ダンジョンコア 魔宮 日向 Lv.1⑤
ぷかぷかと水に浮かんでいる感覚に近かった。
塩分濃度の高い湖で体の力を抜いていると、水に沈まずにいられる、あの感覚。
だけど、今は意識して力を込めようにも指一本動かせない。ゆーったりとした空間で、ゆーったりした時間をすごし、ゆーったりと深い呼吸を繰り返す。
身体中がほんのりと暖かく、まるでお風呂に入ってるようで、リラックスに拍車がかかる。
眠ってしまおうか…… 嗚呼、でも。なにか、しないといけないことが……。
瞼を動かした覚えはない。けれどもうっすらと光が見えた。
それを注視していると、ぼんやりとしていた光は、次第に鮮明に、そしてはっきりと見えるようになっていた。
それは様々な映像だった。
チャンネルを変えるかのように途切れては入れ替わり、唐突に巻き戻り、楽しかった総集編を繰り返し、また初めから。
走馬灯のようだと、日向は思った。
小学校の運動会、かけっこで一位だったのに、ゴール直前で転んで三位にまで落ちてしまったこと。たくさん泣いてしまったこと。
幼稚園のころ、仲のよかった友達とお菓子を交換しているところ。みんなでお昼寝したこと。
高校の入学式のこと。みんながみんな、不格好で、それでもどこかカッコいい制服姿で整列しているところ。
中学のころに初めて告白されたこと。初めて告白したこと。
高校受験で勉強したこと。リフレッシュと称してゲーセンをはしごしていたこと。
家族でキャンプをしていたこと。虫捕りをしては自由研究にしたこと。
浮いては消えて、ピントがあってはピンぼけして、チャンネルが合ってはノイズがはしって。
映像は一つの物に収束していく。忘れたくても忘れられない記憶に行き着く。
そこでは、大の字に寝かされ、手足を拘束された俺が、胸を切り開かれていた。心臓を切り取られていた。
神々が俺を見下している。
涙で、鼻水で、顔面をぐちゃぐちゃに汚した俺は、ただ絶望した表情で、すべてを諦めていた。
──またチャンネルが変わる。ボタン一つを押しただけでチャンネルが変わるほどの唐突さで、切り替わる。
それは名前も知らない女の子だった。
後退り、転び、囲まれ、そして撲殺された、奴隷の女の子。死の間際が繰り返される。
グチャリ。グチャリ。
何十。
グチャリグチャリグチャリグチャリグチャリグチャリグチャリ──。
何百。
見飽きても見慣れないほどに、人の死が繰り返される。頭蓋が砕ける瞬間を、何度も繰り返し見ている。見させられている。
『どうして私を殺したの?』
幻聴が聞こえた。ああ、そうだ、こんなの幻聴だ。
あの奴隷は、俺のことを見ているわけでもない。俺のことを恨んでいるはずがない。
だが、確かに目の前で見た人の死に様は、俺の心を蝕んでいた。
……冷たい。
おでこに触れたその冷たい感触が、俺を引き戻す。
希望から絶望へ。夢から現へ。
まだここにいたい。もうあそこに行きたくない。
俺の心は折れていた。根本からポッキリと、完全に折れてしまっていた。
それでも、その冷たい感覚が、ぐいぐいと俺を引き上げる──
「あ、マスター起きた……?」
「……ナズ、ナ?」
「うん、ナズナだよ」
目を開けると、茶色の天井が視界に飛び込んできた。しかしそれも一瞬のことで、天地が逆転したかのように、逆さまにナズナが現れ俺のおでこから湿ったタオルを取り払った。
少し顎を上げて、ナズナの方を見上げてみる。が、見えたのはドレス越しのなだらかなおっぱいと、これまたドレス越しの美しい曲線美を誇る腹部だった。
どうやら俺は、ナズナに膝枕されているらしい。
もしナズナが巨乳だったなら、俺のおでこにそのおっぱいが乗っていたんだろうか。誠に遺憾である。
それに、横向きに頭を乗せるのではなく、縦向き? に膝枕をする点については減点だな。寝返りするふりしてお腹に顔を埋めることができないじゃないか!
「……『ウォーター』」
聞こえたのは詠唱。声にならない音色のようなそれを、二、三節紡がれ、湿りタオルがびしょ濡れタオルになった。
ナズナは、桶の上で軽くタオルを絞ると、再び俺のおでこに乗せてくる。
そのまま、指先で俺の髪を撫でた。その仕草が、似ても似つかないはずなのに母親のものに見えて。
折れた心が悲鳴をあげた。
「人の死を見たのは、初めて?」
「ああ……他人の死は、初めて見た」
限界なんだって甘えたい。もうこんなことしたくないって泣き出したい。なんで俺がこんな目に、どうして俺がこんな目に。なんて。
頭のなかが黒い感情でごちゃまぜになって、抑え込むので必死だった。
「……もう、限界?」
「っ ……! ……っっ」
声が出なかった。
「うん」とも「大丈夫」とも言えない。
そんなたった一言、たった一息が詰まってしまって……俺の心を甘やかすナズナの指が、さらさらと髪を弄ぶ。
嗚咽が漏れないように、情けない姿を晒さないように、必死に耐える。今はそれだけでもつらい。
確信にも近い予感があった。
きっと今、ナズナに甘えてしまったら、俺はもう二度とナズナ無しに生きることができなくなる。ナズナを中心に考えて行動してしまう。
そんな気がした。
それは、とても楽なんだろう。すごく充実してるんだろう。
だが、大切な何かを失ってしまう気がして、ただ無言を選んだ。
「マスター、もう少し頑張ってみよ?」
ナズナの慰めを嫌った俺は目を閉じて耐える。
不意に、瞼ごしに見える光が無くなったことに驚いた。目元にはふにふにした感覚。それがナズナの手だと気づき、目を覆われているのだとやっと理解した。
「もう少しだけ、頑張って。私が支えてあげるから。私がつらいことすべて、なくしてあげるから…… だから私のために、頑張って……?」
視覚が奪われた分、周辺状況を把握しようと、聴力が過敏になる。
そんなところに、ナズナの甘い声が飛び込んでくるなんて……耐えられるはずがないじゃないか。
「泣かないで、マスター……」
「ぅ、くっ……なずなぁ……」
ナズナの手のひらに、俺の手のひらを重ねた。指が触れ合って初めて、ナズナが右手を置いていたのだと知った。
ナズナの手は、暖かい。水に濡れたタオルを絞っていた手は、十分冷えていた。
だが、その手よりも……俺の手は冷たいんだ。
「俺、おれ、は……まだ生きてるのか……? 鼓動が聞こえない……体温もない……きっとなにもかも、なくなってしまった……っ」
「マスター……」
「ゲームだと思ってた……思いたかった……っ! じゃないと俺は! 俺が、生きてるのかわからなくなる……」
「マスターは、ここにいるよ……」
ナズナは、俺が生きているとは言ってくれなかった。
だが、俺が死んでいるとも言いはしなかった。
「俺は、生きてるか死んでるかもわからないのに、生きてる人たちを殺さないといけないのか……?」
「私のため。マスターは悪くないの、全部……全部ナズナを生かすためにしてくれてるんだよ」
「心臓は止まってる! 眠気も来ない! 食欲もない! 俺は…………俺は、ほんとに人間か……?」
「マスターは人間だよ。私と同じ、人間だよ……」
「──マスターは、私を生かすために生きるの。マスターが寝るのは私が一人で寝ると寂しいから。マスターがご飯を食べるのは私が一人でご飯を食べるのは悲しいから。マスターは全部私のワガママを叶えるために生きてるの」
「俺に、そうしろって、言うのか? ……お前が俺の生きる意味になるとでも?」
「私はマスターの生きる意味になる。マスターが私のワガママを聞いてくれる限り、私はマスターのワガママも全部聞くの」
「────それ、は……」
「そうだよ。私はマスターの命令ならなんでも聞く。…………何でも」
「──っ」
「私を怒鳴り付けてもいい。私を殴ってもいいよ。私に……えっちなことをしてもいいの」
「……だめ、だ」
「ダメじゃない。それはマスターが私を生かす代償。私は──私はッ、まだ死にたくない……ッ」
ぐるぐる。ぐるぐる。
欲望が渦巻く。血が集まり、今すぐにでもナズナを貪りたい欲が募る。
だが、それはダメだ。ナズナを肯定することになる。俺を否定することになる。
だが。でも。だって……。
その生き方は、生きやすそうだ…………
「眷族であるナズナに『命令する』」
「…………うん。マスターに従います」
「今後俺の命令に従う必要はない──ッ!」
これは、俺の戦いだ。
孤独で理不尽で、不条理に立ち向かう戦いだ。
女に背中を支えられなきゃ立てない男が、一体何を成せる?
「──えっ」
「続けてダンジョンコアである魔宮 日向へ命令する! ナズナを、生かせ! 精一杯、己の全身全霊を賭けて、ナズナを生かせ……!」
いまだに驚愕から立ち直れていないナズナを放っておいて、俺は立ち上がる。目元に残った数滴の涙を拭い、まっすぐにナズナを見る。
俺の体温が無いために、後頭部と目元に残るナズナの体温が名残惜しいが……第一歩で立ち止まるわけにもいかないだろう?
「ま、マスター……? わたし、は……」
「さて、ナズナ。俺の命令に従う必要はない、とは言った。言ったんだが……俺に協力してほしい。この世界の知識はナズナの方が多い、色々と教えてほしい」
「どういう、こと……?」
崩した正座……つまり女の子座りしたまま俺を見上げるナズナへと、手を差し伸べる。
二時間前にも見た光景だ。
「言ったろ? 俺は変態だからナズナへの命令は最小限にするってさ。だから、これが最初で最後だ」
「……………………これが最初じゃないよね?」
「過去を振り返ってはいけない。虚しくなるだけだ」
ナズナが、俺の手を握り、立ち上がる。その距離は2歩。
「俺は、俺自身に命令されたから生きる。ついでにお前も助けてやるよ」
「……マスターは、強いんだね」
「俺を誰だと思ってる。魔宮 日向だぜ?」
ナズナは苦笑いを浮かべた。
いまだに震える俺の右手を、その暖かい両手で包み、額を押し当てた。
感謝するように。
何かを、誓うように──
3話前の伏線回収するのが限界な作者ですまない……




