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ミイラの大臣と美しい蛾



男は、それはもう、気が遠くなるくらい昔から、この城にひとりで暮らしてきました。



いつしか男の皮膚は乾いてゆき、彼は、ミイラになりました。

草花が怖がるようになり、日中、庭に出ることもなくなりました。


そうして、彼は、一日の大半を、城内に備えられた図書館で過ごすようになったのです。この図書館には、三万冊を超える世界中のありとあらゆる書物が並んでいます。

数学、天文学、医学、歴史など、なんでも揃っていましたが、ミイラは、中でも、文学作品を好みました。


物語の世界では、魔法も使えましたし、英雄になることもできました、眉一本動かさずに、知らない国を旅することだってできたのです。

今日も、木彫りのひじ掛け椅子に、どっかりと腰をかけ、明かり窓から漏れる光を頼りに、土版(タブレット)に記された文字を追いかけます。


「殿方、私を愛でてはいただけませんか」


彼は、辺りを見渡しました。けれども、だれもいません。部屋の端までずっと本棚が続くだけです。どうやら、聞き違いのようだと、改めて本を開くと、そこに一匹の蛾が止まっていました。


彼女は、美しい蛾でありました。羽が動くたび、それは、金にも、オーロラにも見えました。


「私は、人間になりたいのです。人に愛されたなら人に、花に愛されたなら花になるのが、私たち種族の定めであると教わり育ちました。」


「せっかく、綺麗な羽を持っているというのに、どうして、人間になりたいなどと思うのかね」


「私には、飛び回ることしか出来ません。悲しみに暮れている人に差し出す手や、転んだ人に駆け寄る脚がほしいのです。

殿方、もし、私を、人間にしてくだされば、あなたの願いをひとつ叶えてさしあげることを約束します」


「あなたは、私が怖くないのですか」


「はい。

ずっと、こうやって、誰かと話ができる日を夢見ておりました。私の羽は世界でもひとつとない色模様をしております。仲間たちからは避けられるようになり、花々は、私が蛾であることを知ると口も聞いてくれません。

けれども、あなたは、これを美しいとおっしゃってくださいました。

私がここにいるのは、ご迷惑でしょうか」


「いや、私も、話相手がほしたかったところです。客人は、どれくらいぶりだろうか。」


「あなた様は、ずっと、この城にお一人でおいでですか」


「えぇ。この国が敗北してからは、そうですね。」


蛾は、“もっと聞かせてください”というように羽をパタパタ動かしました。


「これでも、何千年と昔、ここは、文明都市を支える立派な中枢部でした。実に、多くの人が出入りしていたものです。

小国ながら、我々の科学技術の進歩は著しいもので、どこかの連中からは“魔術の都”などと恐れられたりもしていたようです。

ですから、諸外国に睨まれるのも時間の問題でした。粗末な軍隊しか持たぬ我々が、敵国に堕ちたのも、致し方のないこと。王族は、例外なく処刑され、街のものは、連れ去られました。

私は、戦中、反逆者の容疑をかけられ、牢獄で難を逃れましたが、やがて、この国もろとも、忘れられたのです。今では、街の大部分が砂漠に埋もれ、宮殿があるだけになってしまいました」


☆☆☆


食堂に入った蛾を真っ先に出迎えたものは、床から天井まで周囲を取り巻く立派な壁画でした。神話の神々が、描かれており、ちょうど、死者が、己の心臓と生前の罪を秤にかけている“最後の審判”と呼ばれる場面です。


そして、装飾の施された長いテーブルには、水の入った銀のグラスと、木の実が盛り付けられた陶器の皿が用意されていました。


「よくぞ、このような砂漠の果てを訪ねてくださいました。気のすむまで、ゆっくりしていらっしゃってください。」


ミイラは、この珍妙な客を手厚くもてなしました。

蛾は、ゼンマイのように収めた長い舌をストローのように伸ばし、上品に水をすすります。


「あなた様の望みをお聞かせください。ただ食事にお呼ばれされているだけには、まいりません」

「申し訳ありませんが、私は、あなたが探している人にはなれません。あなたは、とても魅力的な女性です。私には、勿体ない。」


蛾の彼女が、あまりに悲しそうな顔をするので、ミイラは、慌てて話題を変えました。


「女性は、宝石が好きだと聞きます。あなたは、どうでしょうか?城の博物館には、金銀、水晶、るりで出来たアクセサリーや彫像、他にも珍しい美術品がたくさんあります。もしよければ、食事の後、ご覧に入れましょう。それとも、庭の方がよいでしょうか。夜になると、昼とは、ひと味違う趣があります。」


蛾は、ひらりと宙に反って、喜びました。


☆☆☆


日が暮れると、ミイラは、蛾を庭園に誘いました。

虫たちの寝息が聞こえるほど、静かな夜でした。砂漠の夜は、昼と打って変わり少し肌寒いくらいです。


眼前に広がる石畳の池には、生き生きと水がわき、その周りを囲むようにユリやアシの花たちが眠っています。


「どうです、素晴らしいものでしょう」


ミイラに促され、蛾は、頭上一面に散らばった星空を見ました。星座たちが、舞い降りてくるのではないかと思うほど、とても近くに感じられます。もちろん、蛾にも砂漠の道中がありましたので、はじめて見る空ではありません。けれども、彼と見るそれは、その後も蛾の心に深く刻まれたのです。


その夜は、大きな月が出ておりました。

蛾の羽は、透けてしまいそうなほど輝いて眩しいほどでした。


「あなたは、まるで、神話にある女神のようですね」


ミイラがふと手を伸ばしたので、蛾は慌てて遮りました。


「私に直接触れてはなりません。このうしろ羽には、人を死に至らしためるほどの毒があります。」


“そうでしたか、失礼をお許しください”と、ミイラは、まぶたを閉じたのでした。



☆☆☆


王宮での生活は、毎日がとても穏やかなものでした。

ここ最近で大きな事件といえば、蛾の彼女が、貴重な砂糖を食卓から落としてしまったことくらいでしょうか。

彼女があまりに申し訳ない顔をするので、ミイラは、気にすることはないと何度も諭しました。


その日も、蛾は、食事が終わると、上手に足を使って触角の手入れをしてから、図書館に向かいました。


柱の並んでいる吹きさらしの廊下を通り過ぎた時、花たちの小さな噂話が聞こえてきました。


「ミイラの大臣が、とうとう恋をしたそうよ」

「なんと、おぞましい」

「相手は、どこぞからやって来た蛾の小娘らしいじゃないか」

「あら、それはお似合いね」


蛾は、暗い気持ちになりました。


ミイラが遅れてやってくると、蛾は、尋ねました。


「中庭の花たちは、夜、あなたに手入れされていることを知っているのですか」


「あなたが、知ってくれているなら、それで充分です」


蛾は、それ以上、何も言いませんでした。


“今日は、何を読みましょうか”と、ミイラが聞くと

蛾は、“また女神の話を読み聞かせてください”と答えました。


蛾は、ミイラの声が好きでした。マントの巻かれたミイラの肩に乗ると、その振動がはっきり伝わってきました。蛾は、背中に大きな羽をぴったりと合わせ、耳を傾けます。それは、二人にとって永遠の時間にも思えるようでした。


そして、しばらして、蛾は、そのまま眠ってしまいました。


☆☆☆


この博物館には、きらびやかな装飾品だけでなく、国の歴史を物語る多くの資料や絵が残されていました。


今、蛾が目にしているものは、ミイラがまだ大臣と呼ばれていた頃の彼の肖像画です。

男は、きゅっと結ばれた唇に、すっと通った鼻筋、自信に溢れた凛々しい表情をしています。


「これは、大臣に任命されて間もない頃の私です。その後は、国を立て直そうと躍起になりましてね、無茶をしました」


「どうして、国のために働いた方が、反逆などと言われたのですか…」


「事実、野蛮なことをしようとしたのです。当時、私は、この無謀な戦争を止めさせるには、王を暗殺する他ないと確信しておりました。計画は、未遂に終わり、仲間は、その場で斬殺されました。私に付いてきてくれた同志たちは、疑うことを知りませんでした。そして、皆、不名誉な死を遂げることになったのです。

私は、今も、考えます。もし、あの時、私が指揮をとっていたなら、少なくとも、国が壊滅することは免れていたのではないか。いや、それは、ただの思い上がりで、何か別に、国を守る手立てがあったのではないか。

つい昨日のことのように、ありありと思い出します。

けれど、不思議なものですね。あなたといると、あれは、すべて夢だったような気もしてきます。

私は、何のために戦っていたのか。

ごめんよ。あなたと居ると、私は、本当、おしゃべりになってしまうな」


彼女は、涙を滲ませ言いました。


「今、あなたを包み込む腕が欲しいです」


男は言いました。


「もう、抱き締められています」



☆☆☆


その頃から、ミイラは、部屋に籠り、食事を取らなくなりました。世話をしなくなったので、庭の花たちは一斉に元気をなくしています。城内は、あちらこちらに、蜘蛛の巣が張り、次第に、ほころびはじめました。


蛾は、外から何度もミイラを呼びましたが、一向に返事がありません。どんなに泣いても、騒いでも、この扉が開くことはありませんでした。


しびれを切らした蛾は、ついに、部屋の小さな空気穴を夢中で這うようにして、ミイラの元に向かいました。


室内は、蛾に用意されたものと違い、随分と、質素な作りでした。椅子が一脚と、ベッドがひとつ。椅子の上には、いくらかの書物があります。


横になっていたミイラは、蛾に気がつくと、半身を起こし、ベッドに腰かけました。

蛾は、彼の足元の絨毯に止まり、言いました。


「私は、あなたを愛しています。だから、あなたが悲しむと私も悲しくなります。

どうして、何もおっしゃってくださらないのですか」


「それが辛いのです。あなたに惹かれるたび、後ろめたさで私の心は、どうにかなりそうになります。

私の命は、多くの屍と供にあるのです。私ひとりが背負うべき痛みです。

けれど、あなたは、この苦痛から解放しようとする。私の愚かさや、寂しさを、すべて受け止めようとする。あまつさえ、私は、あなたを愛したくてたまらなくなるのです。」


「あなたは充分苦しみました。嘆くことが、何になると言うのです。

私に愛を教えてくれたのは、あなたです。私にも、できることがあると教えてくれたのは、あなたなのです。

二人で、これからできることを考えましょう」

「ありがとう。でも、どちらにしろ、もう手遅れのようです。」


ミイラは、衣をさっと下ろして、今にも崩れ落ちそうな、わずかばかりの骨を見せました。そこには、もう胸の面影もありません。


「あなたに出会ってから、少しずつ、身体が壊れはじめました。もう、座っているのがやっとです。ふと、あなたの毒にかかってこのまま、逃げ出したいと何度思ったことか。私は、なんて卑劣なやつなんでしょう。」


蛾は、泣きました。こんなに泣いたことは、後にも先にも、これきりでした。そして、蛾は、ミイラを見つめて言いました。


「はじめて、一緒に夜空を見た日のことを覚えておいでですか。あなたは、私を女神のようだと言っておられた。ならば、私が、女神マアトになり、あなたの罪をこの羽にかけましょう。私は、信じます。きっと、あなたの魂は、より磨かれて、私の元に戻っていらっしゃいます」


蛾は、ミイラの胸の空洞を潜り抜け、頭を一周して、毒の粉を撒きました。


彼は、呟きます。「なら、今度は、立派な蛾に生まれて来なければなりませんね」


彼女が「その時、私が、人間だったらどうするのですか」と茶化してみせると、彼は、なんとも言えない顔をして言うのです。


「それでも、あなたは、また私に恋をしてくれますか」


彼女は、男の唇に止まり優しく口づけをしました。

やがて、ミイラは、動かなくなりました。


☆☆☆


その晩、彼女は、人間になる夢を見ました。それはそれは美しい女性で、宝石のような瞳を持っていました。彼女の長い黒髪に触れたのは、あの肖像画の大臣でした。

少しはにかんだ顔を見せて彼は、言いました。


“愛しいヒト”



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