第2話 楽市、嵐に合う
ただ茫洋たる霞の中に、白い狐の少女楽市は漂っていた。
とても眠い……
さっきまで酒を飲み、酔いが回っているのだからゆっくり寝かせて欲しい。
けれど安眠を邪魔するように、幾つもの黒い影が何やらわめき、楽市のかたわらを駆けぬけ飛び去っていく。
楽市は切れ長の目を薄くあける。
けれどその金色の瞳は何も映さず、すぐ閉じられてしまった。
キツネ耳を煩わしげに動かし、自慢のふさふさ尻尾を抱いて丸くなる。
楽市の意識は霞そのものだった。
気まぐれに漂い、淡く凝っては次の瞬間に霧散してしまう。
だから邪魔しないでほしい。
今の楽市は、ゆっくりと眠りたいのだから。
そんな楽市の意識が少しづつ浮上していく。
楽市はそれを嫌がりむずがるけれど、どうやら無理なようだ。
*
楽市は耳を叩く轟音で、目を覚ました。
急な覚醒で、思考がまだおぼつかない。
「なに、なに、なに!?」
楽市は人の姿で、半ば土砂に埋もれ倒れていた。
起き上がろうとして、長い銀髪と着物のそでが暴風ではためき、吹き飛びそうになってしまう。
楽市は伏せたまま、何とか顔を上げて辺りを見回す。
なぜだか分からないけれど、楽市は荒れ狂う嵐の中に居るのだった。
「一体どうなってんのっ、噓でしょ!?」
楽市は絶え間なく吹きすさぶ嵐の中で、わけも分からず這いつくばり耐え続ける。
頭の中で幾つもの?マークが飛び交っていた。
これは夢か?
そうでなければ、なんなの!?
楽市は風で飛ばされぬように、しがみ付く自分の手を凝視した。
指がしっかりと、土に食い込んでいる。
「どういうことなの!?」
妖力がすっかり衰えて、モノに触れられないはずの楽市が、直接モノへ干渉している。
指を食い込ませている。
この状態で場違いとかもしれないけれど、楽市にとっては嵐と同じぐらい驚くべきことだった。
じっくり考えたいけれど、嵐がそれを許してくれない。
楽市が必死に耐えていると、どこからか獣の咆哮が聞こえた。
一匹や二匹ではない。
数十匹もの獣が叫んでいる。
その咆哮に、楽市は聞き覚えがあり絶句した。
「うっ……みんな!?」
仲間たちの声だった。
楽市が聞き間違えるわけがない。
それは藤見神社に仕える、白狐たちの声だった。
楽市は精一杯に狐耳を立たせて、方向を確認する。
横殴りの風に掻き消されることなく届くそれは、殺意に満ちあふれていた。
楽市の血の気が引いていく。
「何が起きているの!?」
楽市は必死に声のする方向へ這いずった。
かなりの勾配がある。
巻き上がる土砂で何も見えないけれど、土の匂いからして、ここがどこかの山であることは間違いない。
しかしここがどこかなど考える余裕もなく、楽市は必死に這い進んだ。
気流の乱れから、土煙にわずかな切れ目が生まれる。
楽市はそこから、ここで何が起きているのかを知った。
「そんなっ……」
嵐の中心。
そこは獣たちの戦場だった。
金の蛇と、数十体もの黒い獣が殺し合いをしている。
両者の力がぶつかり合い、全てが吹き飛び、荒れ狂う風を生んでいた。
楽市からの距離はまだ遠く、一キロ以上離れているはずだ。
けれど間近に見えてしまう。
まるで距離感が機能していない。
金の蛇が大き過ぎるのだ。
「あれはっ、まさか国つ神様?……ええええ!?」
否定したくても見間違えるわけがない。
それは楽市たち白狐の主であり、藤見の社に祀られている方と同族であった。
国つ神。
地母神。
地の脈。
土地によって呼ばれ方は様々だが、同じ種族であり、その土地一帯を守護する神である。
うねる姿から、よく蛇と例えられるが実際は違う。
別の表現を借りれば。
大地の生命エネルギーを束ねた、地表のオーロラ。
大きな川を何本も束ねたような、金の帯である。
帯の両端は、地下に埋もれて見えない。
恐らく頭や尻尾といったものは、存在しないのだろう。
胴だけを地表に現し、うねり、そして猛るのだ。
対する黒き獣は、国つ神と比べて豆粒のように見える。
しかし楽市の位置からハッキリ見えるので、こちらも決して小さくはない。
全身からどす黒い瘴気を放ち、国つ神の周りを飛び回る。
瘴気が長く尾を引き、幾つもの黒い筋が見えた。
楽市の顔が青ざめる。
楽市は、その撒き散らされる瘴気を知っている。
国つ神に使える白狐として、長く存在する楽市が何度も見てきたものだ。
「みんなが、祟り神に堕ちてるの?
……まさか……そんな」
黒い獣の出す咆哮は、間違いなく仲間たちの声だった。
神社の仲間たちが、祟り神と化している。
目の前で見せられても、楽市には理解できなかった。
「何で……うそだ……」
楽市の葛藤など構わずに、両者の殺し合いは続く。
突然、国つ神の輝きが増す。
一瞬ふくれたかと思うと、体表面から数百もの熱戦を放射した。
黒き獣が射抜かれて、何体も撃ち落されていった。
「いやあああああああっ」
楽市の悲鳴など、荒れ狂う風が掻き消してしまう。
撃ち落された一体が、楽市の方へ吹き飛ばされ、すぐかたわらに墜落する。
衝撃で飛び散る土砂が、うずくまる楽市へ大量に降り注いだ。
土煙は暴風ですぐ流にされ、そこには見上げるほど大きな獣の姿があった。
片ひざを付き、飛ばされて来た方角を赤く濁った眼でにらんでいる。
それは楽市と同じ、人の身を模した姿。
背丈は片ひざを付きながらも、優に十メートルは超えていた。
楽市からは顔が見えない。
けれど馴染みのある匂いで、直ぐに分かった。
「兄さま!」