桂正範 その2
「そもそもの話ですけど。」
桂が車の助手席で、頬杖をつきながら言った。
「不老不死ってのは、みんなが望んでいることなんですかねえ。」
運転席に座るのは、技官の新崎だ。安全運転がモットーのようで、あまりスピードを出さない。ハンドルを握りながら、一定時間ごとに几帳面にバックミラーを確認している。
「若くして死にたい、という人間は、やっぱり少ないでしょう。誰だって、長生きはしたい。だから、不老不死を望む人間は多いんじゃないですか。」
新崎は、しごく当然といった表情で答えた。桂と新崎の二人はこのところ、いつも一緒に行動している。この日も、各種の調査資料を相互に確認しあって、捜査方針についてミーティングをした後だった。
「もちろん、長生きしても、体力が衰えない前提ですよ。足腰が曲がり、寝たきりの状態になっても、いつまでも死なない、という状態を望む人は少ないでしょうから。」
新崎は、抜け目なく付け加えた。こういう前提条件を気にするあたりも、いかにも技官という雰囲気がある。
「なんで、みんなこうも、長生きしたいのだろうなあ、、、」
「そりゃあ、色々と人生を楽しみたいですよ。」
新崎が当然のように言う。
「人生を楽しむって言っても、一体、何をするわけですか。」
「この世の『すべて』を、見たいです、僕は!」
新崎の率直な物言いに、桂は思わず笑ってしまった。この男は、自分より数歳若いだけだが、精神年齢はもっと若々しい。自分も見習わなければ、と桂は思った。
「桂さんは、死ぬことが怖くないですか?」
「そりゃあ、怖かったですよ。昔はね。」
「今は怖くない?」
「そうだな、、、」
桂は、不思議と今は死が怖くない自分を発見して、少し驚いた。桂は小学一年生の頃、夜中に泣き出して、ベッドを抜け出し、母親にしがみついたことがある。死のことを考え出すと、言い知れぬ恐怖にかられ、眠れなくなったのだ。それから後も、しばしば死のイメージは桂を悩ませた。大学生の頃には、死について深く考えすぎて、深夜に身の毛がよだつような感覚に襲われ、叫びだしそうになったことをよく覚えている。それほど、「無」になってしまうことの怖さ、自分の存在が消滅することへの不気味さがあった。
だが年齢を重ねるにつれて、その感情は次第に薄れていった。結婚して、さらに子供が産まれてからは、特にその傾向が強まった。当たり前のように日常をこなし、妻と語りあい、子供を育てる。そこになんとなく、人生の意味のようなものを感じたからかもしれない。
「まあ、おっさんになると、、、色々変わるんじゃないですか。」
桂は、つぶやくように答えた。
新崎は、思い出したように、重ねて聞いてきた。
「ヘイフリックの限界、という言葉を聞いたことがありますか?」
「何の限界?」
「『ヘイフリック』の限界です。人間の細胞分裂の回数には、そもそも限界があるという科学的発見です。ガン細胞でもない限り、人間の細胞は、いずれ分裂できなくなってしまう。そのため、人間は八十歳までは生きられても、百五十歳とか、ある一定の年齢以上に長生きすることは不可能だ、という話です。」
「その限界がある限り、いつか人は死ぬんだなあ。」
「そう、そういう話です。人類は、なんと、そもそもの設計段階で、死ぬことを義務付けられている。その強制的な義務を逃れられる人類は、今のところ誕生していない。」
「なんで、そういう設計にしたのでしょうね?」
「それは、やっぱり、遺伝子に多様性を持たせるためじゃないですか。」
新崎は、自身の考えを披露するときは、饒舌になる。
「人類という種を保存するには、多様性があったほうがいい。男性と女性、異なる遺伝子をかけあわせて、ほんの少しだけ、違った遺伝子を用意するわけです。そうしておいて、子供ができた後は、古い方の遺伝子は死んでしまう。こうやって無限の多様性を持っておけば、人類が絶滅するリスクが少ない。」
――人類を絶滅させない為に、俺は死ぬのかあ、と桂は思った。
「人類のせいで死ぬ、、、というと、嫌な感じもあるけれど、子孫のために死ぬということなら、まあ、ちょっとは許せる気もしますね。」
「桂さんは、お子さんの為なら喜んで死ねる、というタイプですか?」
「まあ、『嫌々ながら』死ぬかな。本心は、やっぱり死にたくないですよ。でも、世の中がそういうものなら、まあ、嫌々ながら、失礼させて頂きますという感じで。」
桂はおどけた調子で、肩をすくめながら言った。新崎はそれを見て、ふふ、と笑った。
サイバー犯罪対策室は、言ってしまえば警察の中でもエリートの部類が配属される部署だ。それなのに、桂にはまったく気取ったところがない。常に現場主義で、捜査も現実的な方針を貫いている。チームを組んでから数日しか経っていないが、新崎はこの先輩刑事に、尊敬まじりの好感を抱いていた。
「それにしても、例の天才科学者が、亡くなっていたのは残念でしたね。」
新崎が思い出したように言った。
「不老不死の研究をしていた張本人が、なんともあっさり亡くなったわけだ。」
「捜査の観点からも、マイナスですね。」
桂と新崎はその後、捜査の末に、問題の「天才科学者」にたどり着いていた。慶京大学準教授の、桐谷圭介という人物が、該当すると思われた。早くから意識の研究で成果を上げており、学会では脳機能学の第一人者として知られていたという。都市伝説と同様、早くに妻を亡くしており、娘が一人いる。娘の名前は静久といった。しずく――という読みは、Shizukuの名前ともぴったり一致する。
静久は、大学三年生の春に交通事故に会い、頭部に外傷を負っていた。警察の記録によれば、飲酒運転のトラック運転手にはねられたもので、娘の側に何ら過失はなかったという。この外傷により、遷延性意識障害――つまり、植物状態と呼ばれる状態となった静久は、そのまましばらく生存していたが、最終的に肉体が衰弱し、多臓器不全で死亡している。事故から約四年後には、桐谷圭介もまた後を追うように、この世を去った。妻と娘を失ったことで、失意の底にいる四年間であったことは、想像に難くない。死因は脳梗塞、とのことだが、実際のところはよく分からないらしい。今をさかのぼること、一年ほど前のことだ。
「妻と娘をなくし、しばらくして本人も突然死したら、そりゃあ、妙な噂も立つわなあ。」
「そうですね、、、。桐谷の研究の成果は、先ほどもお話した通り、研究室や自宅等に散逸してしまって、まとまった形で残っていません。従って、その研究の中に問題のプログラムである『Shizuku』があるかどうかは、不明な状況です。ただ当時、桐谷と一緒に研究を行っていた助手がいるということで、今回、彼を訪問しようとしているわけです。」
この助手こそが、捜査上のキーパーソン、ということになる。現在二十六歳で、都内で独り暮らしをしているとのことだった。彼と直接会うことで、謎めいたコンピュータウイルスの、核心に迫る情報が得られる可能性があった。ひょっとすると、事件が一気に解決に向かう可能性すらある、と桂は思った。
ただ一方で、助手がウイルスをばら撒いた張本人である可能性も、否定できない。そう考えると、慎重に行動する必要がある。
「この助手も、研究者としての才能に恵まれた人物のようですが、一方で、人格的にはわりとクセのある人物のようです。」
「科学者は、そういうのが多いな!」
桂は、助手席の窓の外を眺めながら、気楽につぶやく。
「捜査員が周辺の聞き込みによって得た情報によると、既に、大学は辞めています。その後はバイトをしながら生活しているようで、生活費を稼ぐ以外は、家に閉じこもるような感じで生活しているようですね。また、参考までにですが、この助手は、実は桐谷圭介の娘と恋仲にあったとも噂されています。」
「へえ。恩師の娘に手を出したわけですか。結構、勇気のある男だ。」
「そのために、桐谷静久が植物状態に亡くなった後は、熱心に彼女の意識を探る研究を手伝っていたとのことです。何しろ、自分のつきあっていた恋人ですからね。」
桂はそれを聞くとため息を履いて、しんみりとした口調で言った。
「かわいそうに、、、その助手も、随分つらい思いをしたんでしょうね。」
それから桂は黙り込んで、なんとなく物思いにふけった。
さきほどの会話で新崎は、人間に寿命がある理由は「人類という種を存続させるため」だと言った。それは、人類全体の決定事項であり、けして覆すことのできない、絶対的な規則といえるかもしれない。
個体レベルの人間は皆、種として定められたそのルールを、守らなければならない。ただし、それに逆らおうとした科学者が、少なくとも二人いた。桐谷圭介と、その助手だ。片方は娘への愛、もう片方は恋人への愛情によって、原理原則を必死に覆そうとした。
そういう人間に、我々は会おうとしているのかもしれないな。
車の外の流れる景色を見ながら、桂は少し、センチメンタルな気分になっていた。