゲームはつまらない……。やっぱり、ゲームも人生も変化がなきゃ面白くないわよね……。それに、中途半端な希望を持たせれば、より絶望が深まるもの……。その絶望に満ちた顔がみてみたいわ……)
キャサリンは黙って楠男の話に、まだ耳を傾けることにした。
「ここで俺が負けて、仮にここにいる――店員?」
「ここにいるのは、全員、私の奴隷よ」
「やっぱり、奴隷、か――。異世界らしいといえば、異世界らしいが。まあ、その奴隷のメイド達のように俺が、お前の奴隷になる。そして、毎日働いていけば、一日どのぐらいの金を得ることができるんだ?」
「そうね。食事つきで、家賃込み。そう考えると、一日金貨三枚がいいところね。もちろん、一日中働いてもらうけど……」
「俺がここで四十年働くとしようか? 一日が金貨三枚なら、一年――三百六十五日で千九十五枚。そして、あと四十年分を掛け算すれば、金貨が四万三千八百枚になるってことだ。そして、第五ゲームまでの俺の金貨の残りは三千二百枚。その二つを足して、四万七千枚になる。そう、俺は次の第六ゲーム――――――一発目に弾丸が出ることに、四万七千枚賭ける!!」
「は、はあああああ!?」
声を荒げて叫んだのがいつぶりなのか。
そんな記憶がパッと思いつかないほどに冷静な性格のキャサリンは、思案を巡らす。
(どういうこと? 勝つ見込みがないのに自分の未来まで賭けるはずが……)
既に楠男は拳銃に触っている。
自分のイカサマはもう成功しないことを、知っているはず。もう、何の手もないはずなのに、どうして自ら破滅の道へ進もうとするのかが、キャサリンにはまったく理解できなかった。
「分かってるの? 次に弾が出る確率なんて――」
「三回連続で、弾丸が一発目に出る確率は、5×5×5=125――そう、百二十五分の一の確率に、俺は未来を賭ける。――俺も、ゲームの流れってやつが分かってきた気がするからな。次、絶対に弾丸は出るっ!!」
「――正気?」
「正気だよ。お前こそ、今なら変えることぐらい許してやるよ。弾が出る方に賭けた方がいいじゃないのか?」
キャサリンは手で口元を押さえる。肩が震えはじめる。別に、恐れ慄いているわけじゃない。
(まだ、まだよ……まだ、耐えなきゃ……)
笑いをこらえているだけだった。
適当にゲームには流れがある! とキャサリンが嘯いた戯言を、こんなにも楠男が信じきっているのだ。道化じみた滑稽さがおかしくてしょうがなかった。
「さあ! 早くしろ!! まさか、怖気づいたわけじゃないだろうな!?」
「い、いいわ。私も覚悟を決めた。私は弾が出ない方に賭けましょう」
まだ、笑ってはいけない。
(早くっ! 笑ってしまう前に、早く言って! お願いだから、この馬鹿を地獄に落とすために、早く――シルフィっ!!)
そして、
「成立しました。それでは、楠男様は引き金を引いてください」
ようやく。
ようやくだ。
シルフィがこう宣言してしまったら、もう誰にも止められない。
必ず、楠男は引き金を引かなければならない。
「――く」
キャサリンの勝ちは確定した。
もう、我慢する必要なんてない。
「く――はは」
腹を抱えて笑う我慢なんて、もう。
「ぷっ、くははははははははははははは!」
スキルは、その使い手の本質や心の内に根付いているものが、そのまま力となることが多い。その人間の本質こそが、スキルとなる。
キャサリンに『束縛の審判』のスキルが宿ったのも、決して偶然なんかじゃかった。少なくとも、キャサリン自身はそう信じ切っていた。
(ルールというものは、決して公平であるために作られるんじゃない。頭の悪い人間を騙すためのものなのよ)
キャサリンも、実は昔奴隷だった。
バルゼの識字率は低い。かくいうキャサリンも子どもの頃は文字を読むことすら満足にできず、訳も分からず奴隷商人の紙にサインをした。
それが二束三文の金で自分の自由を奪う者だと知らずにだ。
その契約者は、学のない子どもには分かりづらい難解な文字で綴られていた。騙されたキャサリンは、それから猛勉強をした。それから、自分を買い取った変態オヤジと、実の子どもを売った両親、それに毎日のように調教と称して暴力を振るっていた奴隷商人にキッチリと復讐を果たした。
キャサリンは、今となっては親達に感謝すらしている。
幼い頃に現実を教えてもらったおかげで、こうして馬鹿をいたぶる楽しみを得たのだ。
こうやって馬鹿を騙せば騙すほど、実感できる。自分は昔の自分ではない。喰われる側から、喰う側に回った。頭はよくなり、強者になったのだと。
もう、あの頃のように毎晩泣きながら、決して外れることのない首輪を掻き毟ることなどしなくてよくなったのだ。爪が剥がれて流血しながらもずっと指を動かしていた。痛みよりも、自由を渇望する心がなくなってしまう恐怖心の方が強かった。心まで奴隷になりたくなかったのだ。そして、強くなりたいと思い続けた今、キャサリンはこうしてまた勝ち星を拾った。
「これで終わりね! まさか、異世界人ごときがこの私に勝てるとでも、本気で思っていたの!? 俺TUEEEとか、チート無双できるとでも!? そんなどうしようもない夢想はここで粉々に打ち砕いてあげるわ! あなたはこの先ずっと私の奴隷として――」
楠男は、腕を上げて拳銃を天井に向けていた。
そして――
パァン、といっそ冗談のような軽さで、銃声が響く。
思考が空白で埋まる。
「……………………は?」
一発目に出るはずがないのに、確かに出た音がした。
「悪いな。話の途中で切って。えっと――なんだったけ? 俺が奴隷か何かになるって話だったか? 悪いな。俺の勝ちみたいだから、そういうことにはならないみたいだな?」
「――――なに、これ?」
キャサリンはとても信じられなかった。
何かの聞き間違いだと思いたかった。
「楠男様が的中されました。弾を撃つ側なので、賭けた金額の三倍――十四万一千円枚の金貨を得ることになります。残念ながらキャサリン様は外されたので、十枚を失うことになります」
最終結果。
江藤楠男 141000枚
キャサリン・ルールブック 12780枚
金が中空を舞う。
キャサリンが長年、こうこつと貯蓄していたものがまるで砂の城のように消えていく。それでも、お互いが金貨を失っておらず、なおかつゲームを最後まで終わらせていない。だから、本来ならばまだ挽回できるかもしれない――だけど――
「このままゲームは続行される――はずですが、残念ながら、こちらから金貨を払える限度額以上の資産を、楠男様が獲得されました。なので――自動的に、このテーブルに乗っているキャサリン様の金貨を回収させてもらいます。借用書――もとい奴隷契約書は後程書くことになると思われます」
「――ちょっと、待ちなさいよ」
「まだ不足していますので、キャサリン様は楠男様に借金を作ることになります。この時点で、異例ではありますが、ロシアンルーレットのゲームは続行不可能となりました。よって、勝者――江藤楠男様となります」
「ちょっと待てって言ってるでしょっっっ!!」
財産が『束縛の審判』によって、無情にも自動的に運ばれ、キャサリンから楠男へ奴隷になるための奴隷契約書も作られてしまった。
しかし、キャサリンがこのままでは終われるはずがなかった。
「な、何かの間違いよ! これは! あんた、一体何をしたの!?」
「読んだんだよ。ゲームの流れをな。大切なんだろ? ゲームの流れを読みきるってことがな」
「ふ、ふざけないでよっ!! ありえないわ、こんなの!? どんなイカサマをしたの? いや、イカサマなんてできるわけないっ!! 常に監視役としてシルフィがいた!! シルフィの眼を掻い潜ってイカサマなんてできるはずがないっ!!」
「ああ、そうだな。だから俺は、何もしていないんだよ」
ぐらり、と床が傾いているかのように、視界が揺らぐ。ようやく、楠男のやったことが理解できてしまった。
「まさか――裏切られた? 私が? そんな、どうして?」
シルフィが敵側に寝返った。そうとしか考えられなかった。
絶対にイカサマができないように、ルールを作ったはず。キャサリンですら、ルールを破れば『束縛の審判』から罰を与えられるはずだ。
【ルールその4 シルフィは、江藤楠男とキャサリン・ルールブックに公平なことしかできない】
裏切る=不公平なことなはず。
いったい何をすれば出し抜くことができたのか。そもそも、裏切れたとしても、裏切るメリットがシルフィには何もなかったはずだ。どうして裏切ったのか。その答えの端緒を開くのは、
「買収したんだよ、俺が、シルフィをな」
楠男の一言だった。
「ば、買収!? そんな、あなたには、シルフィを買収するだけの金なんて――」
「あるよ。俺の財布には千円札だけじゃなく、入ってたんだよ――小銭がな」
「こ、小銭?」
「お前は知らなかったみたいだけどな。普通、キッチリお札だけ持っていることの方が、日本では珍しいんだよ。それとも、小銭の存在を忘れていたか? 財布の中身は五百三十二円。それを即金で渡した。日本円をこっちの価値で換算したら、数千倍になる時もあるらしいな。安い女じゃなかったが、お前に勝つためならそのぐらいの金払ってやるさ」
「そんな、馬鹿な。ほ、ほんとうに私は裏切られたのか? いや、そもそも裏切られるはずがない。シルフィは公平なことしかできないはず。そんなどちらかに加担なんてしたら、私の『束縛の審判』が自動的に発動するはずなのに……」
「いいや、公平なんだよ。お前とシルフィは最初から協力関係にあった。勝利したあかつきには買った分の一割は分け与える約束をしていた。――そうだろ?」
「それが……なにか?」
「だから、俺だって報酬の分け前をシルフィとやっても大丈夫ってことだ。むしろ、やらなきゃ公平だとは言えないだろ」
「…………くっ」
「どうやら、あんたのスキルのルールは随分と拡大解釈ができるスキルみたいだな。あんたはイカサマをしちゃいけないってルールなのに、やっているみたいなもんだしな。まっ、そのおかげであんたを罠にはめることができたんだから、感謝しないとな」
どうやってシルフィを寝返らせたのか。金の出所はどこなのか。どうやって『束縛の審判』の魔の手から逃れたのか。
それらの疑問は全て氷解した。
だけど。
だけど。
シルフィの疑問は終わらない。だって、そもそもシルフィを懐柔させることができたとしても、問題は別にある。それは、楠男と彼女が初対面だということにあった。
「いや、だけど、どうしてシルフィはあなたに素直に従ったの? それに、あなたを裏切ることだって、あなた自身十分予測できたはず? それなのに、こんな危険な橋をわたるなんて……。随分、他人の言葉をすんなり信用するのね。異世界人らしく、甘ちゃんね。あと少しシルフィの心が揺らいでいたら、私は勝っていたっ!!」
「なるほどね。それが、プライドの高いあんたの譲れない一線らしいな。どうやら、あんたはまだ負けを認めないつもりらしいが、それはない。俺は絶対にあんたに勝っていた。俺は確信していたんだ。決してシルフィは俺を裏切らないってな」
「な、に? そんなはず――」
「俺は、スキルを使ったんだよ。あんたの忠告を聴いてな」
「…………はあ? まさか、ピンチになったらスキルを覚醒して、大逆転――みたいなことになったわけじゃないわよね」
「そんなわけないだろ。どこぞのネット小説の主人公じゃあるまいし、そんなご都合展開なんて起きるはずがないだろ。俺はまだ自分のスキルなんて知らない。だから、利用したんだよ。――――あんたのスキルの特性をな」
「とく、せい……?」
楠男は、テーブルに放置してあった『束縛の審判』の契約書を指差す。
「俺はあんたと契約を交わしたよな。この本の紙を使って」
「それが、何?」
「気がついたんだよ。俺は俺の名前のサインを日本語で書いた。――つまり、もしも契約文が日本語だとしても、適用されるんだってな」
「……まさか」
楠男は本の紙を破っていた。もしもあれが、契約を無効にするための自暴自棄な行動ではなく、利用するためのものだったとしたら話は違ってくる。
「そう。俺はあんたとは別に、シルフィと新たに契約を交わしていたんだよ。お互いに決して裏切らないってな!!」
「だけど、ペンは――書くべきものは何もなかったはずなのに……っ!」
「ああ、なにもなかった。だから、書いたんだよ。――――俺の血でな」
「なっ――ま、まさか――そのために、自分から怪我を――!?」
楠男は血文字で書かれた契約書を、懐から取り出した。
そこには、どちらかが裏切ったら金貨一千枚の罰金を支払うというルールが定められていた。
「あんたはペラペラと自分のスキルについて喋っていたな。スリル大好き人間みたいだが、今回はそれが仇となったな。あんたの持っているスキルは、自律型のスキルだとあんた自身が喋ったんだ。その時に俺は思いついたんだ。あんたがいないところでも、ゲームの最中だったら『束縛の審判』を呼べるんじゃないかってな」
一度、魔力を練ってから天使は発現される。
しかし、魔力消費量が多い『束縛の審判』は、そのままずっと姿を現したままだとすぐさま消滅してしまう。
キャサリンがまた魔力を消費すれば、また発現できる。だが、それだといずれキャサリンの魔力が枯渇する。だから、用事がない時は『束縛の審判』は姿を消している。キャサリンはそのせいで気がつかなった。楠男とシルフィが個室で呼び出していたことを。
「そんな……馬鹿な……。だけど、スキルで発現した紙はいつの間に懐に……。確かにあの時お前は持ってなかったはず……。いくらなんでも、お前があの紙を仕舞って自分のものにしようとしたなら、気がついたはず……。――いや、そうか……お前……あの時……」
「そうだ。俺がわざとあんたに殴りかかって『束縛の審判』に腕を折られたのは、別に錯乱する演技だっただけじゃない。誰しもあの瞬間、俺の折られた右腕に眼がいくよな。その隙を狙って俺は逆側の腕を使って、こっそりポケットにしまっておいたんだよ。手品師が観客の注意を他に向ける要領で、心理的死角をついたんだ」
「こ、こいつ。いったいどこまで計算して――」
ガクン、とキャサリンは項垂れる。百戦錬磨のギャンブラーだからこそキャサリンは、主戦場で戦わずに、ここまでのパフォーマンスができる相手が信じられなかった。本来だったら、緊張で手が震えていてもおかしくないのに、こんなにも鮮やかに出し抜かれたのは始めての経験だ。
(間違いなく、こいつはこの異世界に来たばかりのひよっこだったはずだ。なのに、この短期間の内にどれだけ成長したんだ……。並みの適応力じゃない、こいつ……)
キャサリンは生まれて初めて、異世界人に対して畏怖の念を抱いた気がした。
「俺の勝ちだな」
「くそがあああああああああっ!」
激情のまま殴りかかると、自分のスキルのはずの『束縛の審判』に受け止められる。
暴力行為に抵触してしまい、キャサリンは楠男のように容赦なく腕を折られる。
「あ、ぐぅう!」
折れてしまった腕を押さえる。久しぶりの完全敗北の痛みに苦しみながらも、キャサリンは疑問を口にせざるを得なかった。
「あ、ありえない……。こんな悪魔じみた発想を、こんな子どもが……。ましてや異世界人の、ニホンだとかいう平和ボケした国のただの一般人が思いつくはずがない……。あ、あんたは一体……!?」
「――やれやれ。知りたいか? なら教えてやるよ。俺はどこにでもいる普通の高校生――って言いたかったけど、大分スペックが落ちるから……。一年引きこもりニートしていたせいで、留年決定したし……。そうだなあえて名乗らせてもらうなら……俺は異世界から転移してきた、どこにでもいる普通の落第生だよ」