第6話 楽市また起こされる
楽市は、夢を見ていた。
兄に毛繕いされている夢だ。
ていねいに首筋の毛をなめてくれる。
うなじの毛をなめ、耳を噛みほぐし、背をなめてくれる。
ああ……これは夢なのだと楽市は気付いた。
だって兄が、これほどていねいに毛繕いしてくれるはずがないもの。
それでも気持ちが良いので、仰向けになる。
お腹の毛もなめて欲しい。
うららかな日に野原で寝ころび、兄に尽くさせるなど、何と気持ちが良いことか。
狐みょうりに尽きるというもの。
兄がしきりに鼻先を舐めてくる。
やめろ、鼻はくすっぐたいではないか兄よ。
抗議するように、楽市がイヤイヤしても止めてくれない。
「くふふ……いひひ……ああっ、もう兄さまっ。
そこは駄目だと、あたしがこれほど嫌がって……ん?」
そこで目が覚めた。
「ふわあああ……」
まだ急な覚醒で、思考がおぼつかない。
覚めたはずなのに、まだ鼻をなめられている。
鼻先を見ると、穏やかな陽の下で草の葉先が鼻をくすぐっていた。
楽市は煩わし気に、手で払いのける。
その時ちらりと見えた自分の袖に、目が止まり飛び起きてしまった。
「なにこれ!?」
白かった楽市の着物の小袖が、黒く染め上げられている。
そこへ金の流線が細かくほどこされており、まるで全身に川の流れを、纏っているかのようなデザインだった。
足元も白い足袋と草履が、黒足袋と黒草履に変わっている。
誰が勝手に……と思うより先に、国つ神と祟り神の戦いを思い出した。
金と黒の争い。
基本的に「白狐」である楽市の着物は、自分の体表面を変化させたものだった。
本物じゃない。
はいている足袋も草履も同様だ。
それが勝手に変わっているということは、単に着せ替えられたわけじ
ゃなかった。
楽市そのものに変化が起きている。
意識を失っている間に、何かが起きたのだ。
警戒しながら辺りを見回す。
そこは山の斜面を覆う広い草むらだった。
ずっと下の麓まで、まぶしい緑が続いている。
崩壊した南の斜面全体が、草原となっているのだった。
有り得なかった。
祟り神の瘴気は、あらゆる命を衰弱死させる。
かくいう楽市も意識を失う前に、体が全く動かなくなっていたのだから。
「どういうことなの?」
またも楽市には分からない事が増えた。
のどかな景色を眺めながら、苛立ちが募る。
楽市は感情を爆発させた。
「このおおっ、何がどうなっているか説明しろおおっ」
白い尻尾をぱんぱんに膨らませて叫ぶ。
「何だこれっ、意味が分かんないっ、分かんなああああいいい!」
地面をこぶしで殴り、草を千切っては、手当たり次第にぶん投げた。
「誰か何とか言ってよっ、この下にいるんでしょお!」
何度もこぶしで地面を叩く。
「無視すんなっ、無視しないでよっ」
殴る力が次第に弱くなっていく。
怒りをぶつける相手がいない。
話を聞いてくれる相手がいない。
「兄さま……」
誰も居ない。
居なくなってしまった。
楽市はあの夜のことを思い出し、悶えて斜面を転がり続けた。
出っ張りで跳ねて、頭から落ちてしまう。
「くぎゅうううううっ……」
仰向けになり、激しく息を切らせて空を見る。
込み上げる思いに耐えられず、一瞬顔が歪む。
けれどそれを、手の平で無理やり押し戻した。
しばらくくそのまま動かない。
いや動けなかった。
「返して、返してよ……みんなを返して……」
兄も仲間も黒く変わり果てて、みんな地の底に沈んでしまった。
楽市はたった一人、見知らぬ土地に残されてしまう。
空には雲が流れ、草むらが風でそよいでいる。
とても心地良い一日だった。
それなのにこの穏やかな世界を、楽市だけが拒み続けた。