独白 その4
そう、僕は今、かなりの記憶を取り戻した。
あの刑事達が、教えてくれた。
彼女の言う通りだった。僕は、自分でも知らないうちに、嘘をついていた。
僕は慶京大学など、とっくの昔に卒業している。今の年齢は、二十六歳だ。彼女のスマホに、どれだけ電話をかけても、つながらないのは当たり前だ。
彼女は、もう亡くなっているのだから。
しずく。いや、今はShizukuと呼んだほうがいいのだろうか。僕の大切な恋人。
五年前の、あの忌まわしい交通事故が、僕と桐谷先生からすべてを奪った。事故の一報を聞いて駆け付けたとき、君は真っ白な病院の、真っ白な病室で、眠っていた。
僕と桐谷先生は、意識を保存する方法によって君を救おうと思った。今も僕の部屋の写真立てに残る、君の笑顔。その笑顔を、どうにかして取り戻したいと願った。――ただその試みは、本当に意味があったのだろうか?
ああ、しずく。僕たちは君を、結果的に、あの世界に閉じ込めてしまった。まるで、プログラムの一部として同化したような形で。それは不老不死という名の、永遠の牢獄だったのだろうか。
――君に、聞きたいことがある。もう一度、君に会いに行こう。
◇◇◇
「また、来てくれたのね。」
しずくが、静かに言った。
僕は、仮想空間の中にある、僕の部屋に立っていた。ここには、しずくと過ごした思い出があふれている。しずくと一緒に選んだ、小さな白いテーブル。部屋の隅にある水槽と、ネオンテトラだって、彼女と一緒に購入したものだ。
「君は、あの熱帯魚に、なんだか適当な名前をつけていたな。」
ふふ、と笑いがこぼれた。
「特に見分けもつかないくせに、、、僕も一緒になって、その名前で魚たちを呼んでいた。」
僕はまぶしい目をして、窓の外を眺めた。魚たちが発する淡い光が、ここからでもほのかに見える。
「記憶が戻ったの?」
驚いた表情で、しずくが僕の顔を覗き込んだ。懐かしく、美しい顔だ。僕はまっすぐに、しずくの瞳を見つめ返した。この世界に来れば、君に会える。僕たちが、この世界を創ったからだ。それは、死者がよみがえることが、許される場所。人類の原理原則に、背いた空間だ。
「図書館にあった、三冊の本。そこには『助けて』と書いてあった。ようやく、その意味が分かったよ。」
しずくが、僕の顔を不思議そうに見つめた。
「あれは――僕の本音だ。この場所に通いながら、内心は絶望していた。君をここに連れてきたことが、はたして良いことだったのか。君を救い出せないこと、そのことに苦しみ、助けを求めていたんだ。」
「そんなに、気にしなくてもいいのよ。仕方がないことだから。」
しずくは、ふわりと笑顔をまとった。
「あのまま、病院で亡くなるのを待っているのも、それはそれで、地獄だった。ここに来て、何かが変わるかと一瞬は思ったけれど――、やっぱり、変わらなかった。でもそれでいいの。」
「しずく。君に聞きたいことがあるんだ。」
しずくが、用意はできているというように、うなずいた。
「桐谷先生と僕は、何年もかけてこのプログラムを、『Shizuku』を研究していた。ただ、桐谷先生は僕にすら、研究の重要な内容を一部、隠していた。このプログラムを起動したものは、仮想現実に保存した君の意識に、直接会えるように、脳波が強制的にある周波数に同調させられる。これによって脳に多大な負荷がかかると共に、記憶領域がクラウド上に自動保存され、一部はローカル領域―—すなわち自らの側頭葉からアクセスしづらくなる。そういうことで、いいのかな。」
しずくは、僕のベッドに腰掛けたまま、少し目を伏せた。僕は立ちつくしたまま、彼女の言葉を待った。
「お父さんが、私に何もかも話してくれた。これは、失敗だったって。でも、自分の力ではこれ以上、どうしようもできないって。」
しずくの瞳が、よく見えなかった。泣いているのだろうか。
「お父さんは、何度も私に会いにきてくれた。そしてそのたびに、少しずつ、記憶を失っていった。このプログラムにアクセスしたユーザーは、仮想現実を、まるで現実の世界であるかのように、リアルに体験できる。でも、長時間利用すると、脳に作用して、いくつかの悪影響を与えてしまう。
最初に起きるのは、記憶障害。脳内データが封じ込められ、最新の記憶から順番に、思い出せなくなっていく。同時に、前頭前野に影響があり、意欲が落ちるとともに、意識レベルが低下する。ついには、自らの意識が薄れて、仮想現実に取り込まれたようになってしまう。それが、お父さんが話していたこと。」
僕はその話を聞いて、頷いた。
「私は、私の大切な人が、記憶をなくしていくのが、哀しかった。いろんな警告を発して、私にアクセスするのをやめるように言った。それでも、お父さんは記憶をなくしながら、私に会うことをやめなかった。そして、ある日以降、ぱったりとこの世界に姿を現さなくなった。その理由は、私には分からないけれど、なんとなく想像はついた。最悪のことが、起きたのだと思った。」
おそらく、それが一年前のことだ。桐谷先生はいつもの研究室で、冷たくなっていた。その顔は、なぜか幸せそうに笑っていた——それは天国で、懐かしい人に出会えたかのような表情だった。おそらくそのとき、このプログラムは不完全ながら、完成していたのだろう。ただ、共に研究していた僕にさえ、それは明かされていなかった。
桐谷先生は、このプログラムの存在を明かせば、僕が必ずしずくに会いに行ってしまうことが、容易に想像できたのだろう。それは最悪の場合、生命にかかわる。結果として桐谷先生は、秘密を抱えたまま亡くなり、研究チームは解散となった。僕も、大学を辞めた。
その後、どういうきっかけか分からないが、プログラムを偶然起動したものがいて――噂が噂を呼び、「呪われたコンピュータウイルス」として、じわじわと世間に広がった。僕も、これは桐谷先生の研究と関連があるとすぐに察して、情報を集めて、プログラムにアクセスすることができた。
ただ繰り返し、プログラムを起動したことの代償として、記憶喪失と意識レベルの低下、それに伴う判断力の低下が生じ、、、僕は現状を正確に理解できなくなっていた。
「その後に、何人かが私に会いに来た。、、、なぜだか分からないけれど、彼らは私のことを、『ゴースト』と呼んでいた。それからしばらくして、幸太が来てくれた。幸太は、お父さんと同じで、毎晩のように私に会いに来てくれた。でも、会うたびにあなたは、変わっていった。ある時は、あなたは『大学を卒業したて』だと言った。またある時は、私の顔を忘れていた。三日前に出会ったあなたは――自分のことを、『大学一年生』だと名乗った。」
僕は、三日前にしずくに会った時のことを思い出した。その時僕は、彼女のことをゴーストだと考えていた。記憶障害が、だいぶ進んでいたのだろう。
「でも、あなたは用心深かった。何らかの仕組みを施して、決定的に仮想空間に取り込まれないよう、必死に抵抗してくれた。それはつらかったけれど、同時に少し嬉しくもあった。ただ、もう限界が近づいていると私は思った。」
しずくが、ゆっくりと立ち上がった、彼女の体が、心なしか、ぼんやりと発光し始めたように見えた。
「ねえ、『ヘイフリックの限界』って言葉を、聞いたことがある?」
もちろん、と僕は答えた。不死の研究をするものにとっては、なじみの深い言葉だ。
「ヒト体細胞の分裂回数に、限界があることを指す言葉だ。」
「ヘイフリック限界を、超えることができる存在が何か、知っている?」
知っている、と僕は思った。ただ、なんとなく、その答えを口にすることができなかった。しずくが、決意したように、はっきりとした口調で言った。
「それはたとえば、ガン細胞よ。人間に害を与えるガン細胞だけど、それ自体は、分裂回数に上限がなくなる。つまり、永遠の生命を持つことができる。――まるで、今の私のように。」
「君は、そんなものじゃない。」
とっさに否定したが、しずくは悲しそうに首を振った。
「私は『ゴースト』になってしまった。それは、人間に害を与える存在。」
「君は人間だ!」
叫んだ僕の言葉は、彼女に届く前に、蒸発するように、むなしく宙に消えてしまったように感じた。
いまや、しずくの体から発せられる輝きは強まり、部屋中を黄色の温かな光が満たし始めた。彼女を中心として、すべての物体に影ができた。何か重要なことが起き始めている、と僕は思った。
「幸太、あなたに言っていなかったことがあるの。」
しずくは落ち着いて言うと、部屋のドアの方に移動した。それから、当たり前のようにそれを開けると、静かに外に出て行った。僕は輝きに少し、目がくらみながら、不吉な予感を感じて、慌てて彼女を追いかけた。
外は、雰囲気が一変していた。大気が小刻みに振動し、空が、崩れ落ちていた。本来、天空があるべき場所にはまっていたはずの電子データが壊れたのだろう、と僕は推測した。そのカケラのようなものが、次々と落下していた。
しずくは、少し離れた場所で立ち止まると、僕の方に振り返った。
「お父さんが、最後に残していったコマンドがある。それは――もしも、何か想定外のトラブルがあって、この世界の秩序が守れなくなったときは、私の意志で、この世界を消去できるということ。そして今、その時が来たと思う。」
何のことか分からない僕に、優しく言って聞かせるように、しずくが続けた。
「この世界は、もうすぐ崩壊する。」
◇◇◇
僕は茫然と立ち尽くした。ゆっくりと、周囲を見渡す。僕のすぐそばにあった草木が、軽く触れた瞬間に『001001111001』といった数字列になり、見る間に、砕け散るのが見えた。
「お父さんがいなくなって、今また、幸太も取り込んでしまったら、私はゴーストとして、暴走してしまうかもしれない。もう、私は、、、消えた方がいい。」
「そんなことはない。」
僕は絞り出すように言った。
「僕は今までも、取り込まれなかった。僕たちは、一緒に暮らしていけるだろう?」
しずくは黙って、僕の言葉を聞いていた。
「幸太、あなたにはもう、会えなくなる。」
彼女は、じっと僕を見て、微笑んでいた。とても優しく、そして妖しいまでに美しい表情だった。何かを語りかけるように見えたが、それでも、僕の問いには何も答えてくれそうになかった。
「君は、『ゴースト』なのか。」
僕が呟いた瞬間、足元が大きく揺れ動き、大地に鋭く亀裂が入った。僕はそれを、ただ無表情で眺めるだけだった。ここも、じきに崩壊する。
「それなら僕を、、、、連れていってくれないか?」
彼女のいない世界なんて、僕には考えられなかった。彼女が消えるなら、いっそ僕も、消えてしまった方がいい。ゆがんだ視界の中で、彼女がそっと、柔らかく近づいてくるのが見えた。僕の頬に、彼女の白い手が触れたような気がした。ただそれは、何かを優しく諭すような、穏やかな手のひらだった。
「最後に、あなたに、さよならの言葉が言えた。それだけで、私は幸せなの。」
「僕は、、、君を救ってあげることができなかった、、、」
僕は泣いていた。涙と鼻水が止まらず、駄々っ子のように泣きじゃくった。
「先生と一緒になって、あんなに研究したのに。大学を辞めた後も、一人で研究は続けたのに、、、。やっと、君の意識に会えたのに、、、こんな不完全なかたちでしか、、、君を、、、」
「ねえ、違うの、幸太。」
彼女の声は、まるで空から降ってくるように、僕の意識に響き渡った。
「あなたが、私を救ってくれた。お父さんと幸太が、動けなくなった私を連れ出して、この世界を創った。この世界は、すべて嘘みたいなものだと言ったけど、、、そこには、たった一つだけ本当のものがあった。それは、お父さんとあなたの、想い。」
しずくはいまや、強く光輝く、一つの球体となっていた。
「幸太のおかげで、私は、区切りをつけることができる。生まれ変わることができる、、、。病院のベッドの上で、私の時間は止まったままだった。でもここに来て、幸太にもう一度会えて、、、」
しずくの声が、少しだけ詰まった。
「そして、世界は終わり、別の物語が始まる。」
僕は、意識が薄れていくのを感じた。
――いままで、ありがとう。
しずくの笑顔が一瞬、脳裏に浮かんだ。
そして、すべてが真っ白になった。