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桂正範 その3

 「それで、あなたは大学で、何も研究していなかったとおっしゃるわけですか。」


 桂正範は、慎重に、目の前の男を観察しながら言った。


 男の髪はパサついており、目にかかるほどの長さに伸びている。率直にいうと、散髪にいった方が良さそうだ。優秀な研究者ということだが、目に力がなく、全体に覇気がなかった。正直、それほど賢そうには見えない、と桂は思った。二十六歳ということだが、血色が悪い分、もう少し年齢が上に見える。


 その隣では新崎が、鋭い視線で周囲を観察していた。とはいえ、大して観察するほどのものもなかった。男の部屋は驚くほど殺風景で、隅の方に本や食べ物が無造作に積み上げられていた。いかにも、男性の一人暮らしという印象だ。ただ、ポツンと置かれた空っぽの水槽が、妙に新崎の注目を引いた。


 「この水槽では、、、以前に、カメか何かを飼っておられたんですか。」


 「ああ、それですね。」


 男の表情に、ちらっと楽しそうな色が浮かんだ。


 「泳いでいる魚は、ネオンテトラっていうんです。」


 桂と新崎は、思わず顔を見合わせた。


 水槽には、汚れた水草がわずかに、こびりついているだけだ。魚など、影も形もない。この男には、熱帯魚が泳ぐところが見えているのだろうか?


 「桐谷圭介先生のことも、ご存知ない、とおっしゃるわけですか。」


 桂が思い出したように、問いかけると、男は、怯えたような視線を返した。


 「その名前に、なんとなく聞き覚えがあるような気もするのですが、、、何しろ、このところ記憶があいまいなんです。大学といっても、広いですから。自分がどこで、どんな教授に会ったか、今一つ覚えきれていないんです。」


 すいません、と小さな声で、男は付け足した。


 桂はそっと、隣にいる新崎を横目で見た。色々な質問をしたくて、うずうずしている顔だ。ただ状況によっては、それが必ずしも悪いわけではない。この場面では、ストレートに質問させて、相手の反応を見るのも悪くないかもしれない。


 「新崎君の方でも、質問があればお願いします。」


 「では。」


  新崎が待ちかねた表情で、真相に踏み込むように、少し体を前に出した。


 「一部で騒がれ始めているコンピュータウイルスの、『Shizuku』のことはご存知ですか。若い学生たちの間で、被害が出始めています。」


 はい、と小さい声で男は答えた。


 「このShizukuを開発したのは、先ほどからお伺いしている、桐谷圭介氏ではないかという話があるのですが、ご存知ありませんか。」


 「はい、あの、、、桐谷という先生のことも、あまりよく分からないので、、、」


 「我々の捜査によると。」


 新崎が声のトーンを上げた。


 「あなたが桐谷准教授の右腕となって、人間の意識に関する研究を進めていたという話があります。」


 男は、何のことか分からないといった表情で新崎を眺めた。


 「さらに言えば、その桐谷准教授の娘である、桐谷静久さんと、あなたは交際していたのではという話もあります。それが本当なら、あなたにとって桐谷氏は、恩師であり、恋人の父親だ、それでも、桐谷氏をご存知ないとおっしゃるのですか。」


 キリタニ・シズク、と男が口の中で繰り返したのを、桂はじっと見ていた。


 次の瞬間、男の瞳孔が開いたような気がした。


 なんだ? あの表情は、何を意味している?


 いぶかしむ桂には、あまり気が付かない様子で、新崎が話を続けた。


 「桐谷氏と、その助手であるあなたが、何らかの形でShizukuというコンピュータ・プログラム、まあ要するにウイルスですが、これの開発に関わったということはないのですか?」


 僕が――と言いかけて、男は黙り込んだ。みるみるうちに、男が汗ばみ、うろたえ始めるのが、はっきり分かった。


 「なんだか、あの本当に、、、。自分でも、自分の状況がよく分からなくなってきました。すいません。」


 男は泣きそうな顔で、絞り出すように言った。


 不満そうな新崎を手で制して、桂が会話を引き取った。


 「まあまあ、思い出せないのでしたら、それでいいですよ。」


 できるだけ優しい声で、相手の気持ちを落ち着けようと努める。真相を引き出すのに、一筋縄ではいかないのは、よくあることだ。ひとまず今日のところは、これ以上話しても無駄だ、と判断したらしい。


 「すいません、困らせるつもりはなかったんです、東野幸太さん。我々も、このウイルスに関する情報を、少しでも知りたいと思いまして。東野さんがご存知ないのであれば、問題ありません。それでは、失礼しますね。」


 桂と新崎は、少しおじぎをすると、丁寧な物腰でドアを開け、外に出て行った。

後に残された男は一人、放心したように、床にへたりこんだ。それからいつまでも、いつまでも、床を眺めていた。

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