抗う者たち1
瓦礫の下に埋もれていたコンクリートの破片を踏むたびに、鈍い音が響いた。
火の手が上がる灯火の街を背に、俺たちは地下へと続くトンネルの中を進んでいた。壁は黒く焦げ付き、かつて都市のライフラインだった配線はすでに断ち切られ、床には何年も前に放棄された車両が無造作に転がっている。
俺の隣を歩くイオは、時折ちらりと俺の顔を見ては、何か言いたげに口を開き、それでも何も言わずに前を向いた。
「……寒いな」
彼女がようやく発した言葉に、俺は頷いた。
「トンネルの奥は湿気が溜まりやすい。あと、陽が差さないからな」
「そういうことじゃなくてさ……」
イオの声はかすかに震えていた。
俺たちは、今まさに自分たちの家を失った。数時間前まで確かに存在していた「灯火の街」は、巨神の襲撃によって完全に崩壊した。そこに住んでいた百人ほどの生存者のうち、何人が生き残ったのかも分からない。
「カイ……ほんとは悔しいでしょ?」
イオの声に、俺は足を止めた。
彼女の琥珀色の瞳が、じっと俺を見つめている。
悔しくないわけがない。俺は、俺たちはあの街を守るために戦った。それなのに、結局は巨神の力の前に敗北し、逃げることしかできなかった。
「……悔しいよ」
声がかすれる。認めるのが怖かった。でも、イオの瞳を見ていたら、嘘をつく気にはなれなかった。
「もっと戦えたはずだった。もっと、何かできたはずだった」
拳を握る。爪が手のひらに食い込んだ。
「でも、できなかった」
「……ううん、それは違う」
イオは首を振った。
「私たちは、あれが限界だった。カイは、私も、レオンも……みんな、精一杯やった」
俺は何も言えなかった。
「でもさ、戦える場所がなくなったなら……また、見つければいいんじゃない?」
イオは微笑んでいた。でも、それは強がりの笑顔だった。
「そうだな」
俺もそう答えたが、胸の奥は空っぽだった。
俺たちはどこへ行くのか――。何のために戦うのか。
その答えを、まだ見つけられないままでいた。
トンネルの奥は、思った以上に深かった。
懐中電灯の光が濁った水たまりを照らし、壁に貼られた古びたポスターが剥がれかけている。かつてここは、地下鉄の通路だったのだろう。だが、今では廃墟に等しい。
「大丈夫か?」
俺は、少し後ろを歩くレオンに声をかけた。彼は疲れた表情で頷いた。
「なんとか、な」
彼の肩には、負傷した少年がもたれていた。15歳くらいの少年だ。巨神の襲撃から逃げる際に瓦礫に挟まれ、脚を痛めたらしい。
レオンは、街を捨てた責任を一身に背負っている。あのとき、彼が「撤退」を決断しなければ、俺たちはあの場で全滅していた。だから、彼の判断は正しかった。
でも――。
「すまねぇな、カイ」
突然の言葉に、俺は驚いてレオンを見た。
「何がだよ」
レオンは苦笑し、トンネルの奥を見つめた。
「……あいつらを、守れなかった」
俺は言葉を返せなかった。
生き残ったのは、俺たち戦士組を含めて四十人程度。あとの数十人は、巨神の襲撃で犠牲になったか、行方不明になった。
「俺は、リーダー失格だよな」
「違う」
俺は即答した。
「レオンがあのとき撤退を決めたから、こうして生きてる。お前がいなかったら、俺もイオも、他のみんなも死んでた」
レオンは驚いたように俺を見つめ、そして少しだけ笑った。
「……お前、意外と仲間思いだな」
「うるせえ」
そのときだった。
トンネルの先――遠くから、奇妙な音が響いた。
カサ……カサカサ……。
不規則な、何かが這うような音。
それは、俺たちの前方の暗闇から聞こえてきた。
「……カイ」
イオが小さく囁く。
「なんか、いるよ」
俺はすぐにナイフを握り、レオンも銃を構えた。
暗闇の中で、何かが確実に近づいてきている。
人間ではない。
「――ッ!」
その時だった。
暗闇の奥から、"それ"が飛び出してきた。
目が慣れるよりも速く、無数の影が壁を這い、天井を駆け抜ける。
「伏せろ!!」
レオンの叫びと同時に、俺たちは反射的に身を伏せた。
直後――。
鋭い爪が空を裂き、壁が抉れた。
俺は息を呑んだ。
暗闇の中に、奇怪な姿が浮かび上がる。
それは――巨神とは違う、異形の"人間" だった。
痩せこけた体。肌は青白く、瞳は異様に光っている。指は伸び、鉤爪のようになり、背中には奇妙な突起がいくつも生えていた。
「……灰翼」
イオが、小さく呟いた。
そしてその異形は、俺たちを見下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。
「人間か? ……なら、お前たちは"敵"だな」
その声は、ひどく乾いていた。
水気の抜けた粘土のようにかさつき、どこか機械的ですらある響き。それでいて、奥底にはかすかに人間らしい感情の残滓がある――そんな奇妙な声だった。
暗闇の中に、異形の姿がはっきりと見える。
男――だったもの。
かつて人間だったはずの存在。
痩せこけた身体は異様に長く、筋肉は削げ落ち、皮膚の下で骨が浮かび上がっていた。爪は異常に発達し、黒く変色している。背中には突起のようなものが複数生え、まるで昆虫の外骨格のように硬質な光を放っていた。
それは、まぎれもなく**「灰翼」**だった。
巨神の細胞を取り込み、進化した人間。いや――進化ではなく、"変異"した者たち。
「……っ」
俺は手の中のナイフを握り直した。
隣ではイオが息を呑んでいる。彼女の瞳には、警戒と――それ以上の感情が宿っていた。
「どうする、レオン」
俺は低く囁いた。
「相手が攻撃してくるなら、戦うしかねぇ」
レオンの声も硬い。
「でも、"話せる"相手なら……」
その言葉に、灰翼の男は薄く笑った。
「――話し合い?」
笑い声が、静かなトンネルの中に響く。それは、どこか空虚な音だった。
「随分と甘いことを言うな……俺たちは、人間ではない。"話し合い"ができると思うのか?」
俺は黙った。
言葉に詰まる。
その通りだった。
"灰翼"。巨神の細胞を取り込み、人類とは異なる存在へと変質した者たち。彼らは、確かに人間だったころの記憶を持っている。だが、その肉体も、精神も、もはや人間のそれとは違う。
その証拠に――彼の目を見れば、すべてが分かる。
深い琥珀色。
まるでイオの目と同じだった。
いや――"元のイオの目"と同じ、というべきか。
イオはそっと俺の袖を引いた。
「……カイ、私が話してみる」
「イオ……」
彼女の顔は硬い。だが、その奥には迷いが見える。
「私……"彼ら"の気持ち、少しだけ分かる気がするから」
それは、イオ自身が"灰翼"と同じものを内に抱えているからだろう。
彼女は俺から数歩前へ出た。
「あなたの名前は?」
静かに問う。
灰翼の男は、じっとイオを見つめた。
……長い沈黙。
やがて、男はポツリと呟いた。
「……ディラン」
低く、乾いた声。
名乗った――。
この瞬間、俺は確信した。
こいつは"完全に化け物になった"わけじゃない。まだ、人間だったころの意識をわずかに残している。
だが、それが必ずしも"善意"を意味するわけではなかった。
「お前たちは"楽園"の者か?」
レオンが探るように問いかける。
楽園――巨神を崇拝し、人類の滅びを受け入れる狂信的な集団。
ディランは、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「……違う」
その反応に、俺は安堵した。
もしこいつが楽園の信者だったなら、すでに俺たちは殺されていただろう。
だが、安心するのはまだ早い。
「なら、お前は何者だ?」
レオンの問いに、ディランはゆっくりと腕を上げた。
「俺たちは"人類最後の戦士"だ」
その言葉に、俺たちは息を呑んだ。
「……戦士?」
「そうだ」
ディランは、両腕を広げる。
「人類は滅びた……お前たちも、それを知っているだろう?」
「……それは」
何も言えなかった。
そう――人類は、もうほとんど残っていない。
都市は壊滅し、生存者は減り続ける一方。巨神は次々と人類を狩り、灯火の街のような拠点ですら、長くは持たない。
そんな状況で――。
「俺たちは"変わる"しかなかった」
ディランの声は、ひどく静かだった。
「巨神を倒すために……俺たちは、自らの肉体を変えた。巨神の力を取り込み、人間を捨てた」
俺たちは言葉を失った。
「その結果、俺たちは"人間"ではなくなった。お前たちが忌み嫌う"灰翼"になった」
ディランの瞳が、鋭く俺たちを射抜く。
「さて……お前たちは、俺たちをどうする?」
この問いが、何を意味するのか。
――"味方になるか、敵になるか"。
そういうことだった。
選択を迫られていた。
俺たちは、"灰翼"と共に戦うのか。
それとも、人間であり続けるために、彼らを拒絶するのか。
この問いの答えが、俺たちの運命を大きく変えることになる――。