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独白 その3

 湖の中央に浮かぶ島には、小さな小屋が建っていた。僕はドアの前に立つと、ゆっくりと外観を眺めた、それは簡素な造りで、ちょうど登山の休憩所に立つ山小屋のような、くすんだ色をした建物だった。まるで自然の中にひっそり取り残されて、世間から忘れ去られた存在のようにも見えた。


 ここに、ゴーストはいるのだろうか。――いや、いるに違いない、と僕は思った。このドアをどうしたらよいだろう? 普通の来訪者のような顔をして、ノックでもしたほうがよいのだろうか。少し逡巡した後、僕はドアに手をかけると、黙ってそっとそれを押し回した。


 ドアを開けた僕の目の前に広がったのは、非常に奇妙な光景だった。


 それは、僕の部屋だった。


 何がどうなっているのか分からず、僕は混乱に包まれたまま、左右を見渡した。非現実的と感じられたバーチャル・リアリティ空間に、突如として、僕の日常生活が出現している。毎日、いつも寝起きしているベッドや、彼女と一緒に選んだ、小さな白いテーブル。部屋の隅には水槽があり、その隣には木製のシンプルな棚がある。無表情な壁や天井も含めて、すべてが本物通りだった。


 僕は思わず、ゴーグルを少しずらして現実の部屋を確認した。当然ながら、そこもまた僕の部屋だった。仮想空間で見ているものと、現実の間に違いが見当たらない。もういちどゴーグルをかぶりなおした僕は、慎重に、後ろ手にドアを閉めた。


 やがて僕は、ひとつだけ変わった雰囲気を感じた。ベランダに人の気配がする。僕の部屋はアパートの三階にあり、ごく小さなベランダがついている。幅は一メートルもなく、エアコンの室外機が置いてある程度のものだが、そのベランダに続く大型の窓が開いていた。じっと注視していると、人影があり、カーテンがかすかに揺れていた。


 僕は恐怖と、期待の入り混じった感情で窓際に近づいて行った。ようやく「ゴースト」に会える。心臓の鼓動が早まるのを感じながら、僕はゆっくりと、カーテンを開けた。


 そこには、物憂げに外を眺める女性の姿があった。


 外は、一面の湖だった。曇り空の下、うす暗い湖面にさざ波が広がっている。彼女はベランダに立って、夕闇の中に浮かび上がるように見えた。彼女自身が、少し、発光しているのだろうか。長い白のワンピースを着ており、足は裸足だった。美しい、と僕は思った。


 彼女は僕の方を見ようとしなかった。僕はなぜか、気持ちが高ぶり、涙が出てきそうなのをこらえた。そのまま、彼女の隣にそっと移動すると、彼女と同じように湖面をながめた。


 「また、来てくれたのね。」


 と、彼女が言った。


 僕は混乱する頭の中で、いくつもの問いが浮かぶのを押さえきれなかった。また来た、というのはどういうことだろうか。彼女は僕を知っているのだろうか。彼女はずっと、ここにいるのだろうか。彼女は、「ゴースト」だろうか。


 「ここに来る人は、、、多いのですか。」


 彼女はゆっくりと、頭をふった。


 「そんなには、多くない。」


 「ここは、どこですか。」


 その質問に彼女は少し、考え込むようなそぶりをして、僕の方を見た。正面から見ると、彼女は一段と綺麗な顔をしていた。長い髪に、濡れたような瞳が目立つ。ただ表情のどこかに、暗い影がさしている。それがどこか、はかなげな印象を与えた。


 「ここは、あなたの頭の中。図書館を抜けて来たでしょう?」


 僕は少し驚いて、うなずいた。そんなことも知っているのか。


 「あの図書館は、あなたの『記憶』。」


 彼女が、つぶやくように言った。僕は、一つ一つの会話に、なにかとても重要な意味があるような感覚にとらわれながら、彼女に問いかけた。


 「図書館に、、、、三冊の本があった。表紙があって、そこに『お願い、誰か、助けて』と書いてあったんです。あれは、あなたからのメッセージですか。」


 「それは、違うと思う。」


 彼女が静かに言った。


 「私は、その本を知らない。もし、そう書かれた本があったのだとしたら。」


 もう一度、彼女は湖の方に向き直って、目を細めた。


 「それは、あなた自身が考えたことよ。」


 僕は、めまいのような感覚に襲われた。これはコンピュータ・プログラムなのだろうか。彼女の意識が、本当にここに封印されているのだろうか。


 プログラムだとすれば、この会話もすべて、事前に用意されたものだ。質問を解析して、最適な選択肢を返している。何らかのフラグ判定もされているかもしれない。すなわち、僕とゴーストの会話が一定の条件を満たせば、新しい情報を提供する、といった具合だ。


 ただ、ゴーストである彼女の言葉は、ひとつひとつが自然だった。それでいて、どこか謎めいてもいる。図書館のメッセージは、僕自身が考えたこと――というセリフも、印象的だった。僕がなぜ、助けを求めたのだろう? 僕は、次々と彼女に質問せざるを得なかった。


 「あなたの名前を、教えてもらえますか。」


 「私は、しずく。」


 はっきりと、ゴーストが答えた。これでもう、間違いない。彼女は科学者の娘だ。


 「あなたは、コンピュータ・プログラムの一部なのですか。」


 その質問を聞くと、しずくは僕の方に向き直り、僕の目をのぞきこみながら言った。


 「あなたが言う、プログラムの定義が分からないけれど。」


 しずくは少し目線を落として、続けた。


 「私はもう、ずっとここにいる。これからも、ずっと。」


 「つらくは、ないのですか。」


 次の瞬間、僕はこの質問はしなければ良かったと思った。彼女の表情が少しゆがみ、唇がふるえた。頬を一筋の涙がつたう。僕は驚いて、慌てて言った。


 「ごめんなさい。つい、、、」


 しずくは直接返事せず、代わりににっこりと微笑んだ。


 「いいの。あなたは、自分の名前を覚えているの?」


 妙な聞き方をするな、と思いながら、僕は答えた。


 「僕の名は、東野と言います。東野幸太です。いま、慶京大学の一年生です。」


 しずくはゆるやかに笑顔をつくると、穏やかに言った。


 「あなたは、自分でも知らないうちに、嘘をついているのね。」


 それから、しずくは少し間をおいて、付け加えた。


 「もっとも、この世界がすべて、嘘みたいなものだけど。」


 「君は、僕のことを知っているの?」


 「私は、外の世界のことは何も分からない。でも、あなたのことは知っている。」


 しずくは不意に、くるりと振り返ると、カーテンをそっと押して、部屋の中に入って行った。僕も後ろから、慌てて着いていく。


 しずくは、ぼくが毎日寝起きしているベッドに腰掛けると、何気なくベッドサイドに置いてあるものに手を伸ばした。読みかけの小説、スマホの充電ケーブル、それから写真立て。


 「ここに置いてあるものも、みんなよく知っている。これは全て、あなたの持ち物だから。」


 僕はその場に立ちつくしたまま、彼女の動作を一つも見逃さないようにしていた。彼女は思いついたように立ち上がると、僕にすっと近寄ってきた。僕が動けずにいると、そのまま僕の顔に手を近づけ、白い手を僕の頬にあてた。


 「私はあなたを、取り込もうとしている。」


 そう言って、しずくは目線を少し上に向けると、僕の頭のちょうど、バーチャル・リアリティ・ゴーグルをかぶっている辺りに手をかけた。なぜ、と思う間もなく、それは外された。


 次の瞬間、僕は戦慄した。


 僕は現実世界でゴーグルを外されていた。そして、それでも目の前に彼女がいた。


 そんなはずはない。


 ゴーグルが無い、ということは、現実に戻ってきたはずだ。であるならば、仮想現実の住人である彼女が存在するわけがない。はじかれたように、僕は飛びのいて彼女から距離をとった。しずくは、その反応を見て、困ったような、哀しそうな複雑な表情をした。僕は慌てて、部屋のドアに駆け寄り、そっと押し開けた。それは、現実世界のアパートの外へとつながっているはずだった。


 しかしそこは、、、湖だった。水面に静かなさざ波がたった。


 これは、どういうことだろうか?


 ――僕の頭の中が、のっとられようとしている。


 僕はとっさに思考を巡らせた。


 もう一度、頭を触る。そこに、ゴーグルはない。僕はゴーグルを外すことで、いつでもバーチャル・リアリティの空間から、現実世界に戻れるはずだった。いま、その道はとざされている。僕は、この世界から抜け出せなくなった。これが、Shizukuのプログラムの呪いなのか?


 全身の毛が逆立ち、毛穴から嫌な汗が噴き出した。もう一度、部屋の中に視線を戻す。しずくは、僕のベッドに腰掛けて、じっとこちらを見ていた。


 「私はあなたを、取り込もうとしている。これは、私の意志ではないの。」


 しずくが、じっとこちらを見ながら、繰り返した。僕の表情を、確認しているようだ。


 「そして、その結果として、もうすぐあなたに会えなくなる。」


 僕は足元を見て、天井を見て、それから周囲の壁を見た。ゴーグルを外さずに、現実世界に戻るにはどうしたらよいだろう? 僕は必死に思考を回転させた。落ち着け。これはプログラムだ。それを破壊すれば元の世界には戻れる。そのためには、どうすればいい?


 僕はしずくを、じっと睨みつけた。この空間に、閉じ込められるわけにはいかない。大学には行かなくなったとはいえ、生きることそのものを、放棄したわけではない。両親に、友人に、そして交際している恋人に二度と会えなくなることが、よいわけがない。


 空間が、ゆっくりとゆがみ始めた。壁と、天井が丸くなり、境目がなくなった。景色がぐるぐるとまわり始め、僕は意識が遠のくのを感じた。まずい、と僕は思った。このまま、しずくの言うように、僕の意識は取り込まれてしまうのだろうか。何か手段はないのか? 考えろ、考えろ。


 その時、どこからかブーン、という音が聞こえた。


 空から落ちてきたような感覚があり、そして同時に、急に夢からさめた時のような、意識への強い衝撃があった。僕は自分が、椅子に座っていることに気づいた。


 目の前がまっくらだ。ひどく倦怠感がある。


 ぼくはおそるおそる、手をあげて額にあてた。バーチャル・リアリティ・ゴーグルがそこにあった。


 それをゆっくり、上に押し上げると、そこはいつもどおりの僕の部屋だった。隣では、電源が落ちたパソコンが、静かに床の上に配置されていた。


 そうだった。僕はパソコンの電源を、自動的に落ちるように、前もって設定していた。そのおかげで、僕はどうやら元の世界に戻って来られたらしい。


 ――助かった。


 僕は荒い息を整えながら、額の汗をぬぐった。よろよろと床に這いつくばり、仰向けに寝転がる。手の甲を目に押し当て、気持ちを落ち着かせた。もう、部屋の中にしずくはいない。当たり前だ、元の世界だ。


 ただ、不思議な違和感が残っていた。僕は、記憶の一部が欠落しているのを感じていた。僕が、どういう人間だったか、上手く思い出せない。僕は大学生で、一人暮らしをしていた。それからShizukuにアクセスして、、、今、戻ってきた。それ以上の情報が、僕の脳内にはもう、残っていないような気がした。


 コンピュータ・プログラムに、記憶を吸い取られてしまったのだろうか?


 僕は焦燥感にかられながら、ゆっくりと立ち上がると、ベッドの方に向かった。仮想空間でしずくが手にとったものが、そのままそこにあった。読みかけの小説、スマホの充電ケーブル、それから写真立て。


 何気なく、僕は写真立てを手にとった。そこで、僕は再度、全身の血液が逆流するような感覚にとらわれた。


 その写真の中では、僕の横で、しずくが微笑みながら写っていた。


◇◇◇


 それから僕は、二日間、部屋にひきこもっていた。


 Shizukuは何らかの方法で僕の脳内にアクセスし、二つのことを行ったらしい。一つは僕の記憶を破壊、もしくは封じ込め、部分的な記憶喪失に陥れたこと。もう一つは、僕の感覚器官に働きかけて、目に映るものを変化させていること。そうでなければ、ベッドサイドの写真立てのことが説明できない。


 もし、これが一生続くとしたらどうしよう。外を歩いていると、突然、幻覚に襲われるようになるのだろうか? あるいは、と僕は思った。しずくが突然、街中に現れないとも限らない。そうなったら、僕は大声で叫ぶか、走って逃げだすだろう。そんな醜態をさらしたら、僕は周囲から、精神異常者のレッテルを貼られてしまう。


 しばらく、外には出かけられない。僕は頭まで布団をかぶりながら、そう思った。幸い、部屋の中には十分な食料があった。まるで、ここに何日も籠城して、何かを研究し続けることができるように、大量のインスタント・フードが買いこまれていた。きっと、僕の両親が段ボール箱で仕送りしてくれたのだろう。ありがたいことだ、と僕は思った。


 もう一つ、思い出せないのは、つき合っていた彼女の記憶だった。僕のスマホには、頻繁に僕とやりとりしていたらしい、彼女の電話番号が残されていた。きっと、大学に出てこない僕を心配して、連絡をよこしてくれていたのだろう。ただ、何度そこにかけてみても、「この番号は使われておりません」という、無機質な案内が返ってくるだけだった。彼女は僕に愛想をつかして、番号を変えてしまったのだろうか? あるいは、着信拒否か何かの設定をしているのだろうか。僕はうちひしがれて、スマホを床に放り出した。彼女に、会いたかった。彼女の声を聴けば、何かが解決するような気がした。


 その晩、僕は不思議な夢を見た。


 夢の中で、つき合っている彼女が、緊急入院したとの連絡が入る。僕は慌てて、病院にかけつける。真っ白な建物の、真っ白な病室へと入って行く。そこには、意識をなくして、ベッドで眠っている彼女の姿があった。


 僕はそこに近づこうとするが、足が前に進まず、近寄ることができない。彼女の顔は、窓際を向いており、こちらからよく見えない。彼女は一体、どんな表情をしているのだろうか? 思い出せない。


 ああ、僕は自分の恋人の顔をすら、忘れてしまった。彼女の笑顔が、今の僕には思い出せない――。


 目が覚めたとき、僕は泣いていた。


 部屋にひとりぼっちで、何もする気がおきなかった。


 そんな時、あの男達がやってきた。

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