入学の日 【1】
このお話はフィクションです。
ある年の春で四月、つまるところ新学期の時期。ある家の少女が洗面台に向かい、跳ねた髪を丁寧に直している。セミロングの髪が、櫛を通すたびに軽く揺れる。自分の頭を触り、鏡を見て満足したら、胸元のリボンを整える。両手でリボンの端をつまみ、軽く直すと満足げにニコニコと笑う。制服に身を包み、やる気満々のその姿は、華の高校一年生といった感じである。
「はるちゃーん、ご飯出来てるよー」
「はーい、お母さん!」
母親に呼ばれた少女はるちゃん――橋本陽菜――は、ぱたぱたと小走りして自分の定位置である椅子に座る。それをほんわかとした雰囲気で彼女の母親は見つめ、味噌汁を目の前に置く。自分の分もよそって席につき、二人で手を合わせる。白米・味噌汁・漬物・魚という日本人らしい朝食を、二人ともニコニコしながら食べている。
ふと、陽菜がテレビを見ると、朝のニュースで学校の入学式が特集されていた。
「この学校ってうちの県のやつだよね」
「あら、そうねぇ。確か、四駅ぐらい先の大学だったかしらねー」
はしゃぐ男の子や、緊張している女の子、サークル勧誘をしている先輩であろう男女が、テレビの中でぎゅうぎゅう詰めにされていた。そういえば幼馴染みのお兄ちゃんも大学生だなぁと、思いふけりつつ漬物を食べる。ぱりぽりと小気味好い音を鳴らせながら白米を食べ、味噌汁をすする。日本に生まれてよかったなどと小さな幸せを感じていると、テレビではインタビューが始まっていた。こういうのやるよねぇと思いながら見ていると、何やら見覚え聞き覚えのある者が出てきた。
「んおっふぅ!」
「あらあら、女の子なのにダメよ、そんな声出しちゃあ」
「だ、だってお母さん! 見て! 関さんちのゆーなんのお兄ちゃん!」
「そおなの? ……あらあら、ほんと。相変わらずさわやかねぇ」
テレビでインタビューを受けていたのは、隣に住む幼馴染みの関さんちのゆーなんなる少女の兄であった。それに驚いていると隣の家から絶叫が聞こえてきた。関さんちである。
「あぁ……あっちでも見てるのね」
「関さんのお家は朝から元気ねぇ」
うふふと口に手を当てながら笑う母を見て、流石にゆるすぎだと娘ながらに思う陽菜であった。いつもの事なので、まあいいかと思考をきりつつ漬物を摘まみながらテレビを見ると、インタビューは終わっていた。どうやらゆーなんの兄の大学で撮影をしていたらしく、見慣れた大学が映っていた。見慣れているのは、この地域で行ける大学が二つしかないので、地方紙でも学校のパンフレットでもなんでも載っているためである。
因みにテレビで映っていたのが国立で、もう一つが私立である。
「あむ、んー……大学かぁ。よくわかんないなー」
「ふふ、はるちゃんはまだ高校に入学したばかりなんだから、そんなに急ぐことは無いと思うな」
「そだねー。てゆーか、地元で大学行くなら二つしか選択肢無いから迷うことはないんだけどさ」
「あら、はるちゃんはずっとこっちにいるのかしら?」
手をきゅっと合わせた陽菜の母こと裕美がふんわりと笑うと、陽菜もんーと唸りながら牛乳を飲む。
「そんなに東京とか、そっちに出たいっていう気持ちが無いんだよね。遊びに行くとかならいーんだけどね」
「そうなの。時代は変わったのねぇ……私たちの時はみーんな都会に出るんだーって言ってたんだけれど」
しみじみと言いながら味噌汁を啜る裕美は目を細めて、ちょっぴり嬉しそうに笑った。
「でも嬉しいわー、はるちゃんがお家にいてくれると寂しくないもの」
「お父さん出張してるからねぇ……あ、お母さん、ごちそうさま」
他愛のない会話をしていた陽菜が、チラッと時計を見てささっと残りのご飯を口に入れた。そろそろ用意をしないといけないぐらいの時間である。具体的に言うと午前7時30分ぐらい。
朝からウキウキで先に着替えてからごはんを食べていたため、もう一度洗面所に行く羽目になったのであった。
◆
「いやぁ、朝から絶叫しちったよ」
「そりゃあ大声出すよ。ゆーなんのアルトヴォーイスはここまで届いてましたよ」
「ハルさー、そのゆーなんってのやめない?」
玄関先で靴を履く陽菜を待っているのは、先程絶叫していた関さんちのゆーなんこと関悠奈。新学期の朝ではあるが、その姿は既に残業後に電車でつり革にしがみつくお疲れのサラリーマンのようである。もう疲労している彼女に苦笑いをしながら爪先をとんとんと叩き、靴の調子を整える。ゆーなん呼びでさらに疲弊した悠奈を見て、陽菜はきょとんとした顔つきになる。
「あれ、嫌だった? 昔からずっとそう呼んでるから別にいいのかと……」
「いや、さ。なんていうか、俺のキャラじゃあないと思うわけよ」
「俺っ娘だもんね、ゆーなん」
「あら、可愛いと思うんだけれどねぇ」
片付けが終わったのか、タオルで手を拭きながらぽわぽわしたお母様が現れる。親子揃ってニコニコしながら悠奈を見ており、さらに疲労メーターが溜まっていく。なんとなく自分の頭にゲージが見えるようだと思いながら、唇を尖らせて腕を組んだ。
「ハルも裕美さんもやめてよー、俺はかわいー系じゃあないから似合わないってぇ」
「うふふ、ゆーなちゃんったら照れちゃってー。かーわいっ」
「ちょっとぉ! 裕美さん!」
褒められて少し顔が赤い悠奈を裕美が抱きしめた。わたわたする悠奈を尻目に、悠奈は苦笑して玄関を開けて外に出る。
「いちゃいちゃしないで行くよー、ゆーうなーん」
「あ、おいこら待てやぁー! 裕美さんも離して! もう!」
「あぁん」
無理矢理振りほどかれて、よよよと言いながら床に座り込む裕美。さながら昼間のドラマに出てくる男に弄ばれた人妻のようである。人妻は正解だが。
「お母さん行ってきまーす」
「ちょっと待てってば! 裕美さん行ってきます!」
「はーい、いってらっしゃーい」
走って出ていく2人に微笑みながら手を振って見送る。裕美の大人っぽい笑みは、まさに母親というのにふさわしいと言える顔である。そんな彼女に手を振る陽菜に追いついた悠奈は鋭いローキックを放った。
「いったァ!? 何すんのさ!」
「お前が悪いんだろ! 朝からからかいやがって!」
「いやいやゆーなん、これはアレだよ、アレ。えーっと、そう、ボディランゲージ的な?」
「そんなコミュニケーション必要ないだろ」
憤慨している悠奈をあれやこれやと言い訳をしてなだめる陽菜だが、中々機嫌が直らない。ふくらはぎを綺麗に蹴られたらしく、若干足運びがふらふらしている。若干悪いと思っているのかチラチラと陽菜を様子を見ていたのに気付いたのか、当の本人がニヤリとしつつ悠奈の腕に抱き付いた。
「何さ。抱き付くなよ、うっとーしいわ」
「いやー、ゆーなんに蹴られた足が痛むんだよなー。チラッ。生まれたての小鹿のハルちゃんになっちゃってるんだよなー。どこかに何かいい支えが欲しいんだよなー。チラッ」
「もっとうっとーしいわ! ウザい!」
「あぁん、引きはがさないでよぉー」
思い切りべりっと剥がされたが、少し気にしてはいるのかゆっくり歩きだした。それを見て陽菜はさらにニヤニヤし出した。以後エンドレスになる予感がしてくる笑みである。
しかし、ふと悠奈がばっと振り向いた。
「そうだ! ハル、お前今日のニュース見た?」
「ああ、ユキ兄出てたやつ?」
「それそれ。朝ご飯食べながらテレビ見てたら兄ちゃん出てくんだ、ほんとびっくりだった」
「そりゃあ自分の兄がテレビにばばーんって出てくると、流石にね」
ほんとだよ、と言ってふんふんと鼻息荒く語る悠奈を見て、陽菜はクスッと笑う。今話題の悠奈の兄である関行人は大学生で、先程テレビのインタビューを受けていた人物である。さわやか系のややイケメンで、陽菜及び橋本家とも交流がある。というより、橋本家と関家が家族ぐるみの付き合いで、年上の幼馴染みといった感じとなっている。
「しっかしおかしくない? 兄ちゃん大学二年じゃん。入学式のインタビューに出るのおかしいよね」
「あー、うん、確かにね。ユキ兄に聞かなかったの?」
「聞いたんだけどさぁ、入学式とかそういうのじゃないって言っててさ」
「どゆこと?」
「つまり、新入生とかそういうのが対象じゃなかったということだよ、ワトソン君」
「それは本当かいホームズ!」
ノリノリで会話しながら歩いていく。二人は徒歩で行ける高校に入学したので、一緒に行こうと前々から約束していたのである。地元の高校で、偏差値はそこそこと言ったところ。
「成る程なぁ、とりあえず春シーズンで学生にインタビューしましたって感じだったのかぁ」
「そうそう。兄ちゃん顔はまあまあいけてるからな、引っかかっちゃったんだろ」
「だねぇ。本人は量産型整形イケメンが整形を失敗した顔面って言ってるけど」
「失敗したら顔面爆発してるでしょ」
「確かに」
「そう言えば最近会ってないなぁ、ユキ兄。ね、ね、今日遊びに行ってもいーい?」
「相変わらず兄ちゃんお気に入りだなー、ハル。いいよ、多分大丈夫だと思うし」
「やったぁ、お許しが出たぁ」
にへっと顔を崩して笑う陽菜を見て、悠奈はふっと優しい笑みを浮かべた。仲良しなので、色々言いつつも二人で遊ぶのが楽しいのだろうということが分かる微笑みだ。因みに行人とは最近会っていないと言っているが、一週間前に遊んだばかりである。
「二人とも、相変わらずですねー」
後ろから声を掛けられて振り向くと、くせ毛の女の子がいた。二人と同じ制服を着ていて、ぱりっとした新品さを見せている。それを見た陽菜はぱぁっと笑顔になり、悠奈は呆れた顔をした。
「おはようカナちゃん!」
「おはようございます。陽菜ちゃん、悠奈ちゃん」
「……おはよ、香奈美」
あいさつをしてきたのは大谷香奈美。二人の友人であり、中学校の時の同級生である。学校ではこの三人で一緒にいて、『ユナカナハルナ』という不思議なトリオを結成しているという設定を付けられている。
「どうしたんですか? 元気ないですねー」
「あれ、ゆーなんどしたの? さっきまで元気だったじゃん」
「香奈美さぁ、アンタの家学校のすぐ近くじゃないの?」
「そうですよ?」
「何でこんなところにいるのさ、しかも私たちの後ろ!」
「確かに!」
陽菜がそういえばといったようにハッとした顔をする。それを横目で見てさらに呆れる悠奈。香奈美はそんな二人を見てにっこりと笑う。
「決まってるじゃないですかー。お二人と一緒に登校したかったんですよー」
「え?」
「だって、中学の時は一緒に遊ぶとかなかったんですもん。登下校もしなかったですもん。寂しいですもん! お二人と一緒に学校行ってみたかったんですもん!」
「何だよ、もんもん言って……気持ち悪いってーの」
「あぁ、ゆーなん照れてるねぇ、いひひ」
「うるさいッ」
「いだぁ!」
先程と同じように鋭いローキックを陽菜にかまし、悠奈は一人で先に行ってしまう。痛がって唸る陽菜を横目にしつつ、痛そうですねーと言いながら香奈美も先に行ってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってよぉ!」
慌てて片足をぴょんぴょんさせながら追いかける陽菜と、じっとりとした目で睨む悠奈。それを見てあははと笑う香奈美。この不思議な三人が、『ユナカナハルナ』である。なお、悠奈はこの二人と同列で扱われることに対して不満を抱いている様子。
「本当に相変わらずですねー」
「くぅー、ゆーなん、お前さんは、いいローを持っていやがるぜぇ」
「ふざけてないでさっさと行くよ。ほら、学校見えてるし」
悠奈の指をさす先には、学校と校門が見えていた。他の生徒が続々と門をくぐり、立っている先生は大きな声で祝いの言葉を述べている。生徒は地元の高校で進学校ではないためか、そこまで緊張している人はいない様子で、みんな笑顔である。
「おぉ、学校だ!」
「学校ですねぇ」
「学校だな。ほら、行こう」
三人はちょっぴり小走りで学校に行く。先生から「入学おめでとう」という言葉を受け、クラスが張り出されている掲示板へと向かった。人がごった返しており、様々な声が聞こえてくる。知り合いと同じクラスだと分かるとハイタッチをかまし、違うと分かると露骨に肩を落とす人もいた。
「凄い人の量ですねー。クラス自体も結構な数なんですねー」
「そだねぇ、八組まであるっぽいねぇ」
「そうっぽいんですか?」
「そうっぽいよ」
「ぽいぽい言ってないで確認しなよ。先行くよ?」
「わぁわぁ! 待って待って!」
慌てて掲示板を見ると、ずらっと名前が並んでいる。物凄い量で、自分の名前が分からない。本当に載っているのかという不安さえ出てくる数なので、陽菜の目が若干ぐるふるとし始める。隣で香奈美が見つかりましたーと言いはじめ、さらに混乱して、何故か息が荒くなっている。すると、溜息を吐いた悠奈が、陽菜に見えるように指差した。
「あそこを見なよ」
「はッ! え、どこどこどこどこ?」
「そこ」
「そこッ! あ、あった! あ、ゆーなんと同じクラス!」
「まあ、そうだなっておい!」
「ゆぅなーん!」
ちょっぴりテレ顔をした悠奈に思い切り抱きつき、顔をすりすりする陽菜。二人はちょっとだけ注目されていたが、他でもハイタッチやら嘆きの声やらしていたので、大目立ちすることは無かった。
「そんなにひっつくなってば! もう……で、香奈美は?」
「ふふ、私も同じクラスでしたよー!」
「おお! やったねカナちゃん!」
「やりましたー!」
「はぁ……元気だなー、お前ら」
全員同じクラスになって、ひとしきり盛り上がるユナカナハルナなのであった。
◆
「ふぃー、疲れちったよゆーなん」
「午前中だけなんだから、そんなに疲れる事ないと思うんだけど」
「ゆーなん、私がかぐや姫だったら登校しただけで死んでるよ!」
「まずかぐや姫っていう仮定が分かんないし、歩いて学校行くだけで死ぬのも分からん」
「ユキ兄がゆってたよ、平安時代の話で走ったら死んだ人がいるって」
「昔の日本人弱すぎ大事件だな、それは。……はぁ、なんて中身のない話」
ニコニコ笑いながら話す陽菜と、話の中身の無さに嘆く悠奈。昔からずっとこの調子のため、この悠奈の嘆きもまたいつもの会話なのである。
「ところで今日は遊びに来るんだろうけど、ご飯はどうすんの?」
「あぁ、そだねぇ。食べてから行こうかなぁ」
「裕美さんのご飯美味しいからなぁ」
「お母さんのご飯が一番安心して食べれるよ。あーあ、カナちゃんも遊べればなぁ」
香奈美は家の手伝いがあるらしく、今日は一緒に遊べないとのことで、いつもの二人で下校している。
「香奈美は今日こそ忙しいっしょ。ご飯屋さんだし」
「ねー。新男子高校生がわっさわさいきそうだぁ」
「新男子高校生……」
すかすかな話をしながら歩いていくと、すぐに自宅に着いた。仲の良い人と一緒にいると、時間という者はすぐに過ぎていくものだと改めて感じる二人だった。
「お家着いたねぇ。また後でね、ゆーなん」
「うん、また」
「「ただいまー」」
そう言って家に入るいつもの二人であった。