01.血のバレンタイン
バレンタインデーは、死刑執行日だ。
ギロチンで一気に殺すのではなく、真綿で首を絞めるようにじわじわと殺される。
朝、下駄箱を開き、机の中を覗き込み、休み時間は常にそわそわする。そして、
(あれ? まだもらっていない。もう放課後なのに、どうして? ――はっ! そういうことか! 俺のことが好きなあの女の子は、とても、とても奥ゆかしいのだっ!! きっと、眼鏡を掛けている本が好きな女の子。教室ではいつも端っこにいて、本をずっと読んでいる。無口で、男慣れしていない。知的で、化粧なんかを知らない今時珍しく純粋な子で、こっちが可愛いね、っていったら耳たぶまで真っ赤にしちゃう子。そんな子が、目立つことをするだろうか? いや、しない! だから、楠男くんわぁー帰宅部だけどぉ、私は帰らずに待ってあげなきゃ! きゃわわっ! みたいな感じなのだ! そして、彼女の手作り本命チョコをいただこう! そして、そして――――――)
「まっ、結局、今日は一個もチョコもらってないんですけどね!」
待ち続けて三時間。
本命どころか、義理も何もかも、もらえませんでした。だんだん暗くなっていく教室で、ぽつりぽつりと蝋燭の火が消えるみたいに人がいなくなっていって。最終的には一人ぼっちになって、高校二年生にもなってマジ泣きしそうになりました。
「恥ずかしいっ! 恥ずかしいっ! 絶対みんなに、うわ、こいつチョコ期待してんの? とか思われたよ! 絶対ばれてたよ! みんな半笑いでこっち見てたもんっ!!」
江藤楠男。
顔は量産型で、どこにでもいるふつーの容姿。身長は男子高校生の平均より、ちょい低め。制服はまじめに着こなし、乾燥しやすい唇にはリップを塗っているぐらいで、他には何も手を付けていない。
髪の毛は千円でカットできる床屋で切ってもらっていて、オサレさはゼロ。ツーブロックやら、髪を立たせたりとかは一切なし。ストパーも、髪を染めることもしていない。コンビニのファッション雑誌も数えるぐらいしか買ったことがない。
別に真面目という性格ではなく、ただただ面倒なだけ。
そして、友達はいない。
勉強はできない。
スポーツもできない。
ついでに、女子にモテない。
趣味も特にない。強いて言うなら、漫画とかラノベとかアニメとかインドア系だが、暇つぶし程度の嗜みしかない。ガチオタではない。
全てにおいて、どこにでもいる平凡な男子高校生よりも、スペックが低い。
なんの長所もない男。
それが、江藤楠男だ。
「大丈夫だって。来世にはチョコ一個ぐらいもらえるから」
「俺、このままじゃ、一生チョコもらえないぐらいモテないの!? 全然大丈夫じゃねぇだろ、それっ!?」
ポン、と肩に手を当ててきたのは、一つ年下の女子生徒。――の癖に、ためぐち全開なのにはちょこっと理由があるが、ここでは省かせてもらう。
男子の制服とは違って、リボンをあしらった可愛らしい制服を完璧に着こなしている。
日本人とアメリカ人のクォーター、髪の毛は金髪。そのせいで生活指導に眼をつけられて大変と本人は言っているけれど、きっと髪の色のせいじゃない。
どうしても、眼がつく。
街中を歩いていたら、同性でさえも通行人が振り向いてしまうぐらい顔が整っているのだ。
有住愛。
名は体を表すというけれど、アリスというあだ名に何の違和感もないのが不思議だ。動物とお話しできちゃうんだよっ! この世界とは別の異世界――鏡の国にだって行き来できちゃうの! とか言っても誰もツッコミがいられないぐらいにアリスっぽいのだ。
リスが手に持っていそうなアーモンド型の瞳。
鼻梁は整い、口元はぷっくらとしていて、ぷにぷに触りたい衝動にかられる。肌は白く、ドレスを着たらきっと、お姫様になれるだろう。
本性を知らなければ、の話だが。
小柄で大人しそうな顔をしているせいで初対面の奴らは騙される。いや、同じ学校の奴らはみんな、この外面のいい悪魔の尻尾をつかめていないのだ。
家では酷い。やたら装甲の薄い装備をしていて、チラチラ服の中身を見せてくる。悪魔というよりは小悪魔。自然と眼が吸い寄せられていくが、それを毎度咎められる。女の子は男の視線に気づいているからっ! とかお決まりの台詞を吐かれても、納得できない。
それじゃあ、男がスカート穿いていて、それでパンツが見えそうだったどうする? 観るだろ? 上半身はだけさせて、乳首見えそうだったらどうする? 観るだろ? 別にやましいことがなくとも、異常な光景には反射的に眼がいってしまうのが人間の本能。抗えるわけがない。
(まっ、俺のは純度百パーセントのやましさで眼がいってしまっているが)
問題はそこではない。家だとだらけきっているのが悪い。仰向けにソファに寝転がったと思ったら、生足披露。風呂上りにシャツ一枚に短パンとか、そんな思春期の高校生にとって目に毒な光景ばかり見せられる。そんな隙だらけの姿を学校の連中に見せれば、学年主席の優等生の厚化粧は簡単に剥がれ落ちるだろう。
家と学校では性格が違い過ぎて、解離性同一性障害を疑うほどだ。
親にでさえ猫被っているのに、こうして二人きりになると途端に本性を剥き出しにする。コテン、と首を肩辺りに置いて、体重をそのまま預けてくる。そんなこと、他の誰にもしない。つまり、どうやら、楠男はすっかり嫌われているらしい。
まともに話すようになって、約一年。
何度も同じ釜の飯を食べ、会話を積み重ねた。
親密度がそろそろ上昇してもいい頃合いなのだが、まったくといっていいほど好感度のパラメータが反応しない。ゼロ、というよりは、むしろ、マイナス方向に舵を切っているのではないだろうか。
「そんなに落ち込まないでって。今日はちゃんと楠男のことを慰めるために、わざわざ残ってあげたんだから」
「おい! 楠男って呼ぶなって言ってるだろ? 誰かが聴いてたら、どうするんだ!? 名前で呼ぶんじゃなくて、苗字で呼んでくれ! クラスの連中に、変な誤解が生まれていて大変なんだから!」
「ええー? 変な誤解ー? それって、どんな誤解ぃー? 詳しく聞かせて欲しいなあ」
「なんでそんなに嬉しそうなんだよ! どんだけ俺が苦しんでいる姿を見て、喜びを見出してるんだよっ!!」
にまにま、と本当に嬉しそうに笑う姿は、まさに邪悪の化身。どこまで苦しめれば気がするのだろうか。やっぱり、アリスは危険極まりない人間だった。
「ほら! あの制服、同じ高校の奴じゃないのか? 俺達が恋人同士だとか吹聴する奴らのせいで、俺は相当学校生活がしづらいんだよ! 凄い恨まれてるんだ……。男子どころか、お前のことを妹扱いでかわいがっている女性からも睨まれているんだからな……」
ビシッ、と横の座席に座っている女子を指差す。
そう。ここはバスの中。
先ほどからどしゃ降りで、射線を描く雨が窓に激突しまくってうるさい。そのせいでこちらの声も相対的に大きくなってしまっているせいで、ちょっと離れて座っているあの人にも話は筒抜けだろう。眉を顰めながら、チラチラ大声の発生源を迷惑そうに見咎めるのがその証拠だ。
あまりにも激しい雨。普段は自転車通学なのだが今日は置いてきた。本当は自転車の置きっぱなしは学校的にNGなのだが、この雨ならばしかたない。みんなやっていることだ。
この雨なので、バスの利用者はもっと多いかと思いきや、前に座っている女性と楠男達以外の乗客はいない。あとバスに乗っているというか、運転しているのは、バスの運転手としては珍しい女性の運転手さんぐらいなもの。
そんな少人数構成なのは、きっと、この時間まで残ってしまったせい。
曇り空を差し引いても、空はどっぷりと闇に浸かる時間帯。みんな既に帰宅している。ここまでチョコを待ち望んでいたのは思い返すと恥でしかないが、それでも結果オーライだった。何せ、こうやって二人で仲睦まじく会話しているところを、他の連中に観られなくてすんだのだから。
楠男は別に、いじめられてはいない。
無視はたまにされる。昼休みは一人で飯を喰う。休み時間にトイレから帰ってくると必ず椅子を使われる。だけど。ちゃんと話しかけられはする。消しゴム持っているか? とか、アリスのこと紹介してくれない? えっーと、お前の名前なんだったけ? とかクラスメイトに言われる。
――うん。全然いじめられていない。絶対、いじめられてなんかないのだ。
「あれれー。そうなのー? じゃあ、こうしたらもっと誤解されちゃう?」
「うわっ! ばっ! やめろ! こんなところで抱きつくな!!」
逃げ場がない。
窓側の席に座っているせいで、逃げられるスペースなどない。そのせいで、腕に当たっている胸の感触も感じてしまう。ちょっと小ぶりだけど、そのマシュマロみたいな柔らかさに思わず視線も下がってしまう。
しかも、二つの双丘で挟み込むようにして腕をホールドしてくるあたり、絶対に確信犯だ。このままじゃ色々と壊れてしまいそうだ。
「やめろっ!!」
「あうっ! ひどい! 女の子を突き飛ばすなんて!」
「ひどいのはお前の言動の方だよ。……ったく、こっちは傷心しているっていうのに、そっちは楽しそうで何よりだなあ。なんでそんなにテンション高いんだよ。――何かいいことでもあったのかい?」
「今日は、水泳部お休みだから」
「休み? じゃあ、なんでこんな時間まで残ってるんだ?」
「そ、それは……その……作ってたから……」
「なにを?」
「チョコだって! チョコ! 家庭部の友達に頼んで調理器具借りて、家庭科室で作ったの! 実は昨日も作ってたんだけど間に合わなかったの! 悪い!?」
「な、なんでキレ気味なんだよ。……そっか、チョコあげるやついるんだ……」
アリスには、本命か義理なのか分からないけれど、チョコをあげたいと思う奴が、好きな奴がいるってことだ。
それは女子高校生として当然だけど、やっぱり寂しい。
だって、今、一番、物理的にも、心理的にも、楠男の一番傍にいる異性は、アリスなのだ。そんな彼女が好きな奴がいるなんて聴いて、意識しない方がおかしい。理由は分からないけど、こんなにも落ち込んでしまっている。
もちろん、疑問は口には出さない。出したくない。その、チョコあげるやつって、誰? とか、目線を逸らしながら、さも、そんな気にしてませんよ、とか気軽に訊きたい。けれど、やっぱり、そんな演技できるわけがない。ボロがでてしまう。
だから、何も訊かないことにした。それなのに――
「はい」
アリスが、袋の中から、包装された箱を取り出した時には素で驚いてしまった。
「――えっ?」
「チョコ、あげるよ。かわいそうな先輩のためにっ! もちろん、完全っに――義理だけどね!」
「えっ? ああ、ありがとう……」
「……? なんなの。その反応? 嬉しくないの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
消え入るような声で、感謝の言葉を呟くことしかできなかった。ほとんど無反応。それは、別に嬉しくなかったわけではない。あまりの感動に、ちゃんと反応することすらできなかっただけだ。
そうなった答えは、まさに不意打ち。
心の準備をしていたなら、普通に、あつ、サンキューとかるーく言えた。だけど、アリスに意中の相手がいると分かって落ち込んで、そこから今日一個ももらっていないチョコをもらったのだ。
嬉しくないはずない。楠男のことだけを悪く言うこともあるけど、それは逆から言えば遠慮をしていないということだ。気が置けないというだけで、悪意はきっとない。
そう。見た目と同じで実は純粋なのだ。手作りのチョコ。そして、包装紙やリボンもきっと自分で買って、チョコの箱に飾り付けたのだろう。
もしかしたら、アリスのことを誤解していたかもしれない。計算高い小悪魔なんかじゃない。どこまでも、純粋で、どこまでもいい子で。きっと、天使なのだ。まさか、ここまでの楠男の心情の推移は予定調和。全てアリスがタイミングを計って、仕組んだなんて、そんな訳がない。
「ん?」
外は雨だけど、心はまさに青天そのもの。――だったのに、視界の端に写る不穏な物体。
アリスが取り出した手作りチョコの他に、紙袋にはまだ何かが入っていた。それは、まさしく――チョコの山だった。
「めちゃくちゃチョコあるんだけど!? なに、そんなに配る相手いるの!?」
悪魔、悪女、どころの話ではない。
ビッチだ。
相手が誰だろうと関係なく、色香を振りまくビッチ。
ただの義理チョコで、クラス全員に配布するならばもっと小さいもののはず。だけど、アリスの脇に置いてある紙袋の中身は、だいたいが箱。ちゃんとしたチョコなのだ。それを配り歩くということは、やはり人の心を掻き乱すことに長けているビッチだ。
「ち、違うって。これはもらったやつっ! 友チョコ、友チョコだって。女友達からもらったやつ!!」
「……え? そうなの? よかった。いや、良くないか。俺より女のお前の方がもらってる……。まじか……」
「な、なに。私の義理チョコ一個あるんだから、いいじゃん……。そんなに義理が嫌なの?」
「いや、嬉しいっ! 嬉しいです! ほんとに! た、たださー。去年は5、6個ぐらい義理チョコもらえたのに、今年一個ももらえてないんだよ」
「へ、へぇ……」
ガサコソと、紙袋の中のチョコに、何か気になることがあるのかアリスは触り始める。それがどうも無意識のようで、目線はしきりに泳いでいる。
「去年もらえた子に、もらえないのってさあ……。ある意味去年ゼロ個だった時よりも絶望的だよ……。なに、俺嫌われる様な事したかなって。クラスの男子全員に配っているはずのいい子にでさえも、俺だけもらっていないみたいんだよ……。やっぱり、そういうのってショックだろ? クラスじゃ、女子どころか男子とも話さずに、班行動の時にいつも余って、先生を困らせる俺だからしかたないのかもしれないけどさ……」
「あー、うー、そ、そうなんだー」
「……なんだよ、アリス。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「い、いえ別に……」
「本当か?」
「あー、いや、ただ、このチョコどうしようかなって思って」
「食べるんだろ? 流石にその数は一日で喰いきれないと思うから、冷蔵庫だか冷凍庫だかに入れて保存しておけばいいんじゃないの?」
「そうじゃなくて。実はこれ、私のだけじゃないんだよね。渡す勇気がないから代わりにあげて欲しいって頼まれたやつもあって……。それはどうしようかと」
「ええっ!? どうするって、もう帰りのバス乗ってるんだから、渡せないだろ!?」
「いえ、それは大丈夫なんだけど……」
何故か要領を得ないアリス。何か隠し事でもしていそうだが、だからといって問い詰めても答えそうにない。
「まっ、普通に渡せばいいんじゃないのか?」
「怒られない、よね? 私、まだその人に、代わりにチョコもらってたってちゃんと言ってないんだよね……」
「怒るわけないだろ。むしろ、喜んでくれるに決まってる」
「そ、そうだよね! 私、怒られないよねっ!」
何故か、急に元気を取り戻して、たじろぐ。あくまで一般論を話しただけで、そのチョコをもらうはずの本人でもない奴の意見をここまで鵜呑みにしてもいいのだろうか。
「あ、ああ、そうだな……」
「よしっ! 元気でてきたっ! 私、このバスが止まったら真っ先に、渡してあげよっ!!」
どうやら近所らしいが、楠男には縁もゆかりもない話。
(俺には、これがあるからな)
ポケットに手を突っ込んで、アリスに見つからないよう密かにほほ笑む。
手触りのいいリボンに包まれている、手作りチョコ。
大切に。
一口一口を噛みしめるみたいに食べるつもりでいる。今年はこの一個だけなのだから、というだけじゃない。なんたって、ずっと一緒にいるアリスから、初めてチョコをもらったのだ。嬉しくないはずがない。帰ったら絶対にこのチョコを美味しく食べてやるんだ。そんな風に思って、そして――
乗車していたバスが、ガードレールに激突した。
バスの前を何か動物か何かが横切ったのを避けるための、急ブレーキ。それだけならばまだ無事だった。だけど、運転手は咄嗟に左にハンドルを切って、そのままガードレールに突っ込んでしまった。
その先にあったのは、崖下。一瞬の浮遊感の後、待っていたのは胃がひっくり返るような落下。
「きゃああああああああっ!!」
「うあああああああああっ!!」
そのまま地面に直撃するわけではなく、崖の岩や木々へとぶつかってバスは横転する。そのまま気絶してしまった。
――そして。
どのぐらい気絶していのかは分からないが、痛みのあまり目が覚める。
「いって――」
いつの間にか、バスから降りていた。
どうやら楠男は、横転しているバスの割れた窓ガラスから外に出たらしい。そのまま地面を這いずった跡がある。そのことを、楠男はおぼえてなどいない。
「おい、アリ、ス……?」
どこにもアリスの姿はなかった。それどころか、
「うぎっ……。……………あ?」
ひしゃげていた。骨の強度なんかまるで無視。足そのものがまるで潰れた鉄パイプみたいにへこんでいた。
「足が、俺の足があああああああああああああああああっ!!」
それだけじゃない。
全身が打撲やら切り傷しかなく、刻まれた裂傷からは止めどなく血が流れる。ミチミチッと肉の引き千切れるような音が各部から聴こえてくる。
「いや、だ、動きたくない、だ、だけど――」
立ち上がるのすら億劫だが、そうも言っていられない。ここにいないアリスのことが気になった。
(まさか、死んでいないよな。アリス。さっきまで隣にいた。一緒にふざけあって、笑い合っていた。――それなのに、こんな交通事故で……。こんなあっけない死に方なんてありえないよな……)
楠男はバスの周りを周回する。今にも欠損しそうな足を引きずりながらも、歯噛みして耐える。
雨が降り続けているが、まだバスは炎上したままだった。意識を喪う前よりかは小ぶりになっているとはいえ、まだ鎮火していないということはまだそれほど時間は経過していないということだ。だとしたら、楠男の隣にいたアリスはまだ近くにいるはずなんだ。
痛みと、不安で心が押し潰されそうになる。今、楠男にとって唯一の心の支えは、アリスだけだった。
「アリス、アリスっ!!」
灰が口の中に入ろうが、どれだけ喉が枯れようが関係ない。
アリスの名前を呼び続けた。その想いに答えるように――いた。
人が、いた。楠男以外の生存者だった。
「あっ、だ、大丈夫ですか?」
透明なレインコートに身を包んだ女性へと駆け寄る。
どうして後姿で女性だと分かったかというと、身体の輪郭がほっそりとしていて女性らしかったからだ。それに、バスの中にいたのは女性しかいなかった。
レインコートなんてアリスは着こんでいなかったから、恐らく他の二人だと思って普通に話しかけた。何の考えもなく、普通に。――だけど、それはきっと間違いだった。
「えっ」
足が、止まる。
レインコートの女性は、ガッ、ガッ、ガッ、とまるでスコップで地面を掘るようなしぐさで、何度も、何度も手に持っているものを振り上げては、下ろしていた。その繰り返し。なんでこんなところで穴を掘っているのだろうと、声をかける前に疑問に思うべきだった。
さっさと逃げるべきだった。
「あっ、いやっ、もうやめっ! んあっ」
ひたひたと、破滅の足音が聴こえた気がした。耳を塞ぎたい。せめて、発狂でもして何もかも見て見ぬ振りができさえすれば、まだ救いはある。それなのに、全身を蝕む痛みがまだ現実のギリギリの淵まで踏みとどませる。だからこそ、目の前の惨劇から目を逸らすことができない。
「お願い、やめっ、んっ、ああああああああああああああああああああああああああっ!」
スコップを振り下ろす度に、悲鳴が聞こえた。
いや、手に持っていたのはスコップなんかじゃない。それは、赤く濡れたナイフだった。そして、そのナイフの振り下ろす先にいたのは、間違いなく――
既に眼の光が喪失しているアリスだった。
ビカァッッ!! と、近くで雷鳴が鳴り響く。
その後に発光して、見えづらかった闇が切り裂かれる。ナイフを振り下ろしたレインコートの女の顔が見えた。そこにいたのは、返り血で顔の全てを真っ赤に染めた、殺人鬼の顔だった。
「あああああああああああああああああああああああああっ!!」
絶叫した楠男に、レインコートの女がナイフを投擲する。まるでやり投げの選手のように投げられたナイフは、太ももに命中した。
「うあっ!」
膝をつく。
ナイフが突き刺さったまま取れない。まるで熱せられた鉄を傷口に押し当てられているように痛いが、だからといってこれを自分の手で抜き取る勇気はない。
「ぐっ……」
楠男が視線を前に戻すと、既にレインコートの女は肉薄していた。
「あああああああああああああっ!!」
腕を交差する前に、レインコートの女が持っていた二本目のナイフは胸に突き刺さる。それから、何度も、何度も突き刺してきた。ポタポタ、と涙のようなものが落ちてくるのは、アリスの返り血か。
「やめろっ! やめてくれっ!!」
最初は抵抗していたけど、レインコートの女の攻撃があまりにも躊躇がないせいでそんな気力はなくなってく。人間の急所を知りつくし、そしてそれを間髪入れずに狙える冷酷さ。一連の行動は作業的で、人を殺すことに慣れているようだった。
「た、すけ、て」
片目を潰され、半分の視界でしか世界を視ることができなくなっていた。
最後に楠男が視たのは、自分の心臓へと振り下ろされる白刃。ほどなくして、楠男は絶命した――。