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北新地の恋

青い傘、受け止め飴と涙雨

 12月も終わりに近づいて、クリスマスソングが鳴りを潜める頃になると、北新地の町は急に気ぜわしくなる。

 北新地は夜の町だ。毎日毎夜、年中お祭り騒ぎの町である。だというのに、12月はそれに輪をかけて騒がしい。年の終わりだ総決算だ。ホステスの接客も客の足取りも、いつもより浮かれている。

 皮膚が切れそうなほどに冷たい空気の中、薄いドレス姿の女が客の男を見送っていた。

 笑顔はどの角度から見ても完璧で、肩開きドレスだというのに寒そうな素振りさえ見せない。まだ若いのに隙のない所作である。

 隣に立つ赤ら顔の男の方が、寒そうに震えていた……北新地ではよく見られる、そんな光景。 

 酔った振りをする男、心配そうにして見せる女。24時を過ぎると、そこらかしこでそんな茶番劇が繰り広げられる。

 沢木は、いつもそんな風景を窓硝子越しに見つめている。

 その窓を、女が優しく叩いた。

「近いんやけど、ええかしら?」

 真っ赤な唇から柔らかい声が漏れる。ああこれは人気のあるホステスだな。と沢木は直感した。

 まだ若いし綺麗だ。それだけではない。どうすれば自分が美しく見えるか、言葉にも声にも姿勢にも全て気を配っている。そのくせ、演技臭さを感じさせない。

 まだ若いのにこれは女優だ。と沢木は思う。しかし、それは顔には出さず、代わりに沢木は精一杯の笑顔を浮かべてみせた。

 そして、ボタンを押す。後ろの扉が、静かに開く。冷たい風が、暖かい車内に滑りこんだ。

「まいど。ええですよ、ワンメーターでもすぐそこでも。まあ、はよ入ってください、中は暖めてますから」

「こちらの社長さん、しっかり送り届けてあげてな……ちょっと、深酒してもうてるけど」

 女が車内に首を突き出して、肩をすくめてみせる。

 続いて男が後部座席に乗った。ずん。と軽く車が揺れる。大きな男だ。

 彼はまるで子供が甘えるように若いそのホステスの手を握りしめた。

 女は相変わらず、優しく微笑んだまま。しかし手を握り返すことはない。ただ、堂々と背を伸ばして立っている。

「シノブちゃん、ほんに今年はお世話になりました。また来年もよろしゅうな。ええお年、迎えてください」

「こちらこそ。今年はお世話になりました。社長さん、お正月はあんましお酒飲みすぎたらあかんよ」

 あら。と女が素っ頓狂な声をあげて自然に男から手を離す。まるで女優のような優雅な動きで、彼女は手を宙に差し出してみせた。

「いややわ。雨。冷えるから雪になるかもしれんねえ。社長さん、ほらほら、冷えるよ。早くお家帰って、あったかぁしてね……よいお年を」

 早く出して。と女が目で合図を送るので沢木はやや乱暴に扉を閉めた。雪でも降りそうな空気の中、彼女はにこやかに手を振る。

 後部座席の男は未練たらたら、酒臭い息を吐き出して必死に手を振り返す。

 それをミラー越しに眺めて、沢木は客に聞こえないように溜息を漏らした。



 沢木だって昔は、タクシーの後部座席で堂々と胸を張る男の立場であった。

 お世辞ではなく本物の社長。それも多くの従業員を抱える会社。たった一代で築き上げた沢木だけの城。

 正確には20年も前のこと、と言うべきだろう。しかし沢木の中ではたった20年前のこと。である。

 その記憶は今も鮮やかに残っている。

 ここ大阪の繁華街、北新地は今よりももっと輝いていた。その輝きの真ん中に自分がいた。

 酒は身体に合わないため一滴も飲まなかったが、連れや店の女の子にただひたすら飲ませる。食べさせる。そうして毎夜遊んで豪勢に金をばらまきにばらまいた。

 使っても使っても、金は無くならないものだとそう思っていたのである。

 しかしある時、少しのほころびが生まれた。そのほころびは、最初はただの小さな糸が飛び出ているくらいの物だった。しかし、気がつけば小さな穴になり、慌てる頃にはすでに手の付けようもない巨大な大穴になっている。

 会社は消え、社長という立場は剥奪され、沢木は飲めない酒に逃げた。

心身共にやつれ果て。生活が地に落ちて1年後。妻は娘を連れて出て行った。こんな状況になって、酒に逃げ続ける沢木に嫌気が差したのだろう。

 妻はまもなく再婚し、幸せになったと噂に聞いた。

 妻に手を引かれ出て行った娘も最近結婚したと、古い知り合いが教えてくれた。妻も子も、別れて以来声も聞いていないし顔も見ていない。ただ、受け取って貰えもしない送金を、ここ数年毎月続けている。

 とことん落ちた沢木が心身ともに復活するまで、10数年という時間が必要であった。

 かつての会社が軌道に乗るためにかかった期間はたった1年である。しかし、落ちたところから上がるには10倍の時間がかかる。それもこれも、沢木の根っこに染みこんだ自尊心のせいだった。

 まだ俺はやれる。俺はこんなもんじゃない。見返してやる。

 安酒に溺れている間、呪詛のようにつぶやき続けたのはそれだけだ。

 その間、北新地など来られるはずもない。

 10数年ぶりにこの町を訪れたのは、沢木がタクシードライバーとしての第二人生を歩み始めた後のこと。

 かつての客に頭を下げて、仕事の斡旋を受けた。自尊心を押しつぶし、ぐちゃぐちゃに丸めて放り投げ、ようやく第二の人生を楽しめるようになった頃、足は自然にこの町に向かっていた。

「お客さん、付きましたよ」

 客は行き先を告げるなりぐうぐう眠ってくれたので、これほど楽な仕事はない。

 北新地の灯りを見つめながら安全運転。目的地で客を起こし、金を受け取り扉を開ける。

「はいどうも、お気をつけて」

 外はきん、と冷えている。酒に酔ったその男もようやく目を覚ましたのか、ふらふらと夜の住宅街に消えていった。

 なるほど、先ほどの若いホステスの言う通り、外は雨が降り出しはじめている。酔客のスーツが、あっという間に黒く染まった。

(雨か……)

 記帳を終えて沢木は腕時計を見る。時刻はまだ24時ちょっと前。

(新地にかえろか)

 昼はともかく、夜になるとまるでハイエナのように、多くのタクシーが北新地沿いの幹線道路、御堂筋に集結する。

 まず第一弾として酔った客、続いて終電を逃した客、そして仕事帰りのホステスやホスト。この町ならば確実に、客を拾えるからだ。

 特にこの季節はかき入れ時。年の瀬最後の贅沢を楽しむ、そんな客が集まってくる。

(年の最後や言うたかて、たかが月が変わる程度の話)

 ……と、帰る実家の無い沢木などは思ってしまう。しかし、ドライバーの立場からすれば有り難い話だ。

 確実に客を捕まえられるから……沢木が北新地に向かうのは、それだけではない。北新地には、思い出が多すぎるのだ。

 嫌な思い出など一つもない。良い思い出しか、そこにはない。

 最初は、自分を知るものがもし居れば……と怯えたものだ、しかしその怯えは杞憂に終わった。顔も体型もすっかり変わった沢木を見て、あの沢木社長だと気付く人間など誰も居ない。

 自尊心を捨てた今、それを悔しいとも思わない。ただ。思い出の北新地の空気を吸える。それだけが、今の彼を支えている。


 そして、もう一つ。


(ああ、よう降る雨や)

 沢木は雲のかかった夜の空を見上げ、思った。雲からは冷たい雨が筋のように降りしきる。

 沢木は車を転がし、御堂筋から北新地の細い通りに滑りこんだ。酔った客を注意深く避けて、車の表示は「予約車」に切り替えた。

 酔った客が何人か手を挙げたが、沢木は見て見ぬ振りをする。やがて、新地の通りを抜けた先。

(……ああ、今日も、居てはる)

 太い道沿いの街路樹の下、美しい青の傘が見えた。

「……どうも」 

 大急ぎで予約車の表示を空車に変えて、沢木は傘の側に車を寄せる。

 まるで冬の晴天の空を切り抜いたような、美しく深い青の傘。窓を開けて声をかけると、その傘の主が振り返った。

「あらぁ、ええところに」

 それは、40を越えたばかりの女である。

 黒いコートをまとった身体は全体的に貧相なほどに細い。しかし、姿勢が良い。柄の太い男物の傘を掴む指には、皮膚に張り付くような黒い手袋。 

 彼女は指を柔らかく曲げて、傘をそっと掴んでいる。美しい、というのとは少し違う。まるで作り物のような、雰囲気がある。

「ちょうど、困ってたんよ。タクシー全然つかまらんくて」

 女は黒い手袋を頬に当て、細い目で微笑んだ。もともと細い目の彼女がほほえむと、まるで狐面のようにも見えた。

「サワキさん、ええかしら。乗らしてもろて」

 女の呼ぶ沢木の名は、どこか冷たく響く。サワキ、とカタカナのような音で響く。

 しかしそれが、不思議と心地良かった。

「勿論です」

 沢木は嬉しさを押し隠して、扉を開ける。

 雨の香りと同時に、女のまとう香水の香りが車内に柔らかく広がった。



 彼女とは20年前、北新地で出会った。当時の彼女は20そこそこ。水商売に入って間も無い、そんな頃だったはずだ。

 社長様だといって大手を振って歩いていた沢木の横に、何度か付いたことがある。

 物静かで、人の話の邪魔はしない。そして笑顔がしなやか。聞けば、彼女は京都の出であるという。言われてみれば、彼女は舞妓に似た冷たい優しさを持っている。

 京都の女は北新地の水に馴染まない。すぐに辞めてしまうだろうと思えば、妙に可哀想で気になった。恋ではない。親が子を心配するような、そんな気持ちだ。

 しかし心配する必要など無かった。彼女は気丈である。冷たい空気をまとったまま、平然と北新地に根を張り続けた。

 そんな彼女が、たった一度だけ泣いたことがある。それはちょうど今の季節。12月、仕事納めの彼女を食事に誘った時のことである。

 仕事で嫌なことでもあったのか、私生活で何かがあったのか。沢木には分からない。

 ただ、突然彼女は能面のような顔に涙を見せた。涙を見られて焦ったか、帰ろうとする彼女を無理矢理車の後部座席に乗せて、大阪の町を当てもなく走った。そして明け方、駅まで見送って別れた。その間、触れ合うどころか会話さえ一言も無かった。

 彼女と親密に過ごしたのは、その清らかな一夜だけである。

 この町に出戻ってすぐ、彼女と再会した……といっても、彼女は沢木のことなど覚えていない。雨の日に車に乗せて、目的地に運んだだけ。それだけだ。

 しかし雨の日、彼女は決まって青い傘を差して同じ時間、同じ場所に立っている。

 そのパターンに気付いた沢木は、雨が降ると必ず、その場所に向かうようにしている。そして彼女も、沢木の車を待ってくれている。そんな気がする。

「雨、急に降ってきて、参るわぁ」

 女の名前は確か、”いせ”といったはずだ。本名ではないだろう。そして今もその名でいるかどうか分からない。この町の中で名前など、大きな意味を持たないのである。

 今はただ、ドライバーのサワキと青い傘のお客さん。それだけの関係であり、それ以上は何もない。

 丁寧にハンドルを切りながら、沢木は浮かれる声を押し隠す。

「ほんまに。この時期は、急に降りだしますやろ」

「サワキさん、通りがかってくれてよかった。急な雨やと、タクシーも、もういっぱい」

 女は濡れた傘を床に置くと、長い指で髪をかき上げた。

「年末はせわしないから、ややわ」

 20年前はただの京都の女であった。しかし、彼女は気がつけば小さなクラブのママにまでのぼりつめている。

 冷たく優しい空気は昔のままだ。ただ顔に凄みが増えた。多くの苦労と笑いと悔しさが彼女の顔に皺を作った。しかし、それが彼女を綺麗にさせた。

「あ。サワキさん」

「はいはい、分かってます」

 彼女が沢木の車に求めることは、さほど多くはない。

 彼女の暮らすマンションまで送り届けること。その際には、少し遠回りになったとしても必ず川の側を通ること。そして川の側、数分でもいいので車を路肩に寄せること。

「ごめんな、いつも。サワキさんやと、我が侭言いやすうて」

 彼女は細い指を合わせて、小さく頭を下げる。彼女が車を止めるのは、旧淀川沿い。それは、北新地の近くを流れる大阪の川である。

 堂島川と土佐堀川が二手に分かれて大川に注ぎ込む。大阪市内を貫く、巨大な川だ。そんな川の上には、何本もの橋がかかる。大阪は、川と橋の町である。

 彼女は橋のある場所で必ず一度、車を止めさせた。

 綺麗な川ではない。どろどろと濁って、夏には異臭を放つこともある。しかし、ネオンを受けて緑に赤にと輝くその川は、いかにも大阪らしい川だった。

 車を止めると、彼女は橋を駆け上がり川をのぞき込む。そして、煙草を一口だけ吸って戻って来る。傘を差したままなので、どのような顔で川を覗いているのか沢木には見えなかった。

 ただ、青い傘の隙間から見える細い指に挟まれる細い煙草、そして細い煙が雨の中立ち登っていく様は寂しげに見えた。

 時間としてはたった数秒ほど。煙を一口吸い込むだけ。それが終わると彼女は携帯灰皿にたばこを片づけて、香水を身体に吹きかけ車に戻って来る。

 車に乗り込むと、彼女の身体からは雨と煙と香水の甘い香りがした。

「いつもごめんなさいね。あ。そうそう、サワキさん、飴ちゃん、舐めます?」

 車が発進するなり、彼女はミラーを見上げ笑いながら言う。

 笑うといっても、彼女の笑みはそれほど単純ではない。目を細め、口元に静かな笑みを浮かべるのみだ。笑っているのに、泣いているようにも見える。そんな顔をする。

 どこかで見たことのあるような表情だが、沢木はそれを思い出せずにいる。

「ちょっと美味しい飴がね、あるのよ」

 彼女は鞄からいくつかの白い箱を取りだし、沢木の耳元で振ってみせた。

 まるでアクセサリーでも入れるような綺麗な白箱である。が、振ると小さな音がする。 

「飴ですか。私も結構もってますよ。こんな商売してると、ちょっとお渡しするのに丁度良くて。でもそれ、綺麗ですね。そんな箱に入った飴、はじめてみました」

「飴はええね。可愛いし、甘いし、食べたとき幸せになるやろ。どんな辛くても」

「お客さん、辛いことありましたん」

「生きてたら、時々」

 女は手袋を取ると、箱を開けた。中には、丸い皿のような容器に詰まった小さな飴。それを一つ取り出して、彼女は沢木の顔の近くにそろりと寄せた。

 素の指先は、遠目に見るよりずっと細い。爪は美しく整えられ、深い青に塗られている。

 女の温度を近くに感じて沢木は久々に、胸の奥が痛んだ。

「それにね。煙草吸うでしょ、私。やから、飴がかかせへんのよ」

 しかし女は、いつもの表情のまま。指に持った飴を急かすように上下させる。

 それはごく小さい、四角の飴だ。水色にちかい鮮やかなブルー、そして目を惹く美しい光沢ピンクのストライプ。

 こんなに鮮やかだというのに、どこか懐かしい色合いである。

「……ああ、綺麗な青だ」

 軽く頭を下げてから受け取る。そして口に入れると、じんわりと甘酸っぱい味わいが広がった。それは爽やかなヨーグルトの味。どこか懐かしい、優しい甘さ。そして、さわやかな酸味である。

「綺麗でしょう。シェルブールの雨傘っていう飴でね、京都の飴屋さんの飴ちゃん。こないだ京都行ったとき、買うてきたん」

 彼女もそれを一粒、口に放り投げる。からん、と乾いた音が車内に響いた。

「シェ……飴に、むずかしい名前が付いてますね」

「フランスの古い映画でね、シェルブールの雨傘って知っとる?……知らん? そういう映画があって……それに出てくる、主人公のドレスをモチーフにしてこの飴が作られたんやって」

 雨傘。その響きに沢木は不思議な感覚に囚われる。彼女を見つける目印も青の雨傘だ。

 外の雨は甘くは無い。ますます強く吹き付けてくる水を払うようにして車は進む。

「その中の、ワンシーンよ。雨傘店の壁に雨がこう……さっと降る。そこに、主人公の青いドレス、ショウウインドウに飾られてるブルーの雨傘が綺麗に映えて、そしてそこにピンクのカーテンがサッと引かれるの」

 前の車のバックライトが眩しく輝き室内を照らした。

 その光に晒されても、女は構わず話し続ける。 

「どんな話ですか」

「昔は好き合った男と女が、些細なことで離れて、別々の道で生きて、そしてまた出会って」

 女の声は雨の音にも負けない。静かだが、しっとりと耳に流れ込む。

 ハンドルを持つ沢木の手が震えた。

「出会って、どうしました?」

「出会って、それだけ」

 彼女は長い指で飴をもうひとつつまむと、口に放り入れた。顔は常に横を向いている。彼女は雨に濡れる川を眺めているのだ。

「雨の川は、綺麗やね」

 彼女の横顔をミラー越しに見た沢木の胸が妙に、ときめいた。

 それは、数十年ぶりの恋である。老いらくの恋である。



 北新地を走っていると、様々な客に出会う。青傘の女ばかりではない。時にはホステスの女もいるし、クラブ帰りの客もいる。そして水商売ではない女を乗せることもある。

「まだこんな時間やのに、タクシー使う理由って何故かわかる?」

 仕事終わりの人々が駆け足で道を行く18時。 

 国道沿いで乗せた女は楽しげにそういった。彼女は花屋だと名乗った。仕入れに出たものの、想像以上に荷物が増えてしまい、普段は使わないタクシーに手を挙げたのだ。と、笑って言う。

 しかし、そんな事を宣言されなくても良くわかる。彼女は大量の花と共に乗車してきたのだ。

 こんな時期だ。花屋もかき入れ時なのだろう。大晦日になると、客は水商売関連だけに留まらず、夜の町とは関係のない通りすがりの客も増えるのだという。

「さぁ。でもドライバーとしては、車使うて貰ったほうが、嬉しいですけど」

「明るい中に、出たくないのよ。疲れてる顔、見せたくないでしょう」

 顔はぽっちゃりと丸いが垂れ目で色白で、小さな唇に妙な色気がある。わざと雑な格好をしていてもよくわかる、これは元ホステスだろう。沢木はミラー越しに女をみて、そう確信した。

 水の匂いが一度染みついた人間は、抜け出してもどこか香る。

 それが悪いというわけではない。ただ、自分と同類の香りを感じ取ったのだ。夜の町を抜けても再び、惹かれてこの町に戻ってくる。この女も自分も、同類だ。

 彼女は座席にゆうゆうと座り、左右に置いた花の束を撫でる。

 両手で抱えるほどの巨大な花束が三つ。白と赤、そして緑。おかげで車内は蒸しかえるほど、花の香りだ。

 こんな花を抱えて、彼女は国道の道ばたで必死に手を挙げていた。

 北新地で店を出しているというが、その割には地味な花ばかりである。この地味さが売れる秘訣なのだと女は胸を張ってそういった。

「とはいっても、今は荷物が多すぎたからやけどね。ごめんね、車んなかお花の匂い移ってしまうやろうけど」

「逆に、男臭さが薄れてええかもしれません」

 冗談めかしてそういうと、女はころころと笑った。人を心地良くさせる笑い声だ。彼女はまとめた髪を手癖のようにいじりながら、窓の外を見る。

「それに私、電車より車が好きよ。それにいま、御堂筋はとても綺麗」

「ライトアップで」

「ええわね。何年前からはじまったんかしら、冬のライトアップ。銀杏がピンクに青に彩られて、すごく綺麗」

 彼女はうっとりと、窓の外を見つめて呟く。

 彼女の言うとおり、窓の外の御堂筋は様々な光に彩られていた。

 大阪を北と南に貫く巨大な御堂筋。それが今やまるで、光の洪水だ。

 赤、青、緑。道沿いや中央分離帯に植えられた木に美しい光をまとわせているのである。日が暮れて光が入ると、まるで道が浮かび上がったかのように美しい。

 無駄遣いだと叩かれたこともあったそうだが、いつの間にか冬の風物詩として定着した。

「道を歩くだけやとライトアップの綺麗さは半減やね。道の真ん中、こう走ってると、光の中を駆け抜けていくみたい」

「お花屋さんやから余計に綺麗なものがお好きなんちゃいますか」

「そうかも」

 赤信号に、車が静かに止まる。女は相変わらず、輝く道を見つめている。釣られて外を見た沢木は、一瞬、息が止まった。

「……」

 すぐそばの歩道に、青い傘の女が立っているのである。今日の外は晴天だ。思えば、傘を差さない彼女を見るのは、20年ぶりのことである。

 彼女は一人ではない。隣にスーツ姿の男もいる。同伴だろうか。しかし二人の距離感はほどよく遠い。ビジネスの空気が漂っている。

 何事か真剣に話をしていたようだが、女が沢木の車に気がついた。

 目が合うも、気付かないだろう……と思った刹那、彼女がごく小さく手を振ってみせる。

 顔は相変わらず、静かな笑みを浮かべたまま。男に気づかれないように、低い位置で小さく手を左右に振って見せたのだ。

 どうすべきか沢木が戸惑ううちに、非情な信号は青に変わった。

「あら、常連さん?」

 手を振り返す間もなく車は発進した。しかし、後部座席に乗る女もそれに気付いた。

「え……ええ」

「なんや上品な人やねえ」

 彼女は無邪気に言う。

「……ほら、あれよ。あの顔に似てる」

 むっと沸き立つような花の匂いの中、彼女は指で顎を支えた。

「仏像で、静かに目を閉じてはる……」

 ああ。と、彼女は溜息を漏らすように、言った。

「そうね、菩薩様のお顔に似てはるんやわ、観音菩薩様」

 彼女の顔にさっと光が差す。それは、イルミネーションの青の色。車内が全て青一色に染まった。

 光を見て、沢木は青い傘の色を思い出す。そしてその下で、微笑む彼女の顔。

 それは確かに、いつか京都の寺院で見た菩薩像の慈愛の笑みである。

 


 菩薩の女を再び拾ったのは、その、数時間のちのことである。

「雨やない日にサワキさんに乗せてもらうん、初めてちゃうかしら」

「ほんまですね」

 緊張に舌が乾くのを必死に隠して沢木は扉を閉める。

 晴れた日に彼女を乗せるのもはじめてだが、2日連続で女を乗せるのもはじめてである。

 何か運命めいたものを感じて、沢木は年甲斐もなく気が沸き立つ。しかし、それを悟られないように、必死に気持ちを抑えた。

 しかし女は沢木の心など何一つ気づかない顔で、夜の町を見つめていた。

「今日、御堂筋走ってはったやろ」

 時刻は24時。冷えた御堂筋には人もまばら。夕刻にはあれほど美しかったイルミネーションも、今日の営業は終了。辺りは、ただただ暗い。

「手ぇふったん見えたかしら」

「……すんません。気付きもせえへんで」

 嘘は苦手だ。苦笑に紛れさせるように、沢木はそれだけ何とか言った。

 女は小さくため息をついて、座席に深く身を投げ出す。柔らかい香りがした。

「これまでサワキさんにさんざ、我が侭いうてきたけど、それもおしまいになりそう」

 まるでささやくように、彼女は切り出す。

「……京都でお店を出すのよ。先斗町。今のお店は大阪の、若い子に譲って」

 寂しそうに声が響いて聞こえるのは、沢木のうぬぼれだろうか。

 沢木は思わずブレーキを踏みこみかける。それを押さえ、肩にぎゅっと力を込めた。

「いつごろ……」

「もう、来年すぐ。やから、大阪も今年でおしまい」

「故郷に錦を飾れ……ますね」

「錦かしら、ほんとに」

 まるで吐き捨てるような冷たい声だ。帰りたくはないのだろうか。と沢木はふと思った。

 しかしそれを詮索するほど親しくはなく、それを無視するほど見知らぬ仲でもない。

「……寂し、なりますわ」

 出た言葉はそれだけだ。女は目を細めて、指を顎においた。そんな風にすると、菩薩の顔にますますよく似ている。

 女は沢木の言葉には答えず、ふと顔を上げた。

「そういえば、お花の匂いするわね」

「あ。ああ、夕方頃に、お花屋さんを乗せまして。北新地のお花屋さんやいうてましたけど」

「あ。お花。飾ってある」

 女が跳ねるような声をだした。

「綺麗ね。一輪だけ、さしてあるの」

 彼女が指に摘まんだのは、小さな一輪の花だ。なんという花なのか、沢木にはわからない。くたりと首を下げた白い、鈴のような花。

 花屋の女は、後部座席のポケットに小さな花を置きみやげにしていったのである。

「気付きませんで……」

「ややわ、勿体ない。せっかく綺麗やのに、しおれてきてしもて」

 女は花を摘まんだまま顔に近づけ、うっとりと目を細めた。

「これ、もろてええかしら。その代わりにこれ」

 彼女は花をコートのボタン穴に通すと、いとおしげになでる。そして代わりにポケットから小さな白い箱を取り出した。

「またその子を乗せたら、飴ちゃんあげて」

 それは先日、雨の日に見た青の飴であった。



 タクシードライバーなどという仕事をしていると、どうしても食事が不規則になる。食事をとる時刻も場所も客任せ。さらにゆっくり味わう時間もない。

 路肩に止めて食べにいけば警察の目が気になるし、かといって高い駐車場に止めて食べるのも割に合わない。

 そうなると結局、30分間無料。などと書かれた駐車場に滑り込み、近くの店で大急ぎで食事を流し込むことになる。

 そんな都合のいい店は少ないので、結局何店舗かの店を順繰りに巡ることとなるのだ。

「まいど」

 世間は仕事納めの曇り空。日が傾き駆けた16時、ようやく沢木の乗せる客の流れが止まった。

 暮れる空に冷える予感を感じながら、いつもの暖簾をくぐると店長が暢気に沢木に手を挙げた。

「なん。沢木ちゃん、遅いお昼かいな、それとも夕飯か」

「夜はかきいれ時やから、今のうちに夕ご飯ですわ。まあ昼飯も兼ねてますけど。この店、目の前に30分無料の駐車場あるから重宝してます」

「みんな、そう言うねん。こんな中途半端な時間に来るんは、運ちゃんばっかりやな」

 そこは北新地の隅にある、小汚いラーメン屋である。床も机も油脂をまとってべとべとだ。丸椅子は座り心地も悪く、ほつれた布をガムテープで補強してある始末。

 しかし、何故かこんな店が旨いのだ。

 店の親父は太っているが愛想はいい。ラーメンを毎晩食べ続けていればこんな腹になるのだ。という典型的な腹を恥ずかしがることもなく見せつけて、彼はラーメンの湯を切っている。

「いつものやな」

「お願いします」

 小汚い椅子に腰を下ろした沢木だが、ふと視線を感じて横を見る。

 すると、カウンターの隅に座った女が勢いよくラーメンをすする瞬間であった。

「……あら」

「こないだはどうも」

 勢いよくすすりあげた顔を見られたことを恥じるのか、女は少女のように頬を赤らめ口元を隠す。

 ……先日の、花屋の女である。

「なんや、知り合いかいな。あかんなあ、新地はやっぱり妙なところで繋がっとるわ」

 ラーメンの出汁を合わせながら、店長が呆れたように苦笑する。

「妙な縁ってあるわねえ。あ。お隣ええかしら」

 女は相変わらず無邪気に笑いながら、沢木の隣にラーメンを持って移動する。見渡してみても、客は沢木と女、二人だけのようである。

「前ね、お花いっぱい買い込んだときに、乗せてもろうたんよ。車んなか、お花のにおいとれました?」

「ええいいにおいがするいうて、好評でした」

「私、この店のすぐそばでお花屋さん、やらせてもろてます」

 女は席から飛び降りると、ふかぶかと頭を下げた。

 その顔を見て、沢木はふとポケットの重さを思い出す。

「あ。そうそう」

 探ってみると、そこに小さな箱がある。それは青い傘の女にもらった飴である。

「あのあと、お客さん乗せたら、えらいお花の匂いと、置き土産のお花を喜びはって」

 取り出して、つぶれていないことを確認する。箱は女にもらった時のままだ。ただの箱だというのに、なぜか冷たい空気をまとっている。

「お花を持って帰られまして。今度、花屋の子に会ったらこれあげてって」

「わあ。これ、京都の有名な飴ちゃんよ」

 花屋の女はさすがだ。箱にかかれたロゴを見て、嬉しそうな声をあげた。

 彼女は宝物を開けるように、そっと蓋をあける。と、先日食べた飴が小さな容器の中で輝いていた。

「まぁ。かあいらし。綺麗やねえ、青とピンクの飴ちゃん」

「なになに。おっちゃんにも」

「だあめ。先にラーメン食べてから」

 女は大事そうに飴を机の隅におくと、それを眺めながらぬるくなったラーメンを食べ始める。この店の中、この飴だけがつん、とまぶしい。

「はい、おまち。はよ食べな。おっちゃん、飴ちゃん食べたいわ」

 沢木の目の前に、どん。とラーメンが置かれた。湯気が鼻をくすぐる。甘い出汁の香りと、魚介スープのほどよい臭み。

 麺はつるりと喉に吸い込まれる。スープは暖かく喉に絡む。

 タクシードライバーは車の中ばかりで過ごすので、身体が冷えることなどないだろう。ドライバーになる前は、そう思いこんでいた。しかし、車の中にいても冷えるのだ。

 むしろ、風をまとって走る車の方が冷えるのだ。

(……いや、年のせいか)

 箸を握る手はすっかり老いている。当然だ、もう還暦を越えた手である。その手は、ラーメンに暖められて、ようやく色を取り戻しつつある。

 年にはかなわない。昔は寒いなど、思いもしなかった。今では、気づかないうちにしんしんと体が冷えてる。ラーメンの温かさが嬉しい年になってきた。

 夢中で食べる沢木と女の姿を、カウンターの向こうで店長が笑顔でみつめていた。旨いというのは、声に出さなくてもわかってしまうものらしい。

 がっついた事が妙に気恥ずかしく、せめてスープは丁寧に飲む。隣の女も同じ事を思ったのか、最後は二人して神妙な面もちで汁をすすった。

「あぁ、あったまった」

 女は満足そうに息を吐き出すと、早速飴に手を伸ばす。彼女の指は、小さな擦り傷まみれである。花をさわっているせいだろうか。短い指に、切り傷のある丸い指。

 それで彼女は青い飴を摘まんでうっとりと光にかざした。

「ほんま、綺麗やわあ」

 一人一粒。摘まんで口に入れる。同時に、三人で目を見開いて顔を合わせた。

「ああ、おいしいわぁ。あまずっぱ!」

「恋の味や恋の味」

 女と店長がはしゃぐように言う。その言葉を聞いて、沢木の胸がわけもなく騒いだ。確かにこれは恋の味であった。かなわない、恋の味であった。

 それを見て、店長がにやりと笑う。カウンターから身を乗り出すようにして、にやけ顔を付きだした。

「なんや、沢木ちゃんは好きな人でもおるんかいな」

「いやいや、この年で」

「年や関係ないやん」

 かかか。と店長は笑う。沢木は苦笑を返した。

 この店長は、こう見えて愛妻家なのである。妻を支え支えられ、生きてこられた男の姿はまぶしい。自分にはできなかった道である。

「あ、せや。沢木さん、お花あげる」

 女は唐突に沢木の名を呼んだ。店長の呼ぶ名を素早く覚え、呼んだのだ。その素早さとしたたかさは流石北新地の女であった。

 彼女は椅子から飛び降りるなり店の隅に飾ってあった花瓶から、一本の花を取り出した。

「ちょうど、ここのお店にお花を飾りにきたところなん。だから沢木さんにも一本、あげるわね」

「でも、車ん中は萎れてしもて、可哀想な」

「ううん、これは造花。やから枯れんよ。綺麗な青やろ」

 彼女が手に持っていたの、深い青紫の花である。丸みを帯びた花びらが、幾重にも重なっている。

 まるで小さな子供が水を手のひらに受けるような形である。

「青い蓮の、造花。ほら、仏様のお花よ。前に、沢木さんと菩薩様のお話してたでしょう。なんや、それから蓮の花が気になって、季節はずれやけど……」

 だから造花にしたのだ。と彼女はそれを手に持ってほほえんだ。

「ほんとうはね、枯れんし、形も不自然やし造花は苦手やねんけど」

 受け取り匂いを嗅ぐが、もちろん匂いなどはしない。しかし、香りもしない青がひどく美しかった。

「でも最近、そんな造花が好きになってきてん」

「そりゃなんで」

「なんか、綺麗で寂しくて悲しいでしょう。生きてるお花ともまた違って……それがなんか、寂しくて、好きになってしもうたん」

 彼女は愛おしがる目で花をみる。彼女にもまた、様々な人生があったのだろうと沢木は思う。青い傘の女にもまたいろいろな人生があったはずだ。

 自分だけが辛いのだと、そう思って悔しがっていた十年前はすでに遠い。沢木はこの年になって、はじめて本当に人の悲しさを感じられるようになっていた。

「……今日も雨、ふるやろか」

「うん、降るよ。沢木さん、稼ぎ時やね」

 沢木のつぶやきに、女は無邪気に答える。

 ラーメン店の小さな窓から見える空は相変わらずの曇天だ。夕焼けは姿を見せる前に、雲に飲み込まれた。

 今年の年末は雨が多い。

 外から仕事帰りらしいサラリーマンたちの会話が、途切れ途切れに聞こえてくる。

 同時に三人、目を合わせた。

「あら。はよぅ、お店開けないと。お花、まだバケツに入れたまんまやわ」

「ああ。あかんあかん。駐車料金とられてまう」

「うちもそろそろ、開店やな。ちょっとテレビつけるわ」

 店長は思い出したように、リモコンに手を伸ばす。赤いボタンを押せば、店の棚に置かれたテレビがすぐにつく。同時に、大音声で野球の応援歌が流れはじめた。

 それは、季節はずれのプロ野球。ここの店長は、夏の間に録画した野球の中継を、一年中流すことでも有名だった。

 同じ試合をなんどでも。負けでも勝ちでも関係ない。野球中継を眺めながらラーメンをすするのが、この店流であった。

 今日の試合はいつの試合か。野球に詳しくない沢木にはわからない。ただ、テレビに映る観客が皆、半袖で旨そうにビールをすすっているのが妙におもしろかった。

「私らおるのに、まだ開店ちゃうかったん」

「常連さんは別枠や」

 店長の親父は赤ら顔のまま、にっと笑う。その後ろで、わっと声が盛り上がる。

 ちょうど、阪神がヒットを放った瞬間であった。



 女の予告通り、雨が降り出したのは24時すぎ。強まる雨の中、女の姿を探すが、なぜか今日は青い傘がどこにもない。

 焦燥感にじらされて沢木は必死に道を駆けめぐる。いつも女が立っている道、橋のある道、細い道。

 諦めて帰ろうか。と思ったのは深夜2時。しかし、諦め切れずぐずぐずと同じ道を彷徨い深夜3時半。

 太い線のように降り注ぐ雨の中、青い傘を見つけられたのは、もう深夜をすぎ、まもなく朝の5時になろうかという時刻である。

「あら」

 車も人も少ない国道沿い。まるで絵のように青い傘の女が立っている。それを見つけた瞬間、思わず沢木はクラクションを鳴らしていた。

 光と音に驚いて、女が振り返る。その顔は、いつもより心持ち白く見えた。

 女はまぶしそうに目を細め、沢木の車を認めるといつものように笑った。

 そして小さく手を挙げる。滑り込むと、彼女はいつものように素早く車内に乗り込んでくる。香りが、いつもより強い。

「あ……なんか、見覚えのある傘がとおもって……すんません、無理矢理乗せたみたいな」

「ちょうどよかった。もう私、明日から京都で今日が大阪の最後なんよ」

 女は少し酔っているのか言葉が早い。濡れたコートのまま、後部座席に沈み込み、小さな息を吐きだした。

「今日はお別れの会で、だいぶ遅くなってしもうて。いつもサワキさんと会える時間じゃないでしょう。もうお会いできひんかと思ってたけど、よかった」

 女の言葉のひとつひとつが胸に刺さる。

「……私も、そろそろ帰ろうかおもてまして……お会いできてよかった」

「……そうね」

 女はもう、沢木の方など見てもいない。ただ、ぼんやりと雨に濡れる外を見ている。

 深夜というには遅く、朝というには早い。まだ光もない。しかし、朝は確実にそこまできている。

 こんな時刻を、沢木は知っている。20年前、彼女を車に乗せて朝まで走った。その時もこんな風に、大阪の町は静かな闇に包まれていた。

「……サワキさんには、お世話になりっぱなし」

「そんなこと……じゃあ、今日は、マンションでええですか」

「ああ。もう大阪のマンションは引き払って、京都に移ってるんよ……やから、梅田かしら。近くて悪いけど。どこか開いてるホテル探して……少し寝て、それから京都行こうかしら」

 女は顔に手を当てて、寂しげに笑った。

「夜の女が朝に電車乗って京都行くんは、格好悪いわね」

「じゃ、じゃあ今日は」

 緊張に口が張り付く。それを必死に湿らせて、沢木はミラーを見上げた。

「……今日は、ご祝儀に。お代は結構ですから、お祝いに」

 女もこちらを見ていたのか、鏡の中で目が合う。

 冷たい薄闇の中でみる女の顔は、神々しくもあった。

「お送りします、京都まで」

「そんな。悪いわ」

「遠慮せんでええです。これも何かの縁で……私もひさびさに、京都の町を走りたくなりました」

 女の遠慮を無理矢理振り払って、沢木は車を進める。まるで20年前のあの日のようだ。悪い、という女を乗せてどこまでも走った。あのときとは顔も体も、なにもかも変わっているが。

「……あ。サワキさん」

「はい。はい」

 少し走ったとたん、女がささやく。川の流れが見えたのである。沢木は静かに車を路肩に寄せると、女はごく自然な動作で立ち上がり外にでる。

 そして彼女は橋の上、川を見つめるようにたばこを吸う。いつもより長い。ゆるやかに、白い煙を吐き出し、青い傘を高く掲げる。

 そのせいで、川をみつめる女の顔がはじめて剥き出しとなった。

 ……彼女はまるで、挑むように川を見つめている。

「あら。青い蓮、珍しい」

 タクシーに戻った女は、先ほどの鋭い目線からいつもの顔になっていた。

 彼女は、後部座席に刺さった一本の花を見たのである。それは、花屋の女からもらった、例の青い蓮の花である。

「ああ。こないだ、飴を花屋の子にあげまして。そしたら、その子が、この花をと」

「造花なんやね。でもすごく、綺麗」

 女は花を細い指に摘まみ、顔のそばに寄せる。それは、仏像の見せる顔である。

 そういえばかつて、まだ世界に仏像というものが存在しなかった時代。その時代は、蓮の花を仏と見立てて祈りの対象としたのである……どこかで聞いたそんな話を、沢木は思い出す。

 彼女は香りのない蓮の花に顔を寄せて、細い目でほほえんだ。

「昔ね、そういえば」

 ふと、彼女がつぶやく。車はすでに梅田に背を向けた。京都への道へ進みつつある。しかし彼女はそれを咎めない。

 その無言の許しに甘えて、沢木はハンドルを握っている。

「……泣いてた私を車に乗せてくれた、変わり者がおったのよ」

 沢木の心臓が、大きな音を立てた。

 ハンドルを握る指に、汗が滲む。口が渇く。同時に目の前の信号が赤に変わった。沢木は仕方なく、ブレーキをかける。

 車内が静まり、雨の音だけがぱたぱたと響くだけだ。

 もし車が走り続けていれば、沢木はその言葉を無視しただろう。しかし、声は静かな車内に大きく響いていた。

「仕事終わりに、朝まで車で大阪の町をぐるぐる。なぁんも、言いはらへんの。悔しくって、私もなぁんも、言わずに車に乗り続けて」

「……どう思いました」

「傘、みたいな人やなって」

 女は沢木がその時の男だと気づいているのか、気づいていないのか。彼女は世間話のように続ける。

「なんでやろ。そんとき、雨が降ってたせいかもしれんけど」

 ふ。と彼女の口元がゆるむ。

「車から降りる時に雨でね。貸してくれたのが青い傘。なんも、色気もない、男の人の青い傘」

 沢木は、ハンドルを握ったまま、ただひたすら前を見つめ続ける。ほかの車も走らない、年の暮れの朝の道。

 雨は、冷たく大地をぬらしている。あの日も、こんな雨だったか。

 彼女に、傘など渡しただろうか。覚えていない。雨が降っていたことさえ、沢木は覚えていなかった。 

「それからもう20年経つけどね、私の持つ傘は青」

 女が愛おしげになでるのは、彼女が愛用する青の傘である。空の色をくり抜いたような、鮮やかな、それでいて暗い。

「それだけは、譲れへんのよ」

 横入りしてきた車が、強い光を放つ。沢木はスピードを緩めた。急ぐ必要などなかった。まだ、夜は続いている。

「……その傘、どうしました」

「捨ててしもうた。川の流れに」

 女は窓の外を切なくみる。そこにはもう、川はない。ただ、明けを待つ大阪の町が続くばかりだ。

「馬鹿やったから、慰められたんも、涙みられたんも悔しくて」

「……」

「それからやわ。川を見ると、いつか傘が戻ってくる気がして」

 だから、川を見ると止まってしまうのだ。と女は言う。

 捨てた傘が、川から不意に現れるのではないか。そんな風に思ってしまうのだ。そんな風に語る女の目は、道を越えて遠く大阪の川を見つめている。

「いつも、見てしまう。でも、それも今日でおしまい」

「明日からは鴨川ですね……堂島の川より綺麗で、静かで、香りがなくて、はんなりして」

 京都にも川はある。それは、大阪の川とは違って美しい川である。ゆっくりと水をたたえた、鴨川である。それは京都の四季を写して美しく輝く川である。

「でも、私は堂島の川が好きよ」

「私もです」

 高速の道を進みながら、沢木はほほえんだ。北新地は夜の町だ。同時に、その隣を流れる川の香りに包まれた町でもある。

 綺麗な川ではないが、雨も北の女が流す涙も全て受け止めてきた川である。

「……私も明日から川ばかり見てしまいそうだ」

 女が川の向こうから帰ってくるのではないか。沢木はその言葉を飲み込んだ。女もそれ以上は、突っ込まない。

 ただ20年前と同じ、無言の間が落ちた。

 強弱のない高速の道を進んでどれだけ経ったか。

「あら。サワキさん」

 女の乾いた声が聞こえる。その声につられ、沢木もようやく周囲の風景を見た。

「雨が上がったわねえ」

 女の言うとおり、見上げた空はうっすらと明るい。雨はやみ、まるで膜が張るように空があかりを含んでいる。

「ほら、サワキさん。朝日よ」

 彼女は後部座席から身を乗り出し、まっすぐ腕を伸ばした。彼女の黒いコートの袖が沢木の耳にふれる。その腕の先を見つめて、沢木は小さく息を吐いた。

 遙か彼方の山の縁に見えた小さな赤い点。

 暮れを照らす小さな朝日が、今、二人の目の前に静かに昇ろうとしている。

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― 新着の感想 ―
[一言] 大人のお話ですね。 人の出会いって時に不思議だったり運命的だったりしますね。
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