第65話 楽市はちかう
街の片隅で「澱」の前に立ち、桔梗が目を赤く腫らしていた。
そんな桔梗に、楽市が声をかける。
「桔梗、またここに来ていたの?」
桔梗がいないと知り、楽市は見当を付けて迎えに来たのだ。
「楽ねえさま……」
桔梗は藤見の森で一番小さく、その精神はまだ脆い。
桔梗は姉のように慕う楽市に声をかけられて、再び瞳を潤ませた。
楽市は桔梗を抱いて、その背をさすりながら語りかける。
桔梗を、慰めるための方便を紡いだ。
「桔梗、あんたが心を痛めることは無いんだよ。
澱はこの段階じゃ、まだ意識が無いんだから」
「ほんとうに?」
桔梗がぬれる瞳で楽市にすがる。
楽市は朗らかに笑った。
「本当だともっ、苦しんでいるように見えるだけなんだよ。
桔梗が気にすることは無いんだ。
そのうち霧のように消えるから、もうここに来てはいけないよ。ねっ」
桔梗は楽市の明るい声に、涙ながらも笑顔を返してくれた。
「楽ねえさま……」
「さあ帰ろっか。みんなが心配しているよ」
それから幾日か経ち、楽市は藤見のみんなが「あの段階じゃ意識なんかないのさ」と、口にするのを聞くようになる。
みんながそれを信じて、疑いもなく口にしていた。
そうやって澱に見向きもしなくなっていく。
しかしその輪に楽市だけが入れない。
あれは桔梗を落ち着かせるために、楽市がその場でついた方便なのである。
本当の所など分かりはしなかった。
それなのに、それをみんなが言い合い笑っている。
――本当に信じているのだろうか?
楽市は心の中で何度もおなじ問いをした。
フリをしているだけ?
そう信じたいから、信じているだけ?
けれど楽市は、それをみんなに聞けない。
みんなの心がそれで軽くなるのならば、それで良いではないか?
わざわざ、問う必要があるだろうか?
そう楽市は自問する。
自分は黙っていた方がいい。
楽市はそう考えて、仲間の輪に知らぬ顔で入っていった。
しかしずっと心のどこかで燻り続けてしまう。
ある晩のこと。
飲みに行くと言って出かけ、澱の場へ向かう。
楽市は闇の中でじっと澱を見つめた。
澱に変化はない。
ただ不規則にうごめくだけだ。
一瞬、頭や手足を成すように見えるけれど、月明かりの当たり具合でそう見えるだけである。
すぐに不規則の中に埋もれてしまう。
自分は、いつまで見ているつもりだろうか?
楽市はそう思い肩の力を抜いた。
楽市がいつまでも気にする自分を笑い、森へ戻ろうと背を向けたとき、それが耳もとで聞こえた。
――ふええっ
楽市はあわてて振り返る。
「今のなに!?」
澱の前にしゃがみ耳を澄ます。
両耳をピンと立て、何も逃がすまいと集中した。
しかし何も聞こえない。
「今のは声なの? 泣いていた!?」
その後はどれだけ耳を澄ませても、聞こえることは無かった。
翌朝には、澱が楽市のまえで消えていく。
あるていど時が経つと、澱は霧散してしまうのだ。
朝日の中で呆然とする楽市。
たった一夜明かしただけなのに、酷い顔をしていた。
あの声は何だったのか?
確かに耳もとで聞こえたのだ。
「いや、耳もと? 後ろからではなくて?」
ひょっとして幻聴だったのではないか?
獣の耳が、音の位置を間違えるはずがない。
楽市はそう考えて、乱れる心を落ち着かせようとする。
「確かに後ろからではなく、耳もとだった……」
自分が余りにも気にし過ぎたから、聞こえてしまったのか。
「聞こえるはずのない声……幻聴だ……」
現にあのあと一度も聞こえなかったではないか。
楽市はそう自分に言い聞かせる。
あれは幻聴だったのだ。
その後、楽市は誰よりも飲むようになった。
陽気になり、最後には酔い潰れる。
そんなだらしのない楽市に、兄はいつも付き合ってくれて――
「らくーち、らくーち!」
夕凪の元気な声で、楽市は物思いから引き戻される。
「らくーちっ、ほらっ、ほらあ!」
「あっ、あー!」
霧乃が尻尾をふくらませて楽市を手招きし、朱儀がなぜか地面を転がっていた。
もうすぐ生まれる。
あやかしの子がむずがるように体を揺らすと、地面からぷつりと切れた。
そのまま緩い傾斜を転がっていく。
「でたー!」
「よくやった!」
「ふあー!」
霧乃が慌てて、あやかしの子を拾い上げた。
まだ生まれたばかりなので、霧乃の小さな手にすっぽりと収まってしまう。
夕凪と朱儀が霧乃の手の中をのぞき込み、ほほを緩ませている。
朱儀の服の隙間から、石の方々も顔をのぞかせていた。
松永が匂いを嗅ごうとして、鼻息がうるさい。
みんなが順に、手の平へ乗せて喜び合っていた。
楽市は眩しいものを見るように、目を細める。
みんなで楽市の元へ見せに来てくれた。
「らくーち!」
「らくーち!」
「あはは!」
楽市は膝をつき、三人まとめて抱き締める。
その中心に、朱儀がもつ新しいあやかしの子がいた。
「あんたたち良くやった。
あたしだけじゃ、何も出来なかった。
あんたたちが居たからこそ、あたしは……」
その先が出てこない。
唇をかみしめて、強く目をつぶる。
「ふふふ」
「へへへ」
「はっはっはっ」
楽市は言葉の代わりに、いつまでも三人を抱き締めるのだった。
楽市はそっとみんなの名をつぶやく。
霧乃。
夕凪。
朱儀。
松永。
石の方々。
そして新しいあやかしの子……
楽市の瞳は微熱を帯び、妖しく輝く。
「もうだれも放さない」